「天皇陵の解明―閉ざされた「陵墓」古墳」今井 堯 著

秘境というと外部の人が足を踏み入れたことのない地域を指すが、日本にもまだ秘境が残っている。歴代天皇・皇族の陵墓だ。陵墓の中でも特に古墳時代の陵墓古墳は専門の考古学者や研究者もほとんど入ることが許されない。本書ではその陵墓古墳の現状と歴史、研究上の問題点が整理されている。

三世紀中頃の巨大な前方後円墳の登場から六世紀末の前方後円墳衰退後に主流となる円墳・方墳などが消滅する八世紀末までが考古学上の古墳時代となる。この考古学上の古墳のうち宮内庁が管理している陵・墓・陵墓参考地を陵墓古墳と呼ぶ。皇室典範第二十七条には「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓とし、陵及び墓に関する事項は、これを陵籍及び墓籍に登録する。」と定められ、陵・墓とは別に、陵墓の治定が完了した1890年代以降に『巨大な古墳や多数の優れた副葬品を出土した古墳を陵墓参考地』(P19)と呼んでいる。現在宮内庁が管理する陵・墓・陵墓参考地は896カ所、うち、陵墓古墳は約240である。

陵墓古墳は皇室財産であることを理由として現在研究者すら立ち入ることが許されていないが、これが日本の古代史・考古学研究を大きく阻害する結果となっている。

第一に、現在陵墓古墳とされている基準が非常に曖昧である。陵墓の治定は元禄時代から幕末にかけて天皇の地位確立・復古運動の隆盛とともに徐々に進められたが、一気に陵墓の場所が定められたのは明治維新後のことだ。神武天皇から続く万世一系の皇室を頂く明治国家という体制作りのために、明治二十二年(1889)の大日本帝国憲法発布、紀元節の制定に天皇陵の治定が無理矢理間に合わされた。通常の古墳以外にも、実在の人物のものではないものだったり、単なる自然の山だったり、人工盛土したものだったり、円墳や方墳などを増築して前方後円墳に変形したりと、憲法発布・紀元節という締切のために科学的調査は後回しにして定められた(作られた)ものが少なくない。

しかも、当時の治定根拠となった一切の資料が未だに非公開のため、その妥当性の検討すら出来ない状況となっている。今、〇〇天皇陵とされているものは、もしかすると合っているかもしれないし、間違っているかもしれないし、天皇・皇族では無くただの部族長などの古墳かもしれない。決定過程検討のほぼ唯一の史料が陵墓の決定年月日などがまとめられた「陵墓録」だが、これは1881年から1887年の間に「会計検査院の用紙」を使って作成された、国立公文書館に所蔵されている史料、という以上のものではない。ほかにも、ある研究者が「たまたま神田の古書店の目録から」(P78)みつけた、1949年に「宮内庁書陵部が作成したガリ版刷りの『陵墓参考地一覧』」(P78)とか、とにかく周辺史料からあたるしかなく、非公開の壁に阻まれて、ほとんど一次史料を参照することができない。

第二に、研究者すら陵墓古墳に立ち入りできないため直接的な調査が出来ない。なにせ科学的根拠は二の次で定められた陵墓古墳なだけに、古墳そのものの信憑性や考古学的な価値はもちろん、その古墳とされる範囲すら適当だったりする。『墳丘の裾が治定外であったり、大部分は墳丘部とせいぜい一重目の周堀だけが治定されたり、墳域の一部だけが治定されたりしている。』(P134)。その結果、古墳の重要な一部とされている部分が保護されず、例えば潰されてマンションが建ったりして破壊が進んでいる。これを保護するために、陵墓古墳の周囲を文化財指定(「ドーナツ指定」)するなどの対応が一部なされたりもしたが、宮内庁がドーナツ指定に難色を示していることもあり、多くは放置され、破壊が進行し、あるいは失われてしまった。

立ち入りを拒んでいるから少なくとも治定範囲内は適切に保護されているのかというと、そうではなく、むしろ陵墓古墳自体の破損も進んでいる。宮内庁が毎年行っている営繕工事は『近世・近代の損壊をそのままにして、それ以上の損壊を食い止めるという性格の工事』(P165)だが、全体像が曖昧な状態で、事前調査を行わずに繰り返される目先の補修工事が結果として古墳の原形を破壊し、あるいは浸食の原因となっている滞水状態が改善されないなど根本的修復に至らず、むしろ営繕工事が悪化を招くことも少なくない。学会も1972年以来、原型の変更を伴う工事の中止を申し入れているという。

とはいえ、宮内庁もひたすら頑なに非公開一辺倒であり続けているわけではない。本書では考古学系の諸学会と宮内庁との交渉史も四期に整理されて詳述されているが、90年代以降徐々に限定公開へと軟化を見せ始めてはいるようだ。昭和天皇から今上天皇への変化が一つの要因としてあるのかもしれないが、転機となったのは1991年の見瀬丸山古墳事件であった。

1991年5月29日、陵墓参考地であった見瀬丸山古墳(奈良県橿原市見瀬町)に、近所で遊んでいた小学生が柵外から石室への入り口を発見、そのことを聞いた小学生の父は翌朝子供とともに見瀬丸山古墳の石室に侵入して、およそ30枚の写真を撮影し、研究者に提供する。提供を受けた研究者たちは、委員会を作って石室復元図などを作成、同年十二月に写真・復元図等を含む研究成果を公表したというものだ。見瀬丸山古墳は当初は天武天皇および持統天皇陵とされていたが、以後の調査で天皇陵指定を解かれ、戦後は陵墓参考地とされていた。しかし、このときの写真に基づく研究から欽明天皇および堅塩媛陵という説が提示され、現在でも有力な説の一つとなっている。無許可で侵入・撮影した資料に基づく研究・発表ということで、その妥当性は非常に議論になったらしいが、一方で、宮内庁が陵墓古墳完全非公開から限定公開へと方針をシフトする転機にもなったようだ。

1992年に研究者に対して見瀬丸山古墳の営繕工事にともなう事前工事の限定公開が実現、石室入口から石室を覗くことが出来たという。94年ヒシャゲ古墳(奈良県奈良市佐紀町)、95年佐紀石塚山古墳などが限定公開され、2007年には宮内庁が陵墓立ち入りの取扱方針を策定、考古学・歴史学・動物学・植物学などの専門家に限り一件あたり16名(十六学会あるので一学会一名)まで、墳丘の最上段上面のテラスの巡回路までという制限付きながら、2008年以降、徐々に陵墓への研究者の立ち入りが行われ始めており、わずかながら前進している。とはいえ、見学の域を超えるものではなさそうで、本格的な調査研究には程遠いのが実情のようだ。

著者の今井堯氏は、宮内庁に対する陵墓古墳の公開を働きかける先頭に立っていた方のようで、『当初からこの運動に参加していた筆者にとっては半生を賭けた闘いであった。それだけに、これだけしか勝ちとることができなかったのかと、正直にいって忸怩たる思いはある』(P152)と悔しさを吐露している。ちなみに、本書が今井氏の遺作でもある。あとがきは末期癌の状態で書かれたもので短い中にも無念さがにじみ出ており、心動かされる。研究者が、時の権威・権力の壁に阻まれて、得られるはずの史料を得られず無念のうちに生涯を終える、なんて現代日本にもあるのだな。

公有地でも私有地でもない皇室財産という位置づけが問題を複雑にしている。皇室の私有財産のようで、そこに含まれているのは古代日本の研究上も文化遺産としても非常に重要な天皇陵という存在である。その精密な調査が古代日本の成り立ちを解き明かすかもしれず、研究成果が及ぼす影響は計り知れない。当然天皇の公共性という問題もあるが、非常に公共性が高く、研究対象としても重要で、かつ保護の必要性がありながら、損壊の危機にある皇室財産に対し、皇室財産管理の代行者である宮内庁はどのように振る舞うべきなのか。

少なくとも非公開の理由が前例の踏襲か、公開することで明らかになる歴史の真実がある種の「物語」を壊すことを恐れているのか、ぐらいしか思い浮かばない。それは日本古代史を丸ごと闇に葬り、数多の研究者たちの無念を繰り返してでも守るべき秘密なのだろうか。

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