「大学教育について (岩波文庫)」ジョン・スチュアート・ミル 著

近代自由主義思想に多大な影響を与えたジョン・スチュアート・ミルが1865年にスコットランドのセントアンドリューズ大学名誉学長に就任したとき大学教育の普遍性・重要性について長々と語った就任演説の翻訳本。なんでも二時間(または三時間という説も)語り続けたというから、お疲れ様である。しかし、このスピーチの草稿執筆のために就任を一年延ばしただけあって、当時の大学教育、とくに一般教養を学ぶ意義について、時代を越えて響いてくる内容になっている。

とはいえ、150年前のこと、当時と現代とでは大学の置かれた状況は大幅に違うし、各種学問分野も比べ物にならないほど格段の進歩があり、「大学教育について」というよりは「学ぶことについて」あるいは「教養について」という方が的確かもしれない。しかし、確かに個別的に各学問について語った内容は時代性を反映しているものの、そのスピーチの本質は今でも普遍性を持っていると思う。

ちなみに1865年というと、「資本論」出版の二年前で、経済学の主流は古典派、フロイト9歳、マックス・ヴェーバー1歳、コッホは22歳で結核菌を発見するのは17年後、18歳のエジソンは電信係として働き始めて一年が経過し仕事の退屈さにうんざりしはじめ、ライプツィヒ大学に通っていた21歳の学生ニーチェが古本屋でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入してその虜になっていたころだ。一方でジュールやトムソンが盛んに研究を進め物理学上の発見が次々となされ始めたのが1850~70年にかけてでもある。しかし、殆どの学問はまだ黎明期か、それ以前、姿をあらわしてすらいない。

現代まで形を変えて延々と続く大学教育と職業教育の関係についての議論のおそらくスタートラインあたりの見解がミルのスピーチの冒頭に明示されている。すなわち

『大学は職業教育の場ではありません。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。』(P12)

では、「有能で教養ある人間を育成する」ために何を教えるのかというと「一般教養(general culture)」であるという。それは『個々に独立している部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまでいろいろなところで得た知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合わせ、いわば知識の全領域の地図をつくりあげること』(P15)すなわち『諸科学の「体系化」』(P16)であり、大学は『知識ではなく知識の哲学を教える機関』(P16)であるという。ただし、その大学の役割の限定は知識そのものがほかの場所ですでに獲得されていることが前提で、また、専門教育を行う学校で一般教養が教えられているかというと、『科学が近代的性格をもつに至ってよりこのかた、そのような学校はどこにもない』(P17)。

『諸科学の「体系化」』の学問としての一般教養教育の在り方と職業・専門教育との関係性についての見解から始まって、以後、一般教養教育を「文学教育」「科学教育」「道徳科学教育」「道徳教育と宗教教育」「美学・芸術教育」の五つの章に分けてそれぞれに当時の各学問領域を分類してあり方について語っている。

いくつか印象的な、おそらく現代にも通じるようにみえる部分を抜き書きしてみる。

『一つの主題について一般的知識をもつということは主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的では無く徹底的にそれらの真理を知ることです。(中略)広範囲にわたるさまざまな主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのです。そしてそのような人々は、各々自分自身の領域で獲得した知識から真の知識がいかなるものであるかを学び、一方、他の領域の主題については、そのことについて熟知している人は誰であるかを知りうるに足る知識をもつでしょう。ただし、信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量をわれわれは軽く見積もってはなりません。』(P28-29)

『あらゆることについて疑ってみること、どんなに困難であろうとも決して回避しないこと、思考のどんな誤謬もどんな矛盾もどんな混乱も決して不注意から看過せず、自分自身の説であろうと他人の説であろうと否定的批判による厳密な吟味なしでは一切容認しないこと、そして特に、一つの言葉を実際に使用する前にその言葉の意味を、一つの命題に同意する前にその命題の意味を明確に理解しておくこと。』(P47)

『方法を知らずして偉大な行為をなし、通常の思考手段の助けを借りず、しかも自分の結論に至った推論過程を他人に説明できず、したがって、その結論の正しさを他人に納得させることもできずに、もっとも深遠な真理を見抜くという「無口な巨人」がいるという噂話に惑わされてはなりません。』(P77)

『論理的訓練を受けていない人が、自分自身の経験から正しい一般的結論を引き出そうとするときほど、どうしようもない無能ぶりが明らさまになることはありません。また訓練を積んだ人々でさえ、その訓練がある特定な分野に限られ、帰納法の一般原理にまで及ばない場合には、彼らの推論を事実によってすぐに検証できる機会がない限り、誤りを犯します。有能な科学者たちも、まだ事実関係が確認されていないような問題にあえて取り組むときには、自分たちの実験データから、帰納法の理論に照らせばまったく根拠のないことが判明するような結論を平気で引き出したり、概括化を行ったりすることがよくあります。事実、練習だけでは、よしんばそれが適切な練習であっても、原理と規則がなければ不十分です。』(P81-82)

一方で、150年後の現代世界では専門領域の細分化だけでなく『諸科学の「体系化」』に必要な一般教養の深化・広範囲化、さらにはその範囲の曖昧さをより浮き彫りにしている。どこまで学べば体系化なるものは出来るのか、「体系化」とはほとんど論語で言うところの夕べに死んでもいい「道」のような何かのようにも感じるし、「体系化」の欲求とそれに至る学びの困難さや研究者とのコミュニケーション不全こそが、教養・学問に対する不信感へと飛躍し、敵意すら生んでいるようにも見える。

ゆえに、学ぶということの原点に戻るという意味でも、またミルのスピーチが行われた十九世紀半ばから学問はどのように変わってきたのかを振り返る意味でも、今、読み直す価値がある一冊ではないかと思う。

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