その後の東京という都市のあり方を方向付けた東京駅誕生の過程を、鉄道技術の輸入から明治政府によって鉄道敷設が実行に移され、鉄道網が全国に張り巡らされることで東京駅が必然的に建てられることになり、それによって東京という都市が誕生し変貌し成長していくまでの鉄道と都市の百年史を、東京駅誕生をターニングポイントとして描いた一冊。
明治五年の新橋横浜間の路線完成以降、次々と鉄道網が都心部に整備されたが、都市のグランドデザインが無いままに敷設されていった結果、明治二〇年ごろまでに交通の不整備が露呈してくる。特に新橋駅は道路網の起点である日本橋や、都市の中心である皇居から遠く、また東海道線は新橋から出発するのに対し、東北線は上野からでその間六キロ余り日本の鉄道網接続の空白地帯が生まれていた。そこで都心の鉄道網とともに日本全国の鉄道網も結ぶ「中央停車場」建設構想が浮上する。
ドイツ人技術者ヘルマン・ルムシュッテルは当時工事が進められていた新橋秋葉原間の路線を赤レンガ造りの高架鉄道として建設する計画を実施し、あわせて中央停車場をパススルー(通過)方式の始発駅とする計画を立案した。この案を前提として、明治三十一年に来日した同じくドイツ人技術者のフランツ・バルツァーによって中央停車場と都心および日本全国を視野に入れた大規模な鉄道網整備構想が立てられる。都心中央に位置する新駅は東海道線と東北線を結び、山手線に連結し、総武線と中央線を乗り入れて通過させる。さらにこれによって日本中の鉄道網はこの新駅に集約される、という画期的なものだった。
このバルツァー案を元に中央停車場の建設が実施されることになり、その駅舎の設計を行うことになったのが日本銀行本店建物の設計を担うなど日本近代建築の父と呼ばれることになる第一人者の辰野金吾であった。明治四十一年、行政組織の改編があって内務省帝国鉄道庁と通信省鉄道局が統合されて鉄道院が新設、その初代総裁に後藤新平が就任する。その後藤の強い支援で辰野は丸八年かけて三階建てとなる当時としては日本最大の建築物となる中央停車場の設計を行った。
辰野が設計した中央停車場は敷地面積六万五三〇〇坪(二一万五四九〇平方メートル)、建築面積二三四一坪(七七二五・三平方メート)、全長三三四・五メートル、地上三階地下一階、屋根の最高位置となる棟高三八メートル、南端と北端に備えられた二~三階を吹き抜けとした両ドームは先端の高さが四九メートルにも達する。
その中央停車場の建築を請け負ったのが大林芳五郎率いる大林組である。大林芳五郎は若干二八歳で土木建築請負業を創業して以来二〇年、関西で活躍していた新興の業者で東京進出の足掛かりとして東京駅建築の入札に参加、並み居る大手を押しのけて落札したのだった。彼が名を知られることになったのが日露戦争の捕虜収容所建設で、捕虜収容所といっても当時列強の仲間入りをするべく邁進していた日本にとって、中途半端な施設ではなく国際法を順守した良質な施設にせねばならない。二万四〇〇〇名の捕虜、二〇〇名ずつ収容の一〇〇施設、しかも工期は三週間。通常その三倍はかかるもので多くの業者が敬遠するなか、芳五郎はそれを請け負い、見事完成させてみせた。そのベンチャー企業的な挑戦的な姿勢が東京駅建築にいかんなく発揮された。
中央停車場建設工事は明治四十四年(一九一一)三月に始まり、膨大な資材と人員が投入されて大正三年(一九一四)三月に完了、駅舎総工費は二八二万二〇〇五円で、現在の貨幣価値に直すと二〇〇億円~二七〇億円と推定されているが、現在同額を投入しても同じものは作れないだろうとされている。
工事完了から九か月後の大正三年一二月一八日、東京駅開業式典が開催された。中央停車場が東京駅という名前に決定されたのはその二週間前の一二月五日で、それにあわせて従来の停車場という呼称が駅に変わる。東京駅開業式典はこの年始まった第一次世界大戦で青島攻略に成功した日本軍凱旋帰国式典も兼ねており、帰国した日本軍将兵を歓喜で迎えた。
この東京駅が出来たことで、後に山手線が環状運転されることになり、鉄道という巨大流通網が機能し始めることで人が増え、企業が増え、仕事が生まれて東京が巨大化していった。東京という巨大都市を生み出す最大のインフラとなった鉄道網の中枢に東京駅が位置していた。
この本では上記で紹介した東京駅誕生の過程をより詳細に描いているだけでなく、その前史となる鉄道が日本に輸入されて広がっていく過程と、東京駅が誕生してからの東京の都市の拡大、関東大震災や戦災を経てのさらなる飛躍などその後にも多くページが割かれており、東京駅誕生の物語というよりは東京駅を中心とした日本鉄道史・東京史の様相でもある。
現在東京駅は大規模な修復が進み、二〇一二年十月には修復工事が完了してリニューアルオープンになると言うが、その修復は戦災で負った被害を全面改装せずに補修に補修を重ねて使い続けてきた限界が来たことから行われているものだ。リニューアルを前に東京駅の歴史をさかのぼってみるというのは、とても興味深いことだと思うし、また東京駅から眺める日本の歴史という点でもとても面白いと思う。