「殉死の構造」山本 博文 著

江戸時代初期、武士たちの間で主君の死に殉じて家臣が切腹して果てる「追腹」とよばれる自殺行為が多く見られるようになった。一般的に殉死は忠義の心から出るものと認識されているが、著者は史料を丁寧に読み解いていくことで「追腹」が忠誠心によるものではないということを浮き彫りにしていく。

史上最初の追腹は明徳三年(一三九二)、管領細川頼之の死に殉じて切腹した三島外記入道であったとされる。戦国時代を通してまれに見られるこの追腹は徳川幕府成立後、急速に流行しはじめる。『流行そのものが江戸時代初期の特質』(P234)であるという。慶長十二年(一六〇七)松平忠吉に殉じて五人の武士が自殺したのを皮切りに、以後、主なものだけでも島津義久の死に一五人が殉じ、鍋島直茂一二人、島津義弘一三人、伊達政宗一五人、細川忠利一九人、鍋島勝茂二十六人と主な君主の死に家臣たちが多く死を選んで行った。

殉死した家臣たちに共通する特徴として第一に挙げられるのが死んだ主君と衆道(男色)関係にあった者が多いということである。近世最初の殉死である松平忠吉の五人の殉死者のうち二人が忠吉と男色関係にあり、他の主君の例でも、例えば伊達政宗に殉じた南政吉など、同様に衆道の対象として寵愛を受けた小姓たちが後を追って追腹を切っているという。『殉死は、主君と小姓など若い(あるいはかつての)寵臣との濃密な性愛関係に基づいたものが多かった』(P46)。

第二に、上級家臣で殉死した例はごく少なく、概ね下級家臣が死んでいる点が挙げられる。殉死は主君から特別の恩寵があった者が行うというのが通説であったが、むしろ上級家臣は殉死を諌める側で、取り立てて恩寵を受けていないはずの下級家臣の方が多く殉死していた。その理由もちょっとした罪を主君に赦された、少し加増された、褒美をもらった、声をかけてもらった、中には改易され浪人でありながら、家臣時代の思い出を理由に殉死した者もいて、多くは些細な理由であったという。衆道関係がそうであるように、主君との情誼的一体感の存在が指摘されている。

『たとえ衆道の関係になくとも、家臣の方で一体感があると感じさえすれば、殉死を選ぶことになる。そしてその場合、比較的主君と接触することの多い上級家臣ではなく下級家臣、しかもほんのとるに足らない者ほど、わずかな主君の厚意で一体感を形成しやすい。』(P84)

第三に、主君から特別な恩顧を受けた者がいる。数少ない上級家臣の例として徳川家光に殉じた老中阿部重次は家光の弟忠長の自殺勧告を行った担当者で、その職務に一命を賭しており、その際に家光が死んだ時に後を追う決意をしていたと追腹を行うに際して語ったという。また同じく老中堀田正盛は家光と若い頃に男色関係にあったことから殉死している。他、森鴎外の小節「阿部一族」の題材となった細川忠利に殉じた阿部弥一右衛門は実務の責任者という高い地位にあったが、百姓身分から取り立てられての大身であったことからその取り立てられた恩に殉じている。小説のように周りから殉死するように圧力を掛けられて遅れて・・・というのはあくまで創作であって史実ではない。(阿部一族の創作と史実の違いについては一章を割いて説明されている)

一七世紀末~一八世紀初頭の成立とみられる逸話集「明良洪範」には「追腹」の三分類として忠誠心による「義腹」、周りが殉死するのを見て遅れまいとして殉死する「論腹」、自身が殉死することでその死後に子孫が取り立てられることを考慮して腹を切る「商腹」が挙げられているが、著者はその三つについても、忠誠心ではなく愛情や情誼的一体感と呼ぶべきものがほとんどで、論腹はありそうだが史料上は皆それぞれ理由をつけて自発的に殉死を遂げているとして可能性は低く、商腹自体は全く見られず、また子孫が親の殉死を理由として出世した例も無く、『わずかな徴候すらみえない』(P92)として否定している。

忠誠心の発露とされる追腹は、実は忠誠心とは少し離れた、もっと非合理的で衝動的な行動』(P93)、いわゆる通説として見られる「義腹」「論腹」「商腹」ではなく「自己主張」であり、忠義の対極にある「かぶき者」的行動原理があるという。

著者は千葉徳彌著「たたかいの原像」、高木昭作「日本近世国家史の研究」を参照しつつ「かぶき者」気質を説明する。それによると、『「強情我慢、生命を事ともせずといった、常人の道徳などを問題にしない態度」であり、「勝つことをたたかいの直接的な第一目的とし、その代償としては自己の生命、財産、地位その他すべての価値を放棄して悔いるところがないという精神」』(P165)としての武士の心性を源流とし、『近世の武士が「その性質の一側面として大なり小なりこの傾向(主従の関係より自己の武士としての「一分」や仲間の義理を優先させる独特の気風)を備えており、『かぶき者』はこの側面が極端に肥大したもの」』(P166)であるとしている。

「かぶき者」たちは秩序よりも「意地」や「一分」などの体面を守り抜き、主従関係では無く『自分がほれた上司のためには命をかける』(P159)直接的、情誼的な人間関係を重んじた。現代から見ると理不尽と言える理由の無い暴力を振るい、自分の命を捨てることを厭わず、男色を好み、「一味同心」的な集団的行動原理を持つ。その『かぶき者の連帯意識と主従間の情誼的結合は、類似する点が多い』(P163)。多くの場合、家法が行き届いた秩序がある藩より、『従者に驕慢な行動が多い家から殉死者が出』(P170)ており、忠孝という言葉で表現されるような体制的な観念とは正反対の、君主との個人的関係に基づいた行動が殉死であった。

『藩というのは、家老がいて組頭がいて家中を統制し、家中にも上級、中級、下級の武士があるという階層秩序の枠を超えられない組織である。しかし、殉死は、主君に供して自ら死ぬという行動のみによって、直接主君に繋がることができる。生きている時にははるかに距離を隔てられている主君に、とるに足らぬ軽輩が一体化できる唯一の手段なのである。これは、藩の秩序の動揺にほかならない(逆にいえば、それだけ家が拡大して、主従の間が遠くなっていたのであろう)。』(P172)

つまり、かぶき者という戦国時代的心性が江戸幕府という平和な時代にあって行き場を失い、主君の死に殉じる形で発現したのが追腹という流行であり、かぶき者が奇矯な行動をしたように殉死によって自己主張を行ったというのが殉死の構造であったらしい。ゆえに殉死は優秀な人材を失うという以上に、当時の武士の誰もがもつ気質と通底していたがゆえに美風として捉えられ、秩序を揺るがす行為であった。

寛文三年(一六六三)、武家諸法度の発令とともに殉死禁止令が出され、殉死者の遺族に対して厳罰が課されることとなり、以後、殉死という流行は終息していく。と同時に、幕藩体制の秩序よりも、君主との情誼的関係を重んじる無頼的な武士たち「かぶき者」の弾圧が始まっている。慶安四年(一六五一)からならず者的な行動を繰り返す「かぶき者」たちの検挙が始められ、貞享三年(一六八六)、大小神祇組二百余名の逮捕を最後に「かぶき者」の組織的行動は絶えたという。

しかし、武士が根源的に持つ情動としての「かぶき者」的精神が潰えるわけではなく、幕藩体制という秩序と、武士のその戦闘者の面とを繋ぐ思想的模索が例えば山本常朝の「葉隠」であり山鹿素行の士道であり、また、その模索の過程で十七世紀末、元禄期に「世間」という観念が誕生することで「恥」の文化に大きく影響を受け変質していったということのようだ。そしてどんなに秩序として抑えようとしても抑えられない武士としての情動が爆発したのが赤穂浪士事件であり、幕藩体制の持つアンビバレントな二重構造を浮き彫りにしていくことになる。

現代社会で何かともてはやされる「武士道」という言葉があるが、現代人が指す「武士道」はいわゆる「明治武士道」と呼ばれる、武士が消滅した後に近代国家建設の過程で西洋騎士道に対置される形で創出された観念を基礎としつつ、様々な創作作品で補強された想像上の武士像である。「武士道」という言葉にノブレス・オブリージュ的な印象を持つ人も多いだろう。

では、「武士」とは何であったのかというのは非常に曖昧な問いではあるのだが、その問いに近づく上で、かつて武士が陶酔した殉死の構造を知ることはとても有用であると思う。そこに浮かび上がってくるのは「武士道」とは程遠い荒削りな情動の赴くままに命を命も思わない人々の姿であった。だから、武士について調べていくのはとても面白いと思う。

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