「ブータン――「幸福な国」の不都合な真実」根本 かおる 著

「国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)」の最大化を国是として、伝統文化を維持しつつ国王のトップダウンによる急速な民主化を推し進め、「幸福の国」として世界から認識される小国「ブータン」だが、実は国内の政治的・市民的自由度は世界的に見ても非常に低く、また最大十一万人にも及ぶ難民を生んでいる人権問題を抱える負の面も持つ国家でもある。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)職員でブータンからのネパール難民支援の現地事務所の所長として十年以上支援活動に携わった著者がブータンと難民の問題を取り巻く歴史的背景や政治状況、難民の現況冷静かつ包括的に解説したのがこの本だ。幸福な国ブータンという幻想と欺瞞を鋭く抉った快著であると思う。

ブータン王国の歴史は実は新しい。王制の成立は一九〇七年である。

一七世紀初頭、群雄割拠のチベットがダライ・ラマ5世率いるチベット仏教ゲルク派により統一されると、ゲルク派と対立していたドゥック派がブータンに追われ、ドゥック派の僧侶による神政一致の体制が誕生する。しかし、その支配力は弱く群雄割拠の時代が長く続いていた。

その頃、インドを植民地化していた英国が中央アジアへも進出してくる。一方、チベットは清朝の影響下に置かれるようになり、ブータンは英国と清朝との狭間で苦しい立場に置かれた。一八六四年、英国とブータンの間でドゥアール戦争が勃発、ブータン諸豪族は敗戦し英国の影響下に入った。以後、親チベット=清朝派と親英国=インド派の権力闘争を経て、一九〇三年に英国がチベットを保護国化したことを受けブータン国内でも親英派が勝利し、一九〇七年、一豪族であったウゲン・ワンチュクが英国の後ろ盾を得て神政一致の体制を廃してブータン国王に即位、以後ワンチュク王朝が現在まで続くことになる。

英国はブータンをさほど重視していなかったことから、外交権以外の宗主権を強く主張せず、ブータンは一定の独立を保つことが出来た。第二次大戦後その地位は英国からインドに代わり、インドも対中国戦略の観点からブータンを軍事的緩衝地帯として重視し、ブータンに対して一定の介入をしつつも独立を尊重する。

ブータンの民族分布はおよそ四つに大別される。第一に王家やエリート層など主流派の「ンガロン」は西ブータンに住みチベット仏教ドゥック派を信仰しゾンカ語を話す。第二に「シャーチョップ」と呼ばれるブータン東部に多く住むチベット仏教ニンマ派を信仰しビルマ語系の言語を話す人々で文化的にドゥック派とほぼ同化している。第三に土着の北部山岳民族だが詳細不明。第四が「ローツァンパ」と呼ばれるブータン南部のネパール系の人々でヒンドゥー教を信仰しネパール語を話す。この「ローツァンパ」の人々が難民化させられていくことになる。

一九五〇年代、第三代国王の下でブータンは開明的な政策を打ち出していた。孤立政策から門戸開放に転じインド一辺倒にならないよう国連外交を展開、教育を重視し産業を育成して、新住人にも寛容な国籍法を制定する。ところが、一九五九年、中国がチベットを支配下に置くとチベットからの難民がブータンにも流入してくる。ブータンはインドへの通過に限って難民の流入を認めるが、インドは難民受入を拒否してブータン国境を閉鎖、チベット難民はブータン国内に留まらざるを得なくなる。難民が不安定要因化する中で、急速な改革を進めていたブータン政府への守旧派の不満が爆発。六四年ドルジ首相暗殺、七四年には新国王暗殺未遂事件が発覚、その国王暗殺未遂にチベット難民の関与が明らかになり、反チベット難民感情に火がついた。

もう一つ、ブータンを動揺させたのが隣国シッキム王国の滅亡である。シッキム王国はブータンと同じく、一七世紀中葉、チベットでゲルク派政権が誕生した際に逃れてきたニンマ派の僧侶が地元の有力者を王に就けることで誕生した王国だった。ブータンと明暗を分けたのが英国の動向で、インドを支配下に置いた英国は、シッキムが交易の要衝であったこと、避暑地として最適な気候であったこと、南下政策を続けるロシアへの牽制などを理由にシッキム王国の植民地化を画策。シッキムがネパールと対立しているのに便乗してシッキムと同盟を組みネパールを退けると、その見返りとして一八四九年、ダージリン地方の割譲を受け、それを足掛かりに一八六一年、支配下に治めた。

シッキムはダージリンの名の通り、紅茶の名産地として知られる。英国は紅茶のプランテーション農園を次々と作り、安価な労働力としてネパール人を多くシッキムに招き入れた。また、ネパールとの戦争でグルカ兵の強さに魅力を覚えた英国は東インド軍に編入すべくグルカ兵の募集を行い、兵士として労働者としてネパールの人々はシッキムに定住しはじめる。シッキムを経由してブータン南部にもネパール人が多く流入、それが「ローツァンパ」と呼ばれる人々だ。

一九五〇年、英国からインドにシッキム王国の保護者が変わった時、シッキムの人口の七割がネパール人だった。インド主導でシッキムの「民主化」が進められるが、人口比に基づくとネパール人政権が誕生するのは必然であったから、主流派のレプチャ人は民主化に抵抗、それに対しネパール人の民主化運動は激化し、七四年インド監視下で選挙が行われネパール政党が大勝。七五年、ネパール系親インド派の首相主導で王制の廃止とインドへの併合が議会で可決され、シッキム王国は消滅。インド北部の一州シッキム州となり、国王は米国に亡命、八二年、妻子にも見放されて孤独のうちに死んだ。

シッキム王家はブータン王家の親戚にあたるから、この隣国の消滅は衝撃であった。北の隣国チベットは中国が力でねじ伏せ、西の隣国シッキムは民族問題を口実にしたインドの画策で併合される。二大覇権国家の狭間でいつ自国が同じ運命を辿るかわからない。「国民総幸福量」という概念は実は小国が生き残りを賭けた起死回生の安全保障戦略だった。

七二年に即位した第四代ブータン国王ジグメ・シンゲ・ワンチェク(現国王の父)は七六年、スリランカの国際会議後の記者会見で「GNHはGNPよりも重要だ」と発言、オイルショック後の低成長時代に入っていた七〇年代初頭のオルタナティブな空気を掴み、一気に国際社会に支持者を広げた。

続いて「国民総幸福最大化」を実現する具体的な方針として「経済的自立」「環境保護」「文化の推進」「良き統治」の四本柱を提唱、これに基づいた諸法令が次々と定められる。特に「文化の推進」は民族主義と表裏一体であった。主流派「ンガロン」の言語であるゾンカ語を公用語化し、「ンガロン」の伝統衣装がブータンの伝統衣装として全国民に着用義務化、「伝統文化による安全保障」の名の下で国籍法が厳格化され、シッキム王国消滅の要因となったネパール系の人々の国籍剥奪、民主化運動の弾圧などが進められていく。

一九八五年改正の国籍法は過去に遡って国籍が剥奪されるという、国際法上も異例の悪法で、それに続いて八八年には「真正のブータン国民」とそれ以外を選り分ける国勢調査が実施、文化や言語の同化政策が推し進められ、それに従えない者は無国籍化させられた。

同八八年、ネパール系の代表であったテク・ナス・リザル氏はこの一連の政策の緩和を求める陳情書を国王に提出、しかし、これに対して政府は八九年、リザル氏と同志である活動家ら四五人を逮捕、リザル氏以外は順次釈放されたものの、同氏だけは国家反逆罪に問われ九九年まで監禁された。これを受けてアムネスティ・インターナショナルが同氏を「良心の囚人」に認定していた。

九二年には「国家治安法」が施行、五人以上の集会を禁止し『国の内外で、国王、国、国民にそむく活動や発言、それを幇助した者については、厳罰に処する』(P94)ことが定められ、国家転覆・反逆罪は死刑か終身刑、幇助も同様に死刑か終身刑とされた。国内でネパール系の人々は次々と逮捕され、警察や軍によって拷問やリンチが加えられていく。また、著者が難民に直接聞いたところでは、ブータン兵士に性的暴行を受けた女性も少なくないという。

かくして、九〇年代初頭以降、ブータン南部に居住していたネパールの人々「ローツァンパ」が次々と国を追われることになる。その数十一万人に上った。彼らはインドのシッキム州を通過してネパールへと向かい国境付近に難民キャンプを形成、しかしネパールは非常に貧しい国である。ブータンがチベット難民を受け入れられなかったように、ネパールもブータンからのネパール難民を受け入れるのは困難であった。

ネパールの人々を強権でもって排除した第四代ブータン国王ジグメ・シンゲ・ワンチェクは次々と諸改革を断行する。「国民総幸福の最大化」を旗印に、腐敗や汚職の追放、国王定年制の導入、選挙制度改革、立憲君主制の移行、前倒しでの王位の移譲を表明して権力を私物化しない姿勢を見せつけるなど目覚ましい成果を挙げて、上からの民主化の成功例として国内外から喝采をもって迎えられた。一時、日本のメディアで同王を「現代最高の名君」と手放しで賞賛しているのを見た覚えがある。

読んでいて、この王は遅れてきた啓蒙専制君主なのだなと思った。国家のためなら自分の手を血で汚すことも躊躇せず、必要とあれば良心の呵責なく弱者を踏みにじり、一方で自ら守るべき国民を創出してその保護のために上からの改革を断行する。それを実行する卓越した能力と鉄の意志を持ち、いざとなれば権力の座にすら固執しない。おそらく守られている国民には神にも等しく見え、敵とされた人々には悪魔にしか見えない。選ばれることとなった国民は確かに「幸福」であるのだろう。

ブータン難民の苦難は続く。一九九六年、ネパールが内戦に突入したのである。王政の打倒を目指してネパール共産党毛沢東派が武装蜂起、二〇〇一年にはビネンドラ国王が王宮で王族により殺害され王弟ギャネンドラが王位に就く。ギャネンドラの陰謀とも言われている。マオイスト対王政派の熾烈な内戦は続き、その間、難民は宙ぶらりんの立場に置かれた。また、ブータンの「幸福」イメージが仇となってブータン難民の存在が中々広まらず、支援をするUNHCRをはじめとする諸団体はとても苦労したという。

難民は本来なら「自発的帰還」「第一次庇護国での永住」「第三国への再定住」の三つが選択肢となるが、そもそも難民問題を認めないブータン、難民を外交カードに使って諸外国の支援を引き出したいネパール、仲裁として出ながら対中国戦略からブータンの意を損ないたくないため無関心なインド、の間で交渉は遅々として進まず、さらにブータン=ネパール両国が二国間交渉に拘り国連等の介入を拒否し続けたため、「第三国への再定住」が選択肢とならないまま十年以上が経過することになった。難民にしてみれば、圧政下のブータンと内戦下のネパールどっちを選ぶかという究極の選択を突きつけられた形になる。

その間地道な支援だけが続けられ、しかしその膠着状態の中難民たちが気力を失っていった様子がリアルに描かれていて、読んでいてとても胸が痛い。難民だから仕事をすることが出来ない。すると、父親はずっと家にいることになり、その無気力な姿に子供たちは反発し、そして家族が崩壊する。家庭内暴力も少なくない。あるいは支援が増えていくと、今度は貧しい地元住民との軋轢を生み度々衝突が起きるようになったり、内戦勢力のマオ派が難民の若者たちに対して自勢力へのリクルートをかけてきたりする。そんな中で、いつ見えるともしれない希望を信じて様々な試みがなされていく様子は胸を打つし頭が下がる。

そんな中、二〇〇六年に突如アメリカがブータン難民の受け入れを表明、この背景には9.11があった。米国でムスリムへの警戒心が高まり、その一方で米国は政策として毎年難民の受け入れ枠があるから、アラブ系移民を制限する代わりに、ネパール難民がその受け入れ枠の対象となったということらしい。米国の受け入れ表明を受けてカナダ、オーストラリアなど諸外国が次々と受け入れを表明し事態は大きく動く。二〇一二年六月までに六万五〇〇〇人がUNHCR主導の第三国定住プロジェクトに沿ってネパールを出発した。引き続きプロジェクトは進行中だがそれでも第三国定住を望まない人は一万人以上はいるだろうとされている。

前出のリザル氏は二〇一一年以降米国で第四代ブータン国王に対して九一年拷問被害者保護法に基づく二億ドル超の損害賠償訴訟を提起する準備を進めているというが、困難な状況であるらしい。また、同書によると『「エスニック・クレンジング(民族浄化)」という非常に強い表現までを使って、ブータン政府の一連の行為を非難する欧米メディアや人権団体もあった』(P195)。

この本が突きつけているのは、著者が書いている通り『「国を統治する側」と「その国で生きるマイノリティー」の立場』(P194)とで『国の安全保障の面から見るか、人の権利、特にマイノリティーの権利の観点から見るか』(P194)によって全く判断基準が変わる国家と人権の衝突の問題だ。あらゆる人権は断固として守られなければならない。そのためにこそ国際社会は発展してきた。その一方で、理想無き国際政治の舞台では、主に小国がその二つの間で文字通り存亡をかけて究極の選択をなさなければならない状況にまで追い込まれてしまう。その結果、弱い人々がしわ寄せを受けて過酷な運命を余儀なくされる。

ここで紹介した歴史的背景と難民発生の経緯は同書の一部で、主題は難民問題の壁や難民活動の現状、ブータン難民の日々の生活の様子などだ。日本にいると難民問題というのはどこか遠い世界の物語と感じてしまいがちなところを、かなり手近なところにまで引きつけて語ってくれている。人々を惹きつけて止まない光り輝く理想に隠れた残酷な闇の深さを正面から描いた好著として、非常に重要な一冊だと思う。

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