「ホームズ船長の冒険―開港前後のイギリス商社」横浜開港資料館編

幕末の日本、黒船の来航を機に鎖国から開国へと大きく移りゆく中、多くの外国人が次々と日本を訪れた。中でも最初期に訪れたのが一攫千金を夢見る商人たちだ。そんな多くのヨーロッパ商人たちの中でもパイオニアの一人と目されるのが本書の著者である英国商人ヘンリー・ホームズ(1817-1913)で、彼は開港直前の1859年二月から1860年四月まで日本を訪れ様々な取引を行い、日本各地を見て回って、その記録を残した。日本来訪から四十四年後の1904年、ホームズが86歳のときに当時の航海日誌を元に回顧録的に書籍化したのが本書である。

子どものころからいたずら好きで手におえない少年であったホームズは1831年、十四歳で両親に船に乗せられて水夫としてのキャリアをスタートさせ、1853年に自身の船を持ち船長としてアジア貿易を手掛けた。1854年に彼が座礁したオーストラリア・クイーンズランド沖の一帯は彼の名をとってホームズ礁と呼ばれているという。1858年から木造帆船トロアス号の船長として、当時、英国東インド会社の衰退によって台頭しつつあった新興貿易商社ジャーディン・マセソン商会と契約、英国と上海との海上輸送を担っていたという。1859年二月の上海、中国茶価格の大幅な低落で一儲けの期待を裏切られうんざりしていた彼が、同社上海支店長ジェイムズ・ウィッタルから持ち掛けられたのが日本への渡航だった。

当時の日本は、黒船の来航以降次々と押し寄せる欧米列強との外交・通商交渉の真っただ中だ。1858年、アメリカとの間に結ばれた日米通商修好条約、および同様の内容を英仏露蘭と締結し、翌1859年七月に神奈川(横浜)開港を行うことになっていた。その細かい条件交渉や為替レートなど火花散るやり取りが行われ、当然通商条約反対論も根強く攘夷論が攻撃性を一気に増しつつあった時期だ。そして、ウィッタルがホームズ船長に持ちかけたのは、開港前に日本に渡航していち早く競争相手よりも先に貿易の端緒を掴む、という話である。非常にリスクが大きく、命の危険すらともなうが、上手くいけば大きな儲けになる。

『朝、ジャーディン・マセソン商会を訪れると、上海支店長のジェイムズ・ウィッタル氏は、もし私に日本でトロアス号が拿捕されたり、あるいは破損する危険を負ってもよいという気があれば、日本に行くためにトロアス号を傭船するつもりだと言った。私はすぐにこの申し出に同意し、期間傭船の契約を結んだ。』(P12)

ホームズ船長率いるトロアス号は二百トンの砂糖と、案内人としてジャーディン・マセソン商会の若き商人ウィリアム・ケズィックを乗せて長崎へと出航する。

ケズィックの名前にピンと来た人は幕末の歴史に詳しい方だろう。1859年に来日後、横浜に日本初の外資系企業ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)を開設、対日貿易責任者として62年まで滞在し、その間、ジャーディン・マセソン社員のトーマス・グラバーを抜擢して長崎にジャーディン・マセソン商会長崎代理店(通称「グラバー商会」)を開設させ、1863年には長州ファイブこと井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、伊藤俊輔(博文)の出国を手引きして英国留学の道を開き、その後もアジア貿易で辣腕を振るい、彼の一族がジャーディン・マセソン商会を支配することになる、あのウィリアム・ケズィック(1834-1913)である。ホームズ船長は、しょっぱなから凄い輸出品を運んでいたわけだ。

というわけで、一年間のホームズ船長の日本見聞と日本商人・英国の船乗りとの間の海千山千の取引が始まる訳だが、すこぶる面白いのでぜひ読んでみてください。一つには、恐らく七つの海を渡り歩く船乗りであったことが大きいのだと思うが、当時の日本を訪れた多くの欧米人が持っていた異文化に対する偏見を彼は殆ど持っていないこと、もう一つには、非常に鋭い鑑定眼と先見の明の持ち主であったことがよく伝わってくる内容だ。

前者の一例として当時の日本の風俗や文化を取り上げる書籍でよく引用されているのが、ホームズ船長が日本の混浴を目にしたときの記録であろう。最近書評を書いた『「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」中野 明 著』でも紹介されていた。

『入浴の第一段階はつぎのようである。醸造場でみかけるような大桶があり、とても熱い硫黄の湯でみたされていて、それにはいる。私が行ったとき、三〇~四〇人の人たちが樽のなかの鰊(ニシン)のように詰めこまれ、うだるまではいっていた。七面鳥のように赤くなってでてくると、仕切られた区画に行き、そこで糠袋のようなものでごしごしとこすってもらう。それからお湯で洗い流し、休憩室へ行って、茶や煙草を楽しむ。休憩室では老若男女をとわず、すべての人が白い布もまとわない裸で、性別や年齢、つまり私たちが西洋で礼儀作法と考えるものとはいっさい関係なく、ありとあらゆる姿態で横になっている。「これらの人々は、人間が堕落する前にエデンの園にいた人間の最初の祖先と同じように純粋なのだろうか」と思った。しかし、よく考えてみると、「いや、そうではない。これはかられが純粋で貞操がかたいからではなく、日本の習慣なのである」と、私は一人でつぶやいた。』(P30)

日本を訪れた当時の欧米人の大半が、裸体を気に留めない日本人の「野蛮さ」を非難しているなかで、彼の視点、すなわち単なる習慣の違いであって道徳観の優劣ではないとする理解はかなり少数派に属し、かつ、それは本質を突いていた。まぁこのあたりの当時の日本の裸体観については前述の『「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」中野 明 著』をどうぞ。

後者の例は数えきれないほどある。オオサンショウウオに興味を示して何とか輸出出来ないかと思案し、漁師からタカアシ蟹を入手して帰国後大英博物館に売り飛ばし、周囲が中国茶があるから売り物にならないんじゃないかといぶかしがる中で日本茶を買い付けて、上海で高値で売りさばき、海藻類が中国向けに売れると知るや、フットワーク軽く函館へと向かってアイヌ人と交渉しようとするも、これは失敗、日本の貨幣と海外の貨幣の価値の差に気付いて(当然違法な手段で)少なからぬ貨幣を入手してやはり高値で売りさばいて大儲けする。この貨幣の価格差については『幕末の金流出は何故ハイパーインフレを起こしたか?』で書いた通り後に幕末の金流出という事態へと進展するが、彼が為替差益に気付いたのは貨幣改鋳(1859年六月)の前、1859年四月のことで、七月から他の商人が日本の貨幣に殺到する、その先を行っていた。

日本市場の将来的な有望性、日本の高い文明度をホームズ船長は熱く語っているが、これについては本書が執筆されたのが同時代ではなく1904年ということは一つ考慮にいれておく必要はあるだろう。急激な工業化を成し遂げ、不平等条約解消、軍備増強、日清戦争で清朝を下し、今まさにロシアと争おうとする時期だ。まぁ、そういう後出し感を除いても、確かにホームズの先見性の高さ、視点の公平さは随処に現われていて、少なからず当時から日本の可能性については認めていたのだろうと思う。

ホームズに限らず日本を訪れた人々の間では確かに日本市場の可能性は非常に有望に映っていたらしい。本書では巻末にホームズの回顧録とは別に当時のホームズ船長に関るジャーディン・マセソン商会の文書や駐日英国公使オールコックの貿易関連の文書も収録されているが、その中のオールコックの文書(1860年四月二六日付け駐日公使オールコックよりの公信)に以下のような評価がある。

『輸出貿易は、規模が大きく、利潤があり、しかも弾力的な貿易のあらゆる要素がそろっていますので、限界をさだめるのがむずかしいところまで拡大する可能性があります。

(中略)

貿易の急速な発展の主要な障害は、供給量が限定されているためではなく、幕府の政体にあります。というのは、このように人口が多く、すでに労働力を有効に利用できる利器のととのっている国では需要の拡大に応じて農業生産物を増加させるには、きわめてみじかい期間で充分でしょう。これら政治的な障害がもっと手に負えないものであるのは、日本の支配階級すべてが貿易の拡大に対して、原則的にも信条的にも反対し、貿易の拡大が国の貧困化、秩序の転覆と国家の滅亡につながると信じていることです。期待される日本との貿易の発展は、あきらかに、資源そのものに依存しているというよりも、はるかに資源と日本人とのすべての通商取引を統制している政治的状況に依存しています。』(P116-117)

高いリスクを取って高いリターンを得たホームズ船長は1860年四月に日本を離れて帰国、本人が書いている通り最後の航海となったそうだ。その後の足取りは必ずしもはっきりしているわけではないが、訳者によると、1865年の英国の記録に、「ホームズ・ウェストール商会」という商社の存在があるという。すなわち、日本での貿易で一山当てて船乗りから自身の名を冠する商社を起こしてキャリアアップしたようだ。途中、ジャーディン・マセソン商会から中国に戻ってくれば港を一つ任せて独立させようと誘われているから、同社の誘いを断って独立したということなのだろう。日本からの土産物である日本製の鐘を地元の公園に寄贈(この鐘は第二次大戦で戦時供出されたという)し、94歳で亡くなった時「(複数の)公共企業の理事」であったという。

まぁ、蛇足で繰り返しになりますが、訳者も『本書は、ホームズ船長が日本を訪れてから四〇年以上もたってから執筆されたという事情もあり、いくつか歴史的事実と相違する記述もみられる』と書いているとおり、あくまで回顧録ですから、そのあたりも踏まえて、かつて船乗りとしてアジアをまたにかけたおじいさんの思い出話として面白く読むのがよろしいかと思います。そして、当時の日本の様子や幕末の貿易の商人の姿を垣間見ることができるだけでなく、こんな楽しい昔話が出来るおじいさんはそうそういない、という点で、非常に面白い一冊です。

タイトルとURLをコピーしました