1534年にイグナティウス・ロヨラらによって創設されたイエズス会は、ポルトガル国王の庇護の下、瞬く間にインド、東南アジア、中国、そして日本へと進出していく。その躍進の理由と海外布教に際して取られた様々な戦略、組織、彼らが異文化へと布教の過程で直面した様々な課題、その対処法などを広くまとめた一冊。
イエズス会が短期間に海外布教を成功させることが出来たのは『国家権力との共生関係、文化的・科学的戦略にもとづく布教方法の導入、イエズス会総会長を頂点とする厳格なヒエラルヒーによる教団の中央集権的統括体制――これらの要素の重層的な活用』(P244)によるとまとめられる。これら各項目についてそれぞれ各章で細かく史料に基づいて具体的に分析されていて非常に興味深い。
イエズス会が海外布教を行う上で採った戦略が「適応主義政策accomodatio」と呼ばれる、異文化の尊重、現地の流儀に沿った対応であったという。東インド管区長で1579年に来日した宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1580年に『日本人とヨーロッパ人との一致と隣人への教化のためには、我々が日本人の習慣を習得して遵守し、日本人の習慣を奇異に思ったり悪く言ったりしない』(121-122)と書いており、従来『ヴァリニャーノ一人のオリジナリティにもとづいた発案』(P120)とする定説があったが、ヴァリニャーノ来日以前の宣教師たちも『現地の「習慣」に適応した行動を実践していたことが確認』(P120)されており、むしろイエズス会全体の方針であったとされる。
肉食を悪徳視する習慣に対応して肉を断ったり、日本人が形式美を非常に尊重する傾向があることを踏まえて、『教会と典礼が持つ意義を日本人に理解させることよりも、教会を清潔に保ち、美麗に飾り立て、キリスト教の諸典礼を抜かりなく執行すること、つまり、教会と典礼の「形式美」を優先』(P124)させたり、その他細かく会話や服の着方、食生活、礼儀作法などについて宣教師たちに学ばせていた。この適応主義政策は日本に限らずインドや中国など様々な布教地で実施されていたという。
また、何故イエズス会による日本へのキリスト教布教は豊臣徳川両政権による弾圧と布教の失敗という結果になったのか?宗教的・文化的側面や、日本側の政権の政策の側面からの論考は多く見られるが、本書で描かれるようなイエズス会内部の要因からの考察はあまり見かけなかったので新鮮だ。内部の要因、すなわち財政問題である。
イエズス会の主な財源としては、
1) ポルトガル人や現地住民信者などからの喜捨
2) ポルトガル国王からの給付金
3) ローマ教皇からの給付金
4) インド国内の不動産
5) インド副王への贈答品
6) 各種の貿易
の六つに大別される(P151)が、喜捨は少額で定期性に欠け、国王・教皇からの給付金は多額ではあったが支払いは滞りがちで財源として依存することは危険であったから、結果としてインド国内で取得した不動産を賃借することによる賃料収入と、丁字貿易や日本からの生糸貿易など各種の貿易、日本においては武器売買の仲介などによる利益によって財源の確保が図られていた。一方で信者数は順調に増加していくと、財政規模も拡大し、慢性的な財政危機がイエズス会を襲う。さらに異国の地ではポルトガル国王の保護も期待できないから、特に日本のような政情が不安定な地域では、現地の領主層からの保護が重要となるが十分な庇護者となりえるような有力な領主を改宗させることは難しい。
『日本の大村氏や有馬氏に見られるように、在地の政治的実力者の権力基盤が脆弱で教団の有力な保護者となりえない場合、宣教師たちはこれまでの「他力本願」から「自力本願」へと方針を転換し、布教保護権の実質的な空洞化にともなう布教環境の悪化を打破せざるをえなくなった。その自力本願の手段として彼らが選択したのが、軍事力の導入とその行使による教団の武装化であった。』(P244)
信者保護のための、竜造寺氏に押されて衰退する大村氏や有馬氏への武器商人の仲介等の支援に留まらず、日本イエズス会自身も長崎を要塞化して自衛のための武力を備え始める。諸大名からの脅威に備えた自衛のための武力の保持は、諸大名にとっては非常に脅威とうつる。特に鉄砲や軍需物資などを取り扱うポルトガル商人の力を背景としているだけに、その脅威はなおさらで、この脅威は「キリスト教勢力による日本の軍事征服」という恐れを抱かせることになった。イエズス会武装化という自己防衛策は『たしかにイエズス会の身を守り、教勢を安定させるものではあったが、同時にイエズス会自体を攻撃し、危機にさらす力をも併せ持つ「両刃の剣」でもあった』(P245)かくして秀吉の伴天連追放令(1590)に始まるキリスト教徒弾圧政策が開始されていく。
ところで、当時の政権が怖れを抱いた「キリスト教勢力による日本の軍事征服」という脅威は現実のものであったのか、というと当時のイエズス会やその後ろ盾のポルトガルにそのような力は無かったと言える。まず本国ポルトガルは1580年にスペインに併合され、そのスペインもネーデルラント独立戦争(1568-1648)の真っただ中で、さらにイングランドとも戦端を開き、アルマダの海戦(1588)で虎の子の無敵艦隊が壊滅、その後もアイルランドを巡る英西戦争(1585-1604)とネーデルラント独立戦争の二正面作戦を強いられ、斜陽が明らかであった。欧州と南米の保護だけで手一杯なのだ。
しかし、本国のことを出す必要は実は全くない。というのも当時の軍船は欧州から日本まで航海するような遠洋航海能力は持っていないからだ。オランダ船がポルトガル船以外で初めて東南アジアへ到達したのは1595年、四隻のオランダ船がジャワに辿り着いたもので、これによってポルトガルの独占が崩れ十七世紀にオランダ、続いてイングランドが進出しポルトガルにとって代わるという流れからもわかる通りだろう。実質インド・東南アジアのポルトガル領は本国の支配を離れて独立勢力化しており、かつ、地方勢力を軍事力で圧倒することはできても、当時の日本を征服するほどの統一的な指揮体系も、戦力も全く持ち合わせていない。
しかし、当然のことながら、当時はこのような彼我の戦力差を冷静に判断できた者はおらず、一方で「キリスト教勢力による日本の軍事征服」という妄想が豊臣・徳川政権における脅威論となり、他方で軍事力行使による教勢の回復という空想的な軍事計画がイエズス会側で練られ、さらにそれが露見してより日本に警戒心を抱かせる。このような一連の流れの帰結としてのキリスト教布教の失敗である。
イエズス会はプロテスタントによる宗教改革への対抗としてカトリックで起きた体制内改革運動「対抗宗教改革」の一環として誕生したが、カトリックの教勢拡大という目的のために直面した世俗化の過程で、自ずと変質を余儀なくされた。その過程にイエズス会の日本布教の失敗の要因を見ることが出来そうだ、ということが本書からみえてくる。その他、当時のイエズス会の様々な施策はいずれも興味深い内容となっているので、非常に面白い一冊だと思う。
参考書籍
・羽田 正 著「東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)」
・成瀬 治 著「近代ヨーロッパへの道 (講談社学術文庫)」
・小田垣 雅也 著「キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)」