「サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち」

アパルトヘイト体制下の南アフリカで悪名高かったのがロベン島刑務所である。ケープタウン沖11キロ、周囲は流れの速い潮流で航行上の難所であり、人食い鮫がうようよして古くから多くの船乗りが犠牲になってきた。1959年以降南アフリカ政府はここに刑務所を設置し、ネルソン・マンデラを初めとした反アパルトヘイト活動家たちを多数収監して、受刑者たちに対する拷問、私刑、理不尽な暴力、精神的な屈辱などなどが絶え間なく与えられ、非人道的な管理体制が敷かれていた。現在、アパルトヘイト政策の象徴として「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」や「原爆ドーム」などと並び「負の世界遺産」に認定されている。

そんなロベン島刑務所で、1960年代に受刑者たちによって設立されたサッカー協会があった。本書はそのマカナサッカー協会がいかにして誕生し、そして受刑者たちに尊厳を取り戻させ、自由と民主主義の精神を育んでいったかを描いた一冊である。協会名となったマカナとは、英国軍と戦い、1820年に亡くなったコサ人の戦士の名だという。

苛酷な強制労働と暴力が支配する刑務所で看守の目を盗んでシャツを丸めてこっそりと始められたサッカーが、次第に多くの受刑者たちを巻き込み、抑圧に堪えて様々な手を尽くしてサッカーの実施を認めさせ、強制労働の合間に手作りでサッカー場を作り、やがて刑務所の中にサッカーリーグとサッカー協会が発足して受刑者たちの希望となり、受刑者たちが行うサッカーの試合の熱狂と真摯な姿勢がやがて抑圧的な看守たちとの和解をももたらしていく。

マカナサッカー協会は単に組織を作ったのではなくFIFAの規程を厳格に順守した仕組みとして始められた。『スポーツではあるが、自分たちがつくるシステムは公正と公平を重んじ、正義と民主主義の二つの理想に基づいているものでなくてはならない。つまり、アパルトヘイトと真逆にある組織にしたかったのだ』(P92-93)。所属する刑務所内のクラブチームもFIFAの理念に基づいて「無差別」を謳った。当時のFIFAが反アパルトヘイトを明確にして南アフリカを国際試合から排除し人種差別と断固として闘う姿勢であったことも大きく後押ししていた。

面白いのは、サッカーリーグとサッカー協会の運営を通じて受刑者たちは技術の向上や個々の喜びだけでなく、政治力や交渉力、調整力を身に着けて行っているところだ。刑務所側との虚々実々の駆け引き、受刑者同士の議論と折衝、新たに入ってきた若い受刑者たちへの教育や説得などを通して、受刑者たちは政治家としてのスキルを徹底的に磨いていった。いわば、非人道的な刑務所という最悪の環境下に最高レベルの「民主主義の学校」を作り上げていく様が、この本には描かれているのだ。

現に、関係者たちは出所後、反アパルトヘイト活動の指導的立場となり、アパルトヘイト政策停止後の1990年代以降、政治、経済、教育、研究、地方自治、法曹など幅広い分野をリードする人物となっていく。マカナサッカー協会初代会長を務めたディハング・モセネケは黒人法律協会を創設して後に最高裁判所副判事となり、クラブチームを率いたスティーヴ・チウェテはマンデラ政権でスポーツ大臣に、同じくクラブチームを率いたジェイコブ・ズマはアフリカ民族会議議長を経て2009年から南アフリカ共和国大統領に就任(現職)、選手であったパトリック・レコタは1999年に国防大臣に就く。その他、現在の南アフリカの名だたる名士たちがかつてはこの刑務所の囚人サッカー選手やサッカー協会関係者であったという。

2010年の南アフリカワールドカップ開催に先立つ2007年、ロベン島のサッカー場にマカナサッカー協会の創設メンバーとペレら世界的なサッカー選手が招かれ、FIFA役員、南アフリカ政府閣僚らが見守る中で式典が開催された。

サッカーというと、どうしてもフーリガンに代表されるような無軌道な暴力や、ナショナリズムを喚起してファンの差別的な言動を誘発する負のイメージが強い。国際試合ともなるとなおさら国代表同士の対戦が、民族・人種への憎悪に結びついてしまう例が少なくない。一方で、スポーツの喜びが生きる希望となり社会の紐帯となり、そして自己や団体を成長させ、さらには国境を越えて連帯させる土壌となったりもする。

スポーツが非常に身近な現代社会では、そのスポーツの両義性を冷静に見据える目を養う必要があるのだろう。スポーツとして表出される様々な現象は社会そのものであるとも言われている。その一方の極であるところの、一つの成功例として、また純粋に感動的な実話を味わうという目的でも、この本は非常に様々な発見と満足を与えてくれる一冊だと思う。

サッカー史上最良のエピソードの一つは、人種差別との戦いの中で生まれたのだ。

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