「登山の誕生―人はなぜ山に登るようになったのか」小泉 武栄 著

行楽としての登山の歴史は実は新しい。欧州でも十八世紀末から十九世紀にかけて、日本では十九世紀末から二十世紀初頭のことで、その登山の誕生の歴史を自然地理学者である著者がまとめたのがこの本だ。登山にまつわる様々な歴史上のエピソードが豊富でとても面白い。

現代社会で見られるような『好奇心や冒険心、探検心にもとづき、スポーツ的な要素を多量に含む近代的登山』(P136)の誕生は十九世紀欧州においてであった。欧州中世のキリスト教的世界観では山は魔女や怪物が住む恐ろしい場所であり、自然の美しさを愛でることはむしろ自然崇拝に繋がるため長くタブーとされており、一部の変り者を除いては、よほどのことが無ければ人々は山に近づかなかった。しかし、ルネッサンスが到来し、宗教戦争や科学革命、啓蒙主義の誕生などを経て近代の幕が開こうとする頃には、山に対する意識の転換が起こり、現代人が行っているような登山が誕生する。

十六世紀、博物学の祖であり最初のアルピニストとも呼ばれるゲスナー(1516-65)をはじめとして十八世紀までの博物学の成立の過程で多くの博物学者が調査のために山歩きをするようになり、科学革命や啓蒙の時代を経て、十八世紀末、ゲーテやルソーによってアルプスの自然の美しさが語られるようになると、富裕市民や貴族らの間でアルプス観光ブームが到来。十九世紀、地質学者や物理学者が調査研究のためアルプス登山を開始、彼らに続いて産業革命を経て豊かになった富裕な英国人が未踏破のアルプスの山々へ登山を始め、1857年世界初の山岳会が英国で結成されたのを皮切りに、欧州中に登山者が広がっていく。欧州での主流は挑戦的なアルピニズムであった。

日本では欧州とは違って、山岳信仰や修験道の隆盛から古くから山に登る人は少なくなかった。しかし基本的には行楽としてではなく、修行としてストイックに山に登る信仰登山が主流であり、それは江戸時代中~後期まで続く。江戸時代中期、庶民の生活に余裕が出来ると旅行ブームが起こり、庶民の間でも村や仲間内単位で資金を出し合う講が盛んとなって富士講など富士山をはじめとする各地の山に道中の物見遊山も兼ねて登るようになる。とはいえ登山は一生に一度の一大イベントで、山に登るのもやはり信仰的な理由であった。また江戸後期には好奇心から山に登る人々も多く見られるようになり、三井友翰、松浦武四郎、安積艮斎、高橋白山などが知られている。

明治になってから山に登っていたのは、まずお雇い外国人として来日した外国人登山家、続いて農商務省山林局・御料局局員による境界策定のための測量登山、次に内務省地理局による測量登山、そして地質学者など科学者による研究登山となる。このような調査登山で有名なのが内務省の陸地測量局による剱岳登山で映画化もされた新田次郎による『剱岳点の記』という小説もある。

一般人の登山が盛んになるのは明治三八年(1905)に日本山岳会が設立されてからだ。欧州の近代登山が日本に紹介され、有志たちによって設立されたが、設立当初はかなりマニアックな趣味という扱いであったが、彼らは未踏破の山々に次々と挑戦し徐々に登山者が広がっていく。1910~20年代にかけて富裕な大学生によって各大学に登山部が設立、徐々に登山人口が拡大すると、日本の登山はおよそ三つの方向に分化していったという。

第一に未知の山域に次々と踏み込んでいく探検登山、第二に氷雪や岩などより厳しい環境下で登攀する西洋的アルピニズム、そして第三がゆったりと気ままに山を楽しむ静観的登山であった。この第三の道である静観的登山の提唱者として田部重治、木暮理太郎らがいる。1920年代第一次大戦の影響での経済的好況を背景として登山雑誌の刊行が相次ぎ、大衆登山が始まる。この頃には信仰登山に代わって学校を中心とした集団登山が中心となり、女性にも拡大、太平洋戦争期に一時すたれるが戦後復活し、1960年代から百名山の紹介などもあり本格的に登山ブームが到来して、現代へと続いていく。

以前も書いたが、近代史の画期として風景の発見というのはやはり大きい。登山もまた風景を愛でるという観念を抜きにしては誕生しえなかった訳で、勿論、近代以前にも現代的な意味と近い登山を楽しんでいた人は洋の東西を問わず存在していたが、形あるものとしての誕生から大衆化は近代を象徴する現象の一つだといえるだろう。

今や、行楽シーズンの休日ともなると高尾山など人気スポットは山登り、ならぬ、山並びとでもいうような程に登山を楽しむ人で溢れかえっているが、登山という現象の歴史を遡りつつ、現代社会が拠って立つ背景にも理解の翼を広げることが出来る、面白い一冊だと思う。

ただ登るだけでなく、地形や地質、植物などにも目を向ける登山を著者は薦めているが、さらに歴史にも思いを馳せ身体感覚をフルに感じながら登山を楽しむというのが、僕は好みです。まぁ、僕が上るのは数百メートル程度の山なんで登山というか、ハイキングいや探検気分が強いな。登山について、その成り立ちを知りたい人におすすめ。

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