「日本の核開発:1939‐1955―原爆から原子力へ」山崎 正勝 著

本書は、『核に関わった人びとが、戦中のウランの軍事研究開発と広島・長崎の原爆被災の経験を経て、どのように核エネルギーの問題を考えてきたか』を、『ドイツでウランの核分裂が公表された1939年から、原子力政策が始まった1955年までの日本の核開発の歴史』を様々な史料を元に詳細に描いたもので、当時の関係者の思惑や政策決定、そして理念と政治との対立と矛盾が現在まで続く原子力をめぐる様々な問題を孕んでいく様子が非常によくわかり、とても参考になる。2012年度科学ジャーナリスト賞受賞。

第二次大戦中の日本の核開発についてはすでに第二次大戦後の米国の科学調査団の調査で『大規模な計画はなかったと結論付け』(P4)られているが、これまで米国のジャーナリズムでは原爆投下の正当化の文脈で過大に描かれる傾向が強く、一方で日本国内では被爆国という特殊性から過小に、あるいは、技術的理解不足から過大に描く傾向が強かったという。本書では近年になって公開・発見された新資料なども交えて、丁寧な分析と記述が行われている。

第一部戦前・戦中編は陸軍主導の理化学研究所の物理学者で京都帝大の仁科芳雄(1890-1951)らによるニ号研究を中心に海軍主導のF研究など戦中の原子爆弾研究の様子が描かれる。

日本の核開発は上記の通り陸軍のニ号研究と海軍のF研究とが独立して存在し、相互に情報共有も少なく、また予算・設備・資源すべての面で小さく基礎研究が中心であった。総予算はマンハッタン計画の二十億ドルに対し、ニ号研究で五百万ドル(二千万円)、用いられたウランはマンハッタン計画の二百数十トンに対し、ニ号研究は一トン未満である。研究者の間でも軍の担当者の間でも「研究体制や工業力、資材、資源などからみて、とても今度の戦争には間に合わない」(F研究の研究者木村毅一P63)というのが共通理解で、「この戦争に間に合わなくても、つぎの戦争に間に合えばいいんだ」(木村の意見に対する海軍の返事P63)と考えられていた。ニ号研究の指導者仁科芳雄も「お国のために役立つ研究」と言いつつも、実際には研究者を戦地に行かせないことと、基礎研究を継続させていくことが目標であったという。ウランの濃縮研究、大サイクロトロンの開発等、基礎研究と応用研究とが進められてはいたものの、結局1945年4月14日の空襲で研究設備が焼失し、戦前戦中の核開発は頓挫する。

原爆投下後の政府の対応の遅れについても一応引用しておく。

『広島と長崎への原爆投下後、肉親や友人の安否を案じて、外部から両市に入り残留放射能に被曝した入市被爆者と呼ばれる人たちが約11万人いたとされている。人的な被害に対する正確な理解を行い、初期放射能と熱線だけでなく、残留放射能の危険性を軍と政府が的確に理解し、それを一般国民に伝えていたなら、二次被害を軽減できただろう。しかし、「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト」という大本営の方針と姿勢によって、それは阻まれたのである。』(P80)

ニ号研究の指導者仁科、F研究の指導者荒勝らからなる調査団が投下直後の広島で調査し原子爆弾であると認め残留放射能の危険性を報告していたにもかかわらず、軍内部では原子爆弾では無く「新型爆弾」と信じたい人々が一定数いて、その意見対立が被害の拡大につながった。

第二部戦後編で描かれるのは、その原爆投下後の日本における様々な議論と国内・国際政治の状況を経て原子力計画が開始される過程である。第二次大戦ではどこの国でも開発不可能だと考えられていた原子爆弾の広島・長崎への投下は科学者たちにとっても衝撃で、戦後の原子力研究の平和利用と軍事利用の線引きをどうするかの議論、さらに科学者たちによる核兵器後の世界における戦争廃絶運動へとつながっていく。

被曝の惨状を目の当たりにして、科学者の間では原子力の軍事利用は行うべきではないというのがコンセンサスとなった。エネルギー資源に欠ける日本にとって原子力の研究は非常に重要であると考えられていたが、すでに核兵器は存在しているなかで、平和的利用に限った原子力の研究はどうするべきか。原子力が核兵器の廃棄が行われるまで原子力の研究は一切行うべきではないとする意見、法的規制によって軍事利用を制限した上で原子力の研究を行うとする意見、科学者の倫理観に委ねる意見、あるいは平和利用と軍事利用とは不可分と考える意見などがあった。

議論が伯仲してまとまらないまま時が過ぎ、科学者の議論を待たずに後の首相中曽根康弘議員らが中心となって政治主導で原子力予算の計上などが行われ政治と科学界との対立が表面化していく中で、1954年3月1日、米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で核実験を実施、危険区域外で操業していた第五福竜丸の乗組員23人を始め、延べ856隻の日本漁船が被曝・被災し、原水爆禁止運動が盛り上がる。原水爆禁止運動の盛り上がりを受けて学術会議は原子力研究における公開、民主、自主の三つからなる原子力三原則を発表、続けて同三原則に基づく原子力基本法制定の動きを強めるようになる。

一方で、ビキニ事件に関する米国の懸念はビキニ事件が共産主義者のプロパガンダに使われることで、この対策として、米国防総省内で日本(とドイツ)に原子炉を建設し原子力技術の供与をすることで原子力の平和利用の効果を訴え批判的な世論を抑えようというアースキン国防長官補佐官の提案に基づく論が浮上する。アイゼンハワー大統領の「原子力の平和利用」演説を背景として、ジェネラル・ダイナミック社のホプキンス会長は「原子力マーシャル・プラン」を提唱するなど、反共政策としての敗戦国・発展途上国への原子力設備の提供という案が主流となっていった。

このような米国の政策や、日本国内の原水爆禁止運動の盛り上がりに対して、読売新聞社社主正力松太郎は政界進出の公約として原子力の平和利用を掲げることを考えており、右腕であった日本テレビ取締役柴田秀利に原子力キャンペーンを命じる。原子力の導入が重要と考えていた柴田はホプキンスら原子力平和使節団の招待や読売新聞紙上での原子力キャンペーンなどを展開して精力的にメディア上で原子炉の建設を訴えた。しかし、1955年に入る頃には米国の政権内では原子炉の対外提供については消極的な意見へと転換していたという。1955年1月の国家安全保障会議の報告書には日本などについて、こう指摘しているという。

『何人かの指導者たちは、通常の利用可能なエネルギー源の使用や、一般に技術的、鉱業的技能を開発するという現実を直視せずに、彼らの経済的諸問題に対する解決策として、完全な原子力システムの獲得を希望したがっている』(P219)

その後、当初予定されていた原子炉の提供ではなく濃縮ウランの提供に留まった米国の政策的背景としてこのような点があったということだ。何にしろ読売新聞のキャンペーンが原水爆禁止運動へのカウンターとして一定の世論形成に効果があったことは確かであるようだ。

上記の報告書とほぼ同時期に日米外相レベルでビキニ事件への賠償金200万ドルの支払いと、駐日大使から濃縮ウランの提供や原子力関連技術の供与、専門家の教育育成などからなる協力計画が提示され、四月から五月にかけて学術会議などで議論が行われ、学術会議は原子力三原則の厳守を訴えるが、日米原子力協定では米国側に主導権があり特に日本の科学者の自主性を大きく損なう点や、原子力技術に関して機密事項が多く公開の原則も危うい内容で締結され、原子力三原則に基づく情報の公開・研究の自由を定めた原子力基本法(制定時、科学者の自主性については曖昧にされた)と情報公開・研究の自主性を制限した日米原子力協定とでダブルスタンダードな体制として、日本の戦後の原子力研究がスタートすることとなった。

戦後の原子力研究の再開を巡る議論や政策形成の不徹底さと矛盾を抱えたままに再開された原子力開発は原子力研究の遅れとして表面化し、『アメリカに依存することを優先して、自主的な原子力技術をつみ上げていく努力の欠落』(P293)が問題となった。1970年代に問題となったのは、『軍事転用を主要な危険性としていた1954年当時とは違って、原子力発電の安全性問題であり、原子力政策の閉鎖性であった。』(P293)

『1960年代後半から1970年代初頭の原子力発電の開始時に、日本に原子力複合体とも言うべき国民にとって閉鎖的な体制が形成された。それは存在を自己目的化した公共事業のようになった。その惰性(モーメンタム)によって、公開的でも、民主的でも、自主的でもなくなっていったのである。』(P293)

本書で描かれる戦前戦後の核開発を巡る様々なエピソードで興味深い点はそれこそ数えきれないほどある。

例えば、戦前戦中の研究者たちが原爆研究に従事することに対する罪の意識を感じていなかったと証言していることだ。ニ号研究に参加したある研究者は日本の技術力・工業力では完成させることはできないだろうから、『参加することにぼくは罪の意識をまったく感じなかった』(P90)と戦後語っているが、おそらく本音だろう。オッペンハイマーも彼にとっての原爆開発が『「技術的に甘美なもの」(something that is technically sweet)』(P91)と語ったというが、これらの証言にはどこかアイヒマン的な悪の陳腐さがあるように思う。職務に忠実だったアイヒマンと、研究に忠実だった原爆開発者たち、アイヒマンとオッペンハイマーのそれぞれの忠実さは多くの犠牲者を生んだが、日本の技術者たちの忠実さは、様々な外部要因によって原爆の開発に至らず直接的な残虐行為の当事者にならなかった。そこにそれほど大きな差があるようには思えない。当事者の倫理とは別の次元で構造的に生み出される悪の問題が浮かび上がってくる。

一方で、戦後、仁科をはじめとした科学者たちは原子力の軍事利用禁止のみならず、戦争廃絶運動へと傾注することになるが、確かにそこには原爆開発に従事したことに対する反省があるようだ。戦争に原子力を使わせないようにすること、さらには原子力兵器がある限り戦争に原子力兵器が使われる可能性があるから、その管理体制を国際的に確立する必要があり(アインシュタインらはこれを発展させて世界政府樹立を提唱する)、戦争がある限り原子力兵器を使う可能性があるから戦争を禁止しようとする運動が盛り上がっていく。反面、原爆の存在が、抑止力となって戦争廃絶の可能性を生むという、後の核抑止論的な主張もまた同様の流れから生じてくる。この関係性が整理されてあらためて興味深い。反戦・反核運動の帰結としての現代政治思想の諸潮流という観点で観ると、なんともいえない苦いものがある。

また、現代から見て確かに違和感を覚えさせられるのが、日本やドイツなどに原子炉を提供しようというアメリカの主張だ。確かに反共政策から生じているものの、当時はこれが全くの善意という意味合いが強かったという点をよく理解しておく必要がある。1955年1月27日に米国のイェーツ下院議員は『広島へ発電用原子炉をプレゼントしよう』(P183)と議会で提案したという。上記のように、原子力の「非軍事利用」こそが当時の大義で、安全性が問題になるのは1960年代以降のことだ。この現代との認識のギャップが、核開発の歴史を理解する上で非常にポイントになると思う。

これらを踏まえても、なし崩し的に決まってしまった1955年以降の原子力政策の再開までの過程は問題が多く、読んでいて非常に残念だ。というか、先行きの立たない中で、それぞれがそれぞれの利害関係や主張を戦わせて行われる議論なだけにどうしても折中的にならざるを得ないのだとしても、その問題を問題のまま放置した結果としてどんどん悪化させていきながら現代まで繋がってくる様には、哀しみを禁じ得ない。

現在、原子力を巡っては難題というにはあまりにも大きな課題を背負っているが、現代社会の諸問題を考えるために、一旦その原点に戻って歴史を理解するのに非常に有用な一冊であると思う。知らないことばかりで本当に勉強になった。

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