「八月十五日の神話」佐藤 卓己 著

八月十五日は何故「終戦記念日」なのか。通常終戦は休戦協定の締結を指すため、太平洋戦争の終結は重光葵外相・梅津美治郎参謀総長がミズーリ号上で降伏文書に調印した一九四五年九月二日となり、これは米国の対日戦勝記念日を始めとして国際的な標準である。国内的にポツダム宣言受諾が決議された八月十四日ですらなく、ただ単に玉音放送がなされただけの八月十五日が終戦記念日とされ、国際的な公式の終戦日である九月二日は日本では完全に忘れ去られている。

この本は、玉音放送を巡る一枚の報道写真をきっかけにして、八月十五日が終戦記念日となっていく過程を描き出すことで、戦後のメディア、政府、知識人そして国民が一体となって築いた虚構と、メディアリテラシーとは何かを問い直す一冊である。

この本によれば、八月十五日が全国的にお盆となったのは比較的新しい。明治五年(一八七二)、太陽暦導入以降「七月十五日」の解釈を巡って政府は新暦七月十五日へのお盆移動を進め都市圏で新暦七月にお盆行事が行われたが、一方で地方では「民衆の伝統的な生活感覚」から八月に旧暦、月遅れという形でお盆行事が行われ、一九三〇年代までは分裂した形だったという。次第に都市圏でも地方出身者の帰省などに合わせて八月にお盆休みが取られることが一般化し、ラジオでもお盆番組の編成が七月十五日から八月十五日へとシフトし始める。一九三九年、それまで七月と八月と二度行われていた満州事変の戦死者追悼番組が八月十五日に統一され、盂蘭盆会法要番組と戦死者追悼番組が合体。高校野球中継、盆踊り中継とともに八月十五日特有の「八・一五英霊祭祀」番組編成が全国的に敷かれ、八月十五日にお盆行事と共に戦死者を弔う習慣が浸透していった。

太平洋戦争後、GHQ統治下においては戦中に行われていた八月十五日の戦没者慰霊番組は自粛され、メディアでは九月二日が降伏調印記念日として報じられていたという。八月十五日を終戦記念日とする動きが表面化するのは占領末期、サンフランシスコ講和会議直前で、「読売新聞」が八・一五イベントを始めたのを先駆として、一九五一年九月二日の新聞記事から突然降伏に関する記事が無くなり、講和条約発効後の一九五二年八月十五日「朝日新聞」がこの日を「終戦記念日」とする記事を掲載し始める。一九五五年八月十五日には終戦十周年として新聞・ラジオなどメディアで大々的にキャンペーンが開始され八月十五日の玉音放送で終戦を迎えたという論調一色になり、それまで触れられることが無かった八月六日の広島原爆投下とともに『八月六日の被爆体験に始まり八月十五日の玉音体験に終わる「国民的記憶」がメディアによって再編成されていった』(P116)。

九月二日が八月十五日にすり替わっていった心理として九月二日が『当時の日本人にとって「屈辱の日」であ』(P88)って、『この「九・二降伏記念日」を忘れたい』(P88)という思いを政治指導者を始め多くの人々が共有していた点を指摘する。一九四五年九月二日、トルーマン大統領はミズーリ号での降伏調印後こう演説した。『東京への道は遠く且つ血腥いものであつた。われわれは真珠湾を決して忘れず、日本の軍国主義者たちはミズーリを忘れないであらう。』(P82)。九月二日が降伏記念日である限り、その屈辱と直面しなければならない。彼らはその苦痛と向かい合うのではなく、忘却して、新しい終戦の物語を構築する方向へと向いた。GHQの統治が終わり、要人たちの公職復帰が行われていく過程で、保守勢力が台頭し、政権を握る。五五年体制の確立と同時進行で九月二日という日付がフェードアウトし、八月十五日の「玉音放送」を終戦の象徴とするコンセンサスが出来ていく。

この八月十五日を終戦とする神話は保守派だけのものではなく、進歩的な人々の間でも共有されるものだった。戦後思想の巨人丸山真男は一九四五年八月十五日を「日本軍国主義に終止符が打たれた」「無血革命」の日として日本が「平和主義の最先進国」になったとする「八・一五革命」論を唱えた。八月十五日を戦前と戦後との断絶の日とする戦後民主主義の起源神話の創作であって、この神話に基づいて丸山は自身の記憶すらも書き換えていることが指摘されている。丸山はこう語っているという。『大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。』(P257)。この姿勢が彼らに敗戦という事実と向かい合うことを不可能とした。

『進歩派の「八・一五革命」は保守派の「八・一五神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。それを制度化したのが(略)「記憶の一九五五年体制」であり、八・一五終戦記念日にほかならない。』(P256)

一九六三年五月十四日に池田内閣で「全国戦没者追悼式実施要項」が閣議決定され、八月十五日の終戦行事が公式なものとなる。その後、一九八二年四月一三日、鈴木内閣で正式に終戦記念日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として閣議決定された。その間、ラジオに代わってテレビがメディアの中心となって九月二日を覆い隠す一方で八月十五日に終戦番組を集中させた編成を行い、日本独自の終戦記念日の「国民的記憶」が創出され浸透させていった。メディアだけでなく学校教科書も八月十五日神話から自由となれず、長く八月十五日終戦、九月二日に言及しないとする教科書が主流となる時期が続いた。

終戦記念日が制定された一九八〇年代は、世界的にも記念日が多く制定される「記念日カルト」の流行が見られていたという。その背景にはグローバリゼーションの進展と旧来の福祉国家の行き詰まりを前提とした保守化の波があり、『歴史的記念日を利用した国民統合アイデンティティの再編を国民国家に迫っていた』(P121)。日本でもその世界の潮流の中に位置づけられる。

終戦記念日制定の背景には靖国問題が存在していた。一九七八年、靖国神社がA級戦犯十四名を合祀したことに始まる公式参拝問題の政治問題化の流れの中で野党側のいう「反戦・平和の国民的決意の日」(共産党)とA級戦犯合祀後の公式参拝を進めたい与党側の「戦没者追悼の日」との政治的妥協の産物として「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となった。この終戦記念日制定後の一九八二年六月には中国・韓国との間に歴史教科書問題が勃発、一九八五年八月十五日、中曽根康弘首相が戦後初の終戦記念日靖国神社公式参拝を敢行と、七十年代の低迷から経済的な復活を遂げてバブル期直前の自信を深めつつあった日本は保守化を強めることでその強い日本としての国家アイデンティティを獲得しようとしていた。この頃、現在の保守的な主張やテーマの原型が出揃っていくことを考えれば、一九八二年の「終戦記念日」制定前後の流れは大きな意味を持っていたと言えるだろう。

八月十五日終戦記念日の制定は周辺諸国にも影響を与えることになった。九〇年代以降それぞれナショナリズムが高まる中国、韓国がどちらも終戦について八月十五日を重視する傾向を強め始めているという。中国は九月三日を抗日戦勝記念日と定めているが、一九八五年八月十五日の中曽根首相靖国神社公式参拝を契機として八月十五日に政治イベントを移動させており、中国の歴史教科書の記述も「国際標準」から「日本標準」へとシフトさせているという。韓国も独立記念日は八月十三日だが、これとは別に植民地支配からの解放の日として八月十五日を光復節と定めている。この理由は一九四五年八月十五日が「日本の無条件降伏」(P219)の日であるとしたもので、韓国の歴史的経緯とは関係なく日本の基準にあわせたものとなっている。中国・韓国にとって八月十五日前後に戦争を語ることは国内のナショナリズムを鼓舞して国民統合を図る良い道具となっている。

『「八月ジャーナリズム」は「お盆=戦没者追悼」という極めて日本的心情の枠組みで行われている。「八・一五終戦」は真夏の同床異夢となり、歴史認識の溝を埋めるどころか、かえって大きくしてきた。』(P222)

終戦後、一致団結して九月二日を忘却し、八月十五日を終戦記念日とする虚構を選択したことで、敗戦は終戦にすり替わり、反省するのではなく、ただ平和を希求するという心性を育んできた。忘却は確かに日本を一心不乱に前に進ませたのかもしれないが、一方で本当に前に進んでいたのか、むしろ、その心性は袋小路の中をぐるぐると彷徨っているだけだったのではないか、という疑問は湧かざるを得ない。

著者は八月十五日を死者の慰霊供養を行う「戦没者追悼の日」、九月二日を近隣諸国と歴史的対話を行う「平和祈念の日」として終戦記念日を分割する案を唱えているが、果たしてそれが適切なのか、個人的にまだ判断はつかない。ただ、これまで積みあげられ、知らず知らずのうちに我々を呪縛してきた虚構「八月十五日神話」とそれを生み出した歴史的経緯、心性はそろそろ正面から向かい合う必要があると思う。

同書から、主婦之友社社長・石川武美氏の一九四五年九月一〇日の言葉を最後に紹介しておく。

『敗戦は耐へがたい悲しみではあるが(略)、昭和二十年九月二日の降伏調印の日を、われわれは二十年三十年後においても感謝の日とせねばならぬ。それをなし得ぬなら日本民族の真の屈辱であり、滅びである。』(P82)

時世を表したナショナリスティックな言い回しではあるが、敗戦という事実を正面から受け止めようという誠実さが感じられる。彼の言葉を受けて問わねばならないだろう。

何故我々は九月二日を忘れたのか?

追記、本記事はちくま新書版を読んでの書評ですが、ちくま学芸文庫から増補版が出ています。

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