「アーサー王伝説」アンヌ・ベルトゥロ 著

アーサー王と円卓の騎士たちは実在したのか?当然のことながら、歴史的にそれを辿るのは史料があまりにも少なすぎて、不可能である。おそらくはモデルとなる複数の人物がいて、それらの逸話がいつしかアーサー王伝説として語られるようになった、と考えられているが、英国では「国民的」神話となっていることもあり、実在していたという前提で語られることが多いようだ。

この本が面白いのは、アーサー王伝説形成の過程に、プランタジネット朝(1154-1399)の政治的意図の影響を見ている点である。現在まで語り継がれるアーサー王伝説の土台となったのが、1130年代にジェフリー・オヴ・モンマスによって書かれた「ブリタニア列王史」であるが、同書によるとモンマスはプランタジネット朝の始祖ヘンリ2世(在位1154-89)の父、アンジュー伯ジョフロワ5世の側近であったとされている。

実際に「ブリタリア列王史」の執筆に際してモンマスが政治的意図を持っていたかどうかはこの本からはよくわからないが、というか、それを示す史料はおそらく無いだろうが、「ブリタリア列王史」で描かれたアーサー王伝説が、自身の王権を正統化する基盤を欠くヘンリ2世にとっては非常に政治的価値があるものであったようだ。

『第1に、ライバルのフランス王に対抗するため、王権の正統性を示すことが急務であった。第2に、ノルマン人の支配下に入って90年たってもなお服従を潔しとしないサクソン人に対抗して、ブリトン人を味方に付ける必要があった。それというのも、イングランド王ヘンリー2世はフランス北西部のアンジュー伯も兼ねており、その身分において、フランス王の封臣であったからである。
(中略)
したがってプランタジネット家の威信増大は急務であった。ヘンリー2世は、フランク王国のカール大帝の威光を受け継ぐルイ7世(12世紀にはカール大帝はカペー王朝の祖先と考えられていた)に対抗しうる、堂々たる君主であることを示す必要があった。』(P42-43)

第一に王権の権威づけ、第二にブリトン人を味方につけることを目的としてアーサー王伝説を利用しようとヘンリ2世は考えた。列王史に続いて、その列王史のアーサー王に関する記述をベースに詩人ワースが書いて広く読まれることになる、12人の円卓の騎士が初登場する「プリュ物語」(1155年完成)についても、本書ではヘンリ2世の指示があったとしているが、多分、これも実際あったかどうかは、よくわからないはずだと思う。

プランタジネット朝の意図がどの程度初期のアーサー王伝説誕生に関っていたかは不確かだと思うが、少なくとも生み出された物語が、権威を求めていた王権にとって非常に有用であったと言うのは間違いなさそうではある。フランスの詩人クレティエン・ド・トロワによる「エレックとエニード」などのアーサー王物語で新たに聖杯伝説が付け加えられ、また騎士道精神と宮廷風礼節の象徴としての物語へと昇華され、湖の騎士ランスロットが登場する作者不明の「ランスロ=聖杯物語群」(13世紀)などとあわせて封建制の象徴としてのアーサー王像が確立され、その後キリスト教の影響を強く受けて、聖杯と円卓とはキリスト教的解釈へと変わっていく。

本書で描かれるような王権によるアーサー王伝説誕生に対する直接的な関与については保留したいところだが、誕生した物語群が王権にとって有用であり、また時の政治権力に利用され、あるいは統治を正統化する機能を持ち、人々に受け入れられるかたちで変質しながら発展したという視点には大いに説得力があるように感じる。物語が権力基盤となる、というのは古代から現代まで変わらぬ営みの一つであるからだ。

十八世紀啓蒙主義の時代にあってアーサー王伝説は忘れられた物語となるが、十九世紀、ロマン主義の勃興とともに詩人テニソンらが取り上げたことで復活、帝国主義・国民国家の建設と歩みをともにして英国の国民的神話へと昇華されていく。以後、現代までに様々に形を変えて何度も物語として語られているのは周知の通りだ。ちょっと前までアーサー王のイメージはショーン・コネリーだったが、最近では極東の島国で金髪アホ毛の美少女と化して、なんだか伝説でも女の子だったような気がしてきている不思議。

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