「武士に『もの言う』百姓たち: 裁判でよむ江戸時代」渡辺 尚志 著

江戸時代の百姓は時に一揆などで爆発することはあっても武士に虐げられ、高率の年貢や身分制度の中でじっと耐え忍んでいた・・・のでは決してなく、むしろ自身の利益を守るために武士たちに対して臆することなく自身の意見を言い、次々と訴訟を起こす、もの言う百姓たちだった、という訴訟社会としての江戸時代の社会の様子を一つの裁判例を通して描き出す、面白い本。

第一部では江戸時代の訴訟・裁判制度の全体像について、第二部で江戸後期の松代藩信濃国水内郡長池村(現長野県長野市)で起きた名主選挙を巡る百姓同志の対立が訴訟として提起されて判決が下るまでの一部始終について描かれている。この後半の訴訟の様子がとても面白い。

江戸時代にはまず百姓たちには訴訟する権利などは存在しない。全ては領主の御慈悲として百姓同士の争いにお裁きを与えてくださる、というものだ。ゆえに判決は無謬であり、絶対である。一審制であり、寺社・町・勘定各奉行所が行政・司法・立法機能を兼ね、幕府の最高裁判機関として評定所が設けられていた。また法令は非公開であり百姓に対しては「由らしむべし知らしむべからず」の方針が貫かれていた。当然弁護人なども存在しない。また、取り調べについても自白が重視され、吟味筋(刑事裁判)においては拷問が行われていた。出入筋(民事裁判)は基本的に領主が判決を下すより内済(和解)が推奨され、多くの場合には強制された。

しかし、このような不公平な司法体制であっても、いや、だからこそ百姓たちは命懸けで自身の利益を守るために徹底的に自己主張した。武士たちによる司法制度と別に各村には固有の村掟があり、その村掟で判断がつかない事案については臆することなく積極的に訴訟を提起、著者は「健訴社会」と呼んでいるが、江戸時代は文字通りの訴訟社会であった。秘密法典であるはずの御法度の内容を調べ、一方的な取り調べやお裁きの過程で自身の立場を有利に進める訴訟テクニックを磨きあげ、裁判コンサルタント的な立場で報酬を貰って当事者に助言を与える百姓もいたという。

武士たちも、一方的に判決を押し付ければ良いというものではなかった。判決が無謬で絶対であるために、『原告・被告双方を納得させられる妥当な判決を下さなければ、支配者としての権威を保つことはでき』(P6)ない。そのために徹底した調査・根回しと準備が整えられた。

同書で江戸時代中期の農政家田中丘隅(1662-1730)の著書の一節が紹介されている。

『「百姓の公事(訴訟・裁判)は、武士の軍戦と同じである。その恨みは、おさまることがない。武士は戦においてその恨みを晴らすが、百姓は戦はできないので、法廷に出て命がけで争うのである。国土を賭けた軍戦と同様に、国を動かすほどの大きな公事も、その多くはただひとりの心の内からおこるものである」』(P6)

同書の三分の二ほどを占める裁判例のアウトラインだけ紹介しておこう。訴訟の過程が綺麗に残っている点で史料としてかなり貴重なものであるらしい。

文政六年(1823)一月、真田家松代藩信濃国水内郡長池村(現長野県長野市)で行われた名主(村長)選挙で義兵衛と弥惣八が同率一位となった。義兵衛は村の有力者で要職を歴任、無力だった前任者の補佐役として村の実権を握っていた。これに対して弥惣八は小農で身分も高くない。しかし、彼は義兵衛派の村財政不正疑惑を訴えて反義兵衛派を糾合し、両者の対立は代官所に訴えられることになる。

しかし、藩としても村運営安定化のために有力者義兵衛派の側に立ち、強圧的な取調と誘導尋問で弥惣八派は次々と突き崩され、一人また一人と証言を翻していく。しかし弥惣八と数名の中枢メンバーだけは、取調べに拷問も行われたようだが、断固として証言を曲げず、一度は証言を曲げた不正財政工作のキーパーソンであった住職親子が命がけで自身の証言を撤回、一気に義兵衛派の不正財政が明るみに出て、取調べが振り出しに戻ってしまう。両勢力の一進一退の駆け引きの中、果たしてお裁きでどんな判決が下されるのか・・・という内容だ。

まぁ、江戸時代らしい、真実よりも秩序の安定を重視しつつ両者に遺恨を残さないような配慮を行った玉虫色の決着へと収束していくのだが、当時の訴訟の過程、村の運営体制、戦う百姓たちの気骨、などが見られてとても面白かった。

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