「選挙違反の歴史―ウラからみた日本の一〇〇年」季武 嘉也 著

「或る地位に就くべき人」を定める方法としては、古来から合議と多数決という二つの方法があった。社会の対立を前提として、そこから「全体的に説得的な結論」を導いて社会の統一をもたらすために、合議は対立の解決より共同体の維持を優先することを「全体的に説得的な結論」とし、多数決は多数が支持していることをもって「全体的に説得的な結論」として対立から統一へと進める。この両方の手法を補い合う形で近代の「選挙」は発展してきた。

江戸時代まで村落の代表者を初めとして地位ある人の選出手法は合議(神判など含め)中心であった日本でも近代化の過程で選挙制度が導入されていくことになるが、選挙制度の導入の歴史は裏を返せば選挙違反の歴史ともなる。本書は選挙違反の歴史を通して近代日本社会の変容を俯瞰する一冊である。

衆議院議員選挙の違反者数の推移の変化を元に、本書では以下の五つの時期に分類している。
一期:第一~九回(1890~1904年)……………帝国議会開設~日露戦争
二期:第十~十七回(1908~1930年)…………日露戦争後~普通選挙実施
三期:第十八~二十三回(1932~1947年)……挙国一致内閣~敗戦直後
四期:第二十四~三十回(1949~1963年)……占領後期~安保闘争・保革対立
五期:第三十一~四十回(1967~1993年)……佐藤栄作内閣~宮澤喜一内閣
六期:第四十一~四十四回(1996~2005年)…細川護煕内閣誕生・選挙法改正~

大きな流れで言うと、制限選挙下で違反の規定も少なかった第一期は好き勝手皆やりながら選挙違反も非常に少ないが、選挙制度が浸透していく第二期にかけて選挙違反者数は爆発的に増加、大正期には軒並み1万人を超え、選挙の自由が大きく制限された挙国一致・翼賛体制下では違反者数は大幅に減少、戦後の民主主義体制が誕生する第四期から第五期にかけて大きく増加、昭和二十七年に48,517人が摘発されたのを頂点に昭和五十四年まで違反者数は1~2万人で推移、繰り返し行われた選挙法の改正により、第六期にかけて選挙の厳正化が進んで大幅な減少を見せる。第六期と第一期は母数も制度も比較にならないほど違うが、実は違反者数は大差ない(第一回286人、第二回323人、第三~四回合計で1153人に対し、第四十二回1,375人、第四十三回790人、第四十四回579人)

第一期の選挙違反で特徴的なのが暴力・脅迫などの選挙妨害・干渉や氏名詐称・虚偽事実の公表などであった。選挙違反といえば買収がまず挙がるが、この時期は少数のエリートが少額の買収を特定の人に対して行うに留まっている。第二回総選挙では死者25名、負傷者388名が出ている。この時期、選挙にまつわる暴力事件・騒擾は全国各地で頻発していたが、関っていたのがいずれも村や郡など地域全体であったため検挙することが不可能で、結果として選挙違反者数は非常に少ないということになった。

その例として面白いのが高知県幡多郡宿毛村の例で、吏党国民派(藩閥政府支持・中央集権派)と民党自由派(反藩閥政府・地方自治派)との対立から、幡多郡全体では国民派が優勢となっていたが、宿毛村は自由派が多数派で、かつ、宿毛村は陸路の中継点で幡多郡全体を影響下に治めることができる要衝であったから、その票を守りたい自由派と宿毛村に自由派を入れたくない国民派とが小競り合いを続けており、ついに四万十川を挟んで銃撃戦を展開することとなった。当時の新聞によると、自由党が「此郡を乗取らんとて」100人の党員を宿毛村に差し向けたのに対し、国民派は「党員四百名を以て銃隊を造くり、其内より決死の壮士二百名を選抜して抜刀隊を組立て」て応戦したという。自由派が汽船から上陸作戦を展開、国民派がこの上陸を阻止し、幡多郡の票を確保した。文字通り選挙で実弾が飛び交っていた。

村々の暴力的な騒擾は選挙に限らず、小作料や行政区画の変更といった様々な生活問題を要因とした村内/郡内対立・村対村の対立として頻発しており、これが選挙を通じて吏党対民党の構図として包摂され、「政治イデオロギーと生活問題が結合」(P77)して大規模化することになった。この時期の政治イデオロギー対立は単純に中央集権と地方主義との対立として現れたが、その実、地方主義者が目指す町村自治の確立は藩閥政府の目指すところでもあり、地方に対し国家の財政支出による発展を図る「積極主義」が国家と地方を繋ぐ政策として広がっていく。特に日清戦争を契機としたナショナリズムの高揚が地方の藩閥政府による積極主義支持へと結び付いていった。

村々の騒擾を背景として、この騒擾を抑える効果を持ったのが買収であった。そもそも当時の候補者選出過程は各郡の小政社と地方の有力者との話し合いや投票などで決定され、その支持を背景として選挙運動が展開される。有力者たちは、当選確実な候補者の選定、候補者支持の多数派形成を通じて影響力を行使し、その過程で名望家と呼ばれる階層が登場することになる。選挙資格を持ち、国の殖産興業化政策の実現のために村落でリーダシップを取り、村民の日々の生活にも深く関与して様々な便宜を図る富裕層で、選挙の際の村内対立を回避し、多数派工作を行うために、彼らは金銭の授受や饗応などの買収を行うようになった。

一期から二期にかけて地方ではこのような「名望家秩序」が形成されてくる。名望家秩序は有力者が主導することで、有力な候補者の選定や暴力沙汰にまで及ぶような対立の回避と住民の意思統一を行い村の団結をもたらして地方自治の基盤となったが、一方で選挙のたびに現金が飛び交い金権政治の土壌を育てることともなった。第十二回選挙での選挙費用は第一回約1,000円(現在の価値で約750万円)だったが、これが第十二回には8158円(同2,800万円)へと増加、かなりの部分が買収費用として各関係者にばらまかれていった。選挙で飛び交うのが実弾から「実弾」へと変化したというわけだ。

選挙のたびに現金が飛び交い、一万人規模で選挙違反者が続出すると、さすがに都市部を中心にその是正を求める運動が起こる。理想選挙を唱えて買収ではなく演説・文書などによる当選を目指す動きが起こり、ほぼ名望家秩序の形成と同時進行で理想選挙運動という流れが都市部を中心に起こり、やがて国民の間にも買収を良しとしない意識が涵養され、表立っての買収は減少していったが、一方で同時期に農村部では買収が深く浸透し、大衆化してもいた。やがて官僚たちの間でも腐敗した「名望家秩序」の解体を目指す「政治の倫理化運動」が起こり、選挙浄化は国民の支持を得て普通選挙制度の実施へと大きく進む。

名望家秩序は前述の通り金権政治の温床であると同時に、地方自治の基盤でもあったから、これを解体させることは、地方自治の弱体化にもつながる。1930年代、官僚組織は名望家秩序解体のために町内会、部落会など国民組織を作って政党の足腰として地方に根を下ろした名望家秩序に対抗し、その弱体化に成功した。買収・腐敗は大きく減少したが、その先にあるのが、国民が名望家を介さず直接国家と結び付く、挙国一致・翼賛体制であった。腐敗した旧秩序を打ち破り選挙を浄化したいという願いの先にあったのが政党政治の死でもあったわけだ。

翼賛体制下で静かに地方に勢力を張った若手政治家たちが戦後、その弱い地盤を支え合うために保守合同を経て自民党を形成し、これに対抗して新たな選挙基盤として労働組合がその力を持って保革対立構造へと結び付く。地方や組織の地盤を固めるために再び買収が横行し、腐敗した選挙に対して、選挙制度の浄化を唱える選挙厳正運動が戦後盛んとなり、高度経済成長期以降の急速な都市化が地盤の確保をより困難にさせ、同時により広く支持者に訴える必要が出て、選挙費用はうなぎのぼりに上がっていく。第五期になると、選挙費用は減少に転じるが、その一方で支持基盤確保の困難さによって、直接選挙に関係しない政治資金は増加の一途を辿り、選挙も、もはや候補者だけの力でどうこうできる範囲を超えて組織力がモノを言う、大規模化・複雑化することになった。

明治三十一年(1898)年に弁護士の岸清一という人物が、『「選挙の鞏固と選挙権の完全の享有」のための三要素として「選挙の純潔」「選挙の自由」「選挙の真正」をあげ、これらを犯す行為が選挙違反である』(P22)と論じたという。純潔は厳正、真正は公正といった趣旨の使い方だが、「選挙の純潔」を追求しすぎた結果「選挙の自由」が失われ、「選挙の自由」に制限を加えなければ「選挙の純潔」が穢され、ひいては「選挙の真正」も損なわれ、逆に「選挙の真正」を求めて行く過程で「選挙の自由」「選挙の純潔」とは対立することにもなる。

選挙違反の歴史から浮かび上がるのは、選挙制度をどうするという議論は、社会の中に「或る地位に就くべき人」の基盤をどのように整えるかという論点がまずあり、その基盤の整備を行うために純潔、自由、真正という三つの要素のバランスをどこで取るのか、という問題として現れているように思う。

本書によると、現行の選挙制度は大正十四年以来公営制度を実施、無料はがき、新聞広告、政見放送、立会演説会、選挙公報、ポスター掲示場の設置など公営による無料化が進んでいるが、これは他方では規制強化を意味してもいる。公営制度の『拡大に反比例して選挙の自由が制限されてきたこと、及び、その充実にかかわらず、選挙費用は依然として膨張の一途を辿っており、公営による選挙費用の縮小効果が現実に発揮されていない』(P29-30)という。日本社会の選挙制度の特徴は、突出した「選挙の純潔」の希求のために選挙の自由を大きく制限し、かつ選挙の真正も、選挙費用の莫大さだけでなく、例えば一票の格差問題などのように実現しているとはいえないというところにあるようだ。上記の現代日本の選挙違反者数の稀に見る少なさは、選挙の自由と引き替えに実現された清らかさだ。

選挙違反の歴史から浮かび上がる近代日本社会の変容と、その歴史を背景としたあるべき姿の模索に、非常に有益な論考である一冊だと思う。

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