「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命」松尾 剛次著

中国や韓国の仏教は日本ほど葬送にかかわることなく、葬儀は儒教や道教、シャーマニズム、あるいは無宗教的な手法で行われるのが常であるという。日本の仏教が葬式仏教として葬送儀礼に深く関与するようになったのはなぜか、本書ではその仏教革命ともいえる日本仏教の葬式仏教化の過程が解き明かされる。

結論からいうと仏教の僧侶が組織的に葬送儀礼に関るようになるのは鎌倉仏教教団が本格的に社会的影響力を持ち始める十三世紀~十五世紀ごろのことで、檀家制度や諸法令などが整備されていく江戸時代の十七世紀~十八世紀以降やっと葬式仏教が確立する。

それ以前は、仏教の僧侶たちは葬儀に対してはかなり消極的だった。古代から中世にかけて穢(ケガレ)忌避の観念は制度化され、僧侶たちも非常に強く穢れを避けることを意識していた。死穢は「死体に触れたり、葬送、改葬、墓の発掘などに携わったために生ずる穢れで、その穢れに触れた人間は普通、三〇日間、神事や参内(内裏へ参ること)などを忌み慎むことになっていた」(松尾P42)という。また穢れは伝染すると考えられており、死穢に関与することは当時の人々にとっては可能な限り忌避したい事柄であった。当時の僧侶はほとんどが官僧で、朝廷に仕える限り天皇の周りを清浄に保つため穢れ忌避は義務であった。

天皇や高級貴族たちの葬儀は僧侶が関与していたが儒教式の次第で執り行われ、また本書ではなく山本幸司著「穢と大祓」によると遺体の処理は僧侶ではなく、十世紀ごろまでは一定の専門職が決まっておらずその時々に応じて命じられ、十一世紀ごろからは検非違使が管掌するようになったが、その指示下で直接の作業の担当者は一定せず様々な呼称の人々が関与していた。その担当者が河原者、非人に収斂するのは十五世紀のころだという。すなわち、葬儀が行われるのは一部の貴族以上の人々に限られ、僧侶も穢れ忌避の観念から必要最低限の関与にとどめ、他に関与する人は定まっていなかった。

では通常はどうかというと庶民は風葬・遺棄葬のかたちをとるのが常であった。死んだらポイ捨てというわけだ。葬送されない死体は河原・道路・橋のたもとなどに運ばれて捨てられた。いわゆる賽の河原で、京都や鎌倉などを中心に全国に遺棄葬の場所とされた場所が点在する。これは密閉された空間では死穢の伝染の問題があるが、開放された空間では触穢の問題が発生しないからだった。庶民だけでなく僧侶や、貴族の家で働く下人なども死亡した場合は河原に捨てられていた記録が残っているという。

次第に穢れという禁忌を犯してでも慈悲心から庶民に葬儀を施し、遺体を埋葬しようという僧侶や、死亡した時にお互いの葬送を行おうという共同体が誕生するなどの動きが平安末期ごろから見られるようになった。十二~十三世紀にかけて官僧にならずに修行を行う遁世僧という仏教者たちが登場し、彼らは教団を形成、それぞれ独自の理論で穢れ観念を克服し組織的に葬送に従事するようになる。

厳しい修行で知られた律宗の僧侶たちは『「清浄の戒は汚染なし」,言い換えれば、我らは日々厳しく戒律を護持しており、それがバリアーとなってさまざまの穢れから守られているのだ』(松尾P95)という論理をたて、法然の浄土宗など念仏僧たちは「往生人に死穢なし」、つまり極楽往生した人の遺体は死穢が発生しないと主張した。浄土宗は念仏者はすべて往生人となれるという思想であるから、浄土宗の信徒であれば誰でも葬儀を行うことが可能となった。また禅僧たちも死穢を気にしなかったらしいが、その理由ははっきりしていないという。彼らは中国から葬儀儀礼を輸入して在家信者に転用し、棺に遺体を座らせた状態で入れる、戒名を授けるなどの制度を独自に始め葬儀のルーツの一つとなった。

仏教伝来以前から中世ごろまでは「この世とあの世とが区別されず、この世の延長としてあの世が捉えられていた」(松尾P74)が、末法思想の流行による阿弥陀信仰の隆盛によって「この世と隔絶したあの世観」(松尾P75)が登場、人びとは輪廻の苦しみから逃れて現存する唯一の仏である阿弥陀の救済を求めて極楽浄土や兜率天浄土などへの往生を望むようになる。と同時に弥勒信仰もまた広がっていた。五十六億七千万年後に弥勒が仏となって兜率天から下生し衆生を救うという信仰で、その弥勒下生によって成仏したいという信仰である。この阿弥陀信仰と弥勒信仰とが十二世紀ごろまでには密接に混淆していたという。つまり死後すぐに輪廻の苦しみから逃れて阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、五十六億七千万年後の弥勒仏の下生の際に弥勒仏の竜華三会によって救済されて成仏したいという信仰が広がっていた。

石造の墓や塔が建てられるようになったのはこの阿弥陀・弥勒混淆信仰と大きくかかわりがある。寺院に石造墓が作られて詣でる習慣が始まったのは十二世紀後期から十三世紀のことだという。これは五十六億七千万年後の弥勒下生の際、霊魂の依り代である骨がどこにあるかがわかるよう、当時としては固く長持ちする物質である石を使って目印として墓が作られたのだという。石造墓や塔の下には銅製の骨蔵器が埋められ、さらに分骨することで、どれか一つ埋められた場所が分からなくなっても大丈夫なように注意が払われた僧侶の墓もあった。五十六億と七千万年後にあなた(弥勒)と合体したかったわけだ。

このような過程を経て十二世紀に登場して葬送儀礼の担い手となった鎌倉仏教諸派が十五世紀から十六世紀にかけての戦国時代に日本中に浸透していき、十七世紀初頭の江戸幕府成立時に寺院設立ラッシュが起きる。この多数建立された寺院の統制のために幕府は元和元年(一六一五)寺院法度を出して本寺末寺制度を確定、寛永八年(一六三一)年新寺建立を禁止、寛永十二年(一六三五)、民衆一人一人がキリシタンでないことを寺院に証明してもらうことを義務付けた寺請制度が全国に導入され、島原の乱を経て寛永十七年(一六四〇)、キリシタン調査である宗門改めを全国の寺院に命じ、このキリシタン(や不受布施派などの邪宗門)弾圧の過程で人々を菩提寺と檀家関係を結ばせる檀家制度が展開した。元禄十三年(一七〇〇)、檀家制度が全国的に確立し、一家一寺檀制がなされたのは寛延二年(一七四九)のことである。人々の救済を目指し社会変革運動として始まった葬式仏教化の運動は、こうして人々の信仰の自由を奪いながら統制手段として全国に拡がることとなった。

と、このように社会革命としての葬式仏教誕生の過程がコンパクトにわかるだけではなく、当時の文献からの引用も多く、中世の様々な信仰やそこから垣間見える民衆の生活、あるいは死生観などが伝わってくる良書だった。

末木文美士も「日本仏教史」で葬式仏教の成立過程についてドイツ宗教改革と比較して近似した点があることを指摘している。第一に世俗化、第二に科学的世界観とまではいかないものの洋学などの新しい世界観の模索、第三に価値観の多様化などを挙げ、旧来の葬式仏教を堕落とする見方に異を唱えている。さらに挙げるなら、日蓮宗にしても浄土宗にしてもプロテストとしての側面が強かったし、日蓮とルターはよくその人物像が比較されるようにも思う。また、ルター派やカルヴァン派が諸侯の権力と融合していく過程と、鎌倉仏教が諸大名や幕府の権力と融合していく過程も似たものがあるかもしれない。

西欧において近代をもたらすことになった主権国家という概念は政治と宗教の分化がその端緒となったが、日本において仏教が葬式仏教化したのはそれとよく似た現象であったのかもしれない。世俗化の過程でキリスト教は政治、経済、教育などそれまで包含していた機能を喪失したが、その結果死生観や人の生き方など「各個人の内面的世界を規定する機能に特化し」(正村P134)、あくまで「私的領域の中で成立」(正村P134)するようになった。

日本においては「近代」はついに生まれなかったが、政治権力・権威と一体化した鎮護国家という秩序から逸脱し、「各個人の内面的世界を規定する機能に特化し」ようとする運動が葬式仏教化という形をとって現われたのかもしれない。それが再び政治権力の下に編成された過程は何かの皮肉か、あるいは歴史の必然なのかわからないが、その大きなうねりは確かに現代にいたるまで多くの人々の死生観に影響を与え続けてきた。

一方で現代においては葬式仏教を取り仕切る僧侶や仕組みそのものへの批判も大きい。世俗化の果てに伝統宗教への信仰が薄れゆく中で、先祖代々の墓に入ることに僕自身違和感を持ってもいるし、自然葬など死に方も多様化しているという。世俗化ゆえの伝統宗教からスピリチュアリティやアイデンティティを重視する信仰へと大きく移りゆく中で、死生観を巡っては確かに変革に向けた過渡期にあるのだろう。成仏ではなく再び人として輪廻することをこそ望む人が多くなっているようにも思う。これ密かに日本宗教史上初の出来事、死生観の一大転換だろう。どのような宗教観が形成されるのだとしても、葬式仏教の誕生の過程を理解し、記憶にとどめておくのは非常に有意義なことだと思う。

信仰はやがて消え、人びとの切なる救済の願いを示す石造りの墓だけが、静かに残り続ける。五十六億七千万年後のその時まで。

参考書籍

・山本 幸司著「穢と大祓
・末木 文美士著「日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
・正村 俊之著「グローバリゼーション-現代はいかなる時代なのか(有斐閣Insight)」

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