フランスの社会学者によるアメリカの多文化主義の歴史と議論の全体像を描いた一冊。
近代以降の多文化主義が生み出されるまでの大きな歴史の流れについては、同書の翻訳者でもある三浦信孝氏の解説に過不足なくまとめられているので、少し長いが引用する。
『近代は個人を封建的な身分や共同体の絆から解き放ち、自由で自立的な市民を創造する一方、宗教的権威と結びついた王権を倒し、非宗教的で中立な政治空間として公共性を確立する一大プロジェクトだった。「市民」とは民族や宗教の属性をはぎとられた抽象的な政治単位であり、具体的な差異を捨象した平等なモナドとしてネーションを形成し、その均質性を保証する。しかし、法の前に平等な市民からなるはずの国民国家は、現実には人種、階級、性、宗教、言語などの違いによる差別を構造として含まざるを得なかった。普遍的な人権概念によって、そうした差別を克服していくことが、まさに近代性の課題だったが、現実の国民国家形成はマジョリティ(白人、男性、ブルジョワ、キリスト教徒)の文化的価値を国民統合の中核に据え、さまざまな種類の少数者を支配的文化に吸収し同化してきた。
二十世紀も末近くになって起こった多文化主義は、西洋中心の国民国家形成という近代のプロジェクトに対する異議申し立てであり、その引き金となったのは、西洋列強による植民地体制が崩壊したあとにおこった、国境を越える大量の人口移動である。西洋列強が世界の残りを分割して統治し、内では市民の自由・平等を原理とする民主主義を建設し、外には植民地の原住民や従属民を抑圧支配するダブルスタンダードが、ポストコロニアルのグローバル化時代にはもはや維持できなくなる。外から流れ込む民族と文化を異にする「他者」が、同化されていたはずの内部の少数者のアイデンティティをめざめさせ、近代が掲げた「普遍性」は、マジョリティによる単一文化支配を偽装する論理として審問に付される。政治的公共性の空間に文化的「差異」がもちこまれたのである。』(P171-172)
このような「近代性」を問い直す試みとしての多文化主義という運動が何故、米国で起こったのか?著者センブリーニは米国における多文化主義の歴史文化的な起源とその特殊性、多文化主義が台頭する過程での社会的・経済的変動を経て、教育問題、ジェンダー論争、アイデンティティの要求といった多文化主義的論争の課題をまず解説していく。
続いて、多文化主義論争が提起する『言語の役割や「主体」の構築、アイデンティティの理論、現実と認識の概念に関る問題』(P8)など複雑な理論的問題を示し、その糸口として「ポリティカル・コレクトネス」を巡る『単一文化的な認識論と多文化的な認識論の葛藤』(P8)が概観される。
そしてそれら多文化主義論争を巡る対立がポスト工業化社会において進行中の社会変動を体現するものであり、公共空間がどのように危機にさらされ、多文化的空間への変容を迫られていながら、現行の社会空間の諸モデルが多文化的な空間たりえないことを分析した上で、多文化主義が「近代性」への挑戦であり、『近代の「普遍性」に「差異」の問題を提起』(P9)する必然的な帰結であることを描いている。
『確かにアメリカ社会に浸透している多文化主義的論争は、成長のための危機であり、多様かつ複数となった社会に順応するための苦渋にみちた抵抗を伴う努力の兆候にすぎないかもしれない。だが、個別的状況の違いを除けば、多文化主義がすべての現代社会に突きつけている基本的問題は一つだけ、すなわち近代性の問題である。差異と同一性、平等と正義、相対主義と普遍主義、合理主義と主観性、市民性、倫理、法、これらのものは、われわれになじみ深いものだ。近代的投企の分類そのものが、全般的に見直されようとしている。社会的政治的挑戦、論理的哲学的挑戦を超えて、われわれに多文化主義が突きつけるのは、まさに文明の挑戦なのである。』(P169-170)
昨今多文化主義の行き詰まりといった論調を見かけたりもするが、この本を通して見えてくるのは、多文化主義論争・政策というのはそのような一過性の現象なのではなく近代そのものであり、現代社会が必然的に向かい合わざるを得なくなっている根本的な課題であるということだ。近代を経て構築されたマジョリティの幻想・虚構が直面する多文化主義的要求の中で新しい社会、新しい公共、新しい市民、新しい個人というものといかに展望していくか、その解決に向けた長い長い模索の過程に立たされているということだろう。
ただし一七〇ページとコンパクトな分量の本なのでもちろんこれ一冊で全てが分かるという類のものではなく、全体像を把握する概論という位置づけで読むものだ。訳者も指摘している通りリベラル・コミュニタリアン論争などには触れられていないため、米国の多文化主義の全体像というには若干画竜点睛を欠く印象もある。ただし、要点を押さえて、各々かなり深いところまで考察されているのでなかなか歯応えがあると思う。特にポリティカル・コネクトネスの問題を巡る賛成派・反対派双方の認識論・限界の考察や、多文化主義論争における単一文化主義と多文化主義との違いを思想や認識論まで掘り下げて分類しているあたりはかなり深くて面白い。
多文化主義とは何か?というテーマに興味をもっている人なら一読の価値がある一冊だと思う。