十二世紀後半、十字軍の侵攻を食い止め、かつ寛容で高潔な振る舞いからイスラーム世界だけでなく欧州からも英雄視されるアイユーブ朝の創始者サラディンに関する、イスラーム史の第一人者による伝記。イスラーム世界にとっては西欧を撃退した比類ない英雄として、欧州にとっては敗戦を余儀なくされた偉大な敵として、現代に到ってもなお理想化されがちな人物だが、本書は史料を丁寧に読み解くことで、人間としてのサラディン像に迫っている。
まず前史として、本書では大体九世紀末ぐらいから前史が簡単に描かれているが、もう少し遡って七世紀半ばのウマイヤ朝の成立あたりから簡単にイスラーム史を振り返ってみよう。
ムハンマド亡き後、イスラーム共同体(ウンマ)は一族の長老から指導者を選出(正統カリフ時代)したが初代アブー・バクルを除いて二代ウマル、三代ウスマーンとも暗殺され、常に内戦の危機にあった。ウスマーンの暗殺によって後継者となった四代アリーに対し、ウマイヤ家のムアーウィヤが叛旗を翻し、一進一退の攻防を経て和平交渉の最中、両者の妥協を良しとしない勢力(ハワーリジュ派)によってアリーが暗殺され、661年、ウマイヤ朝が成立する。このウマイヤ朝支配を良しとする体制派が後のスンニ派、ウマイヤ朝を否定しアリーも子孫を正統とする反体制派が後のシーア派となる。
簒奪によって誕生したウマイヤ朝だったが長続きしない。シーア派はアリーの遺児ムハンマドを指導者(イマーム)に担いで反乱を起こすが鎮圧、しかし遺児は生存していると考える勢力が登場し、そのイマーム位はムハンマドの祖父の家柄であるアッバース家に受け継がれたとの説が登場した。これを大義名分としてシーア派の協力の下でアッバース家の当主イブラーヒームと猛将アブー・ムスリムがウマイヤ朝打倒の軍を挙げ、750年、ウマイヤ朝は滅亡、アッバース朝が誕生した(アッバース朝革命)。
シーア派の協力で権力を握ったアッバース朝だったが、政権獲得後はむしろスンニ派を優遇してシーア派を弾圧した。さらに、革命の原動力となったホラーサーン人勢力の指導者で建国の功臣アブー・ムスリムを謀殺して急速に権力基盤を整えようとする。しかし、これらは逆効果で各地にアッバース朝への不満が溜まり、各地で叛乱や軍閥の独立が繰り返され政権は大いに動揺する。869年、南イラクで黒人奴隷(ザンジュ)が大規模蜂起(ザンジュの乱)すると、乱は実に14年に渡って続き首都バグダード近郊ということもあってアッバース朝の権威を一気に失墜させた。これ以降、支配力を低下させたアッバース朝の版図に次々と独立勢力が誕生する。
大小様々な勢力が登場するが、その中でも特に力を持ったのがシーア派諸政権である。909年、チュニジアに誕生したシーア派政権ファーティマ朝は急速に勢力を拡大して969年にはエジプトを征服、新都カイロを建設してアッバース朝を脅かす。934年、カスピ海南岸に成立したブワイフ朝は946年、ブワイフ家の三男アフマドが軍を率いてバグダード入城を果たし、大アミールに就任、以後宗教的権威としてのアッバース朝(スンニ派)と世俗的支配者としてのブワイフ朝(シーア派)というねじれた二極体制となり、以後アッバース朝は、ブワイフ朝が衰退した後も、1258年にモンゴル軍によって滅ぼされるまで実権を取り戻すことなく、信仰の象徴としての役割に留まることになる。
1038年にテュルク系遊牧民の族長トゥグリル・ベクがイランに進出して起こしたセルジューク朝(スンニ派)は瞬く間に勢力を拡大し、1055年、ブワイフ朝を滅ぼしてバグダード入城、アッバース朝カリフから世俗の支配者としての称号である「スルタン」位を授与される。以後、精強な軍を率いてアナトリア地方に進出、東ローマ帝国を脅かした。しかし、ファーティマ朝とセルジューク朝という二大勢力はどちらも十一世紀末までに内紛によって弱体化し、それ以外の勢力も他を圧倒する力は持てず、いっそう分裂傾向が強まっていく。
そのような中で、1095年、教皇ウルバヌス2世の提唱により初の十字軍が組織され、欧州連合軍がイスラーム世界に侵攻を開始する。しかし弱体化したとはいえセルジューク朝軍は精強で、第一陣である民衆十字軍は壊滅、続く諸侯の十字軍は統一した司令官が無いまま、各々が勝手に戦うことになった。一方で、エルサレムを領土としていたファーティマ朝は最早戦う力なく、十字軍の猛攻の前に撤退、十字軍による激しい虐殺を経て、1099年エルサレム王国が誕生した。聖地奪還という成果を挙げた第一次十字軍だったが、諸侯の間でも戦利品や領地を巡って対立し、せっかく建国されたエルサレム王国を初めとするエデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の四か国の十字軍国家はほぼ孤立状態となる。一方でイスラーム勢力も十字軍との戦いで疲弊し、セルジューク朝、ファーティマ朝、アッバース朝を始めとした主要勢力は一層弱体化し、十二世紀に入ると小国家が乱立し合従連衡する分裂状態となった。
以上がサラディン登場前夜までの大まかなイスラーム史で、要するに飛び出た勢力が無い「戦国時代」であったのである。なぜ長々と前史をまとめたかというと、馴染みの薄いであろうイスラーム史を押さえておかないとサラディンを歴史の中に位置づけて捉えることが出来ないからだ。まぁ、あくまで上記は要点だけなので詳しくはイスラーム史の書籍を個々に読んでいただいて、大まかな流れを押さえた上でこの本を手に取っていただけると、より楽しく読むことが出来ると思う。
ということで、本書で描かれるサラディンについて簡単に。
高潔で寛容なイメージが強いサラディンだが、面白かったのは、一代でファーティマ朝を乗っ取りアイユーブ朝を創始した戦国武将らしい、利に敏く、野心的で、手段を択ばず、時に苛烈な粛清も辞さない側面だ。彼が歴史の表舞台に登場する契機からして裏切りで始まっている。一小国の武将でしかなかったサラディンがファーティマ朝の首都カイロを占領したあと、総司令官の叔父と共に主君を裏切って自立している。しかも主君ヌール・アッディーンは特に落ち度なく、文武に秀でたほぼ名君と言って良い人物で、ひときわ目をかけ信頼していたサラディンの突然の裏切りにショックを受けている。目の前に自立の道が開けていたから以上の裏切りの理由は無さそうだ。一方で裏切り者や政敵には容赦なくあたり、政権基盤を固めていく過程で次々と粛清している。また、関係者が次々病死しているのも色々想像を掻き立てるところはある。本人もアサッシンに幾度も狙われている。
だが、寛容で上下の別なく誰とでも親しく接する人柄であったらしい。また、信仰に関係なく能力次第で次々と有能な人材を登用し、批判にも寛容であったようだ。サラディンの部下たちについてはこの本で初めて詳細を知ったが、例えばサラディンの側近カラークーシュ(焚書や検地、民衆を徴用しての城壁の建設などサラディン政権の汚れ仕事を一手に引き受けた人物であったようだ)がおそらくサラディンの命でファーティマ朝図書館の書籍を大量に売却する政策を取った際に、コプト教徒(キリスト教の一派)の軍務長官イブン・マンマーティーはそれを成り上がり政治家の優柔不断政治と厳しく批判する書物を書いている。
東奔西走してイスラーム勢力を糾合し、しかも軍事力によってではなく、巧みな外交交渉と調整によって勢力を拡大する一方で、内部の敵には苛烈に望みつつ政権基盤を整え、十字軍に抵抗し得るだけの土台を準備した。読んでみると意外と戦争には負けているし、また苦戦して当初の目標を達成できないまま撤退というのも何度となく繰り返している。卓越した軍才はないが交渉力に秀で、致命的な敗戦はせず、何度でも再起してくるタフな手堅い将軍というイメージだ。
また、サラディン登場以降のイスラーム諸勢力と十字軍諸国の関係も面白い。実は、イスラーム世界の統一を目論むサラディンに対して、反サラディンのイスラーム諸国は十字軍諸国と手を組んで挟み撃ちを図ろうとしたりして、単純なイスラーム対西欧という図式では全くなかった。さらに、宗教的権威でしかなかったアッバース朝のカリフがサラディンの伸長に恐れをなして、十字軍が侵攻してきているのにサラディン批判に回ったりして、サラディンいなかったら目の前の敵をどうするつもりなんですか的な、古今東西変わらない「目先しか見えない宗教的権威な歴史上の君主あるある」の微笑ましい振る舞いを見せたりして、様々な思惑が入り乱れている様相が乱世らしさ満点で非常に楽しかった。
サラディン一代で築き、サラディンの人望で持っていた政権であったために、その基盤は弱体で死後には分裂してしまう。サラディンの右腕として活躍し、死後も存在感を発揮した弟アーディルによって再統一されるがその安定も長続きせず、度々繰り返される十字軍の侵攻を撃退はしていたものの、度重なる戦争で疲弊してサラディンの建国(1169)から百年も経たない1250年、マムルーク朝によって滅ぼされる。しかし、世界最強のモンゴル軍がすぐそこに迫っていた・・・全盛期のモンゴル軍を直接戦闘で打ち負かした、サラディンと並ぶイスラーム世界の英雄バイバルスの登場だ。
丁度サラディンの時代を中心にしての前後300年ぐらいのイスラーム史は本当に面白い。アッバース朝の滅亡とバイバルスの活躍の後、モンゴル帝国の分裂、オスマン家の台頭、中央アジアを席巻するティムール、草原の覇者ティムール対オスマン朝の「稲妻」バヤズィト1世の頂上決戦、オスマン朝の復活からオスマン朝・マムルーク朝・サファヴィー朝の三国鼎立を経てオスマン朝が勝ち上がり東ローマ帝国の滅亡、そして”柔らかな専制”オスマン帝国建設と続く。
日本でも有名なサラディンという人物への興味を入り口にして、イスラーム史全体へと視野を広げてみてはいかがだろうか、ということを本書の紹介を通して書いてみた、という記事です。