アラブ世界の大部分を支配し、多宗教、多文化、多民族が共存した寛容の帝国にして西欧キリスト教世界に恐れられたオスマン帝国、その全盛期を現出した諸制度・社会構造を「柔らかい専制」として概説したオスマン史の入門の入門として最適な一冊。新書としては異例な初版から二十年以上に渡るロングセラーとなっている。
『「柔らかい専制」は、”ゆるやかな統合と共存のシステム”と、それに外部から「鉄のたが」をはめる”強靭な支配の組織”からなりたっていた』(P252)。本書では、その「柔らかい専制」の体制が成立していく過程が歴史の流れにそって解説されていく。
広大なオスマン帝国はさまざまな宗教、文化、人種が混在しており、この多様性を保護する仕組みとして、非ムスリムの異教徒たちを宗教共同体(ミレット)ごとに自治的生活を送らせ、共存させる体制「ミレット制」が整えられた。貢納の義務を除いては待遇や出世等に違いがあるわけではなく、また個々のミレット間での対立があったとしても、オスマン帝国がその権威とイェニチェリと呼ばれる常備軍を中核とした軍事力を背景にして仲裁を行い、それらを機能的に運用する官僚機構と宗教や言語、文化に関らない人事登用制度が多様な帝国を支える原理として機能していた。
この多様性はオスマン帝国独自のものというよりはイスラム教が根源的に持っていた特徴を高度に実践したものと言える。イスラム世界の秩序観では、世界はムスリムの支配下にある「イスラムの家」と非ムスリム下にある「戦争の家」とに二分類され、その「戦争の家」を「イスラムの家」に包摂していく「聖戦」が重視された。「聖戦」は現代人がイメージするような戦争と殺戮ではなく、基本的には精神的な鍛練を意味する。「聖戦」が現代的な意味に変わるのは本当につい最近のことだ。キリスト教世界のような、異教徒=非ムスリムの存在を許さないというものではなく、イスラム的秩序下で諸宗教が共存することを目標としたものであった。
このような二分法的世界観は後に近現代になってイスラム世界が行き詰るとテロリズムの論理へと転化して行きもするのだが、十六~十七世紀ごろまでは多様性を土台から支えるイスラム教の世界観として働いていた。
世界史にとって不幸だったのはこの「柔らかい専制」を支えたオスマン帝国の諸制度が行き詰る過程と西欧世界の急速な近代化による対外的な膨張の過程とがぴったりと重なり合ってしまったことなのだろう。「柔らかい専制」によって共存していた多様な文化・宗教集団はその制度の衰退の過程で「西欧の衝撃」に直面し分裂と独立を繰り返して、旧オスマン領であるアラブ世界を現代まで続く民族・宗教紛争のるつぼと化していく。
多様性、という言葉がより重要度を増していく現代において、一度オスマン帝国に立ち戻っておくのは非常に有益なことであるし、その入門としてこの本は最適だろう。