東南アジアの歴史に対しては茫洋としていていまひとつ捉えどころがないイメージを感じてきた。目を閉じてみる。茫洋とした海原を越えた先に燦然と輝くアンコール・ワットが浮かんだかと思えば、すぐにヴァスコ・ダ・ガマらポルトガル人が押し寄せ、商人と海賊とが交錯するうちにポルトガルやオランダ、イギリスの植民地と化して、東南アジアの現地の人々の営みはすぐにイメージから消え去っていく。そのあとに浮びあがるのは二十世紀の苛酷な内戦と独裁と戦争、そして二十一世紀の目を見張る経済成長の姿だ。特に十五世紀以前の東南アジア地域のイメージは殆どないと言っていい。
近くて遠い東南アジアの歴史はどのようなものだったのか。著者は東南アジアの歴史を、古代から中世、中世から近世、近世から近代というような、直線的な『進歩と発展をともなう歴史展開ではな』(P29)く、『いうなれば「自己充実史」であり、「精神文化深化史」ではないだろうか』(P30)という。
『東南アジアは自己表現や自己文化の強化のためにインドや中国の技術や考え方を借用してきた。それらをパッチワークとして用い、従来からの土着の価値体系に補強する形ではめこんできた。それは東南アジアらしい国風文化への創造活動であった。だから各地の巨大遺跡には民族独自の文化や信仰や技術が塗り込められ、それらはまるでインドとは別世界の文化遺産を作りだしている。』(P31-32)
と同時に、東南アジアの諸王朝は『各地において興亡した大・中の王朝が近隣の別の王朝を攻め亡ぼすことがよくあったが、少なくとも特定の王朝の軍隊が東南アジア以外の地域へ覇権を求めて遠征する史実はな』(P32)く、また『東南アジアの政治・社会・文化等の独自性を積極的にそれ以外の外部世界へ発信してこなかった』という点も特徴的だとされる。
交易の中継地として古くから多くの人々が行きかう開放性を持つ一方で、外部からの文化を積極的に受容しながらもその文化は外に向くのではなくひたすら内の文化の深化と充実へと向いてきた、という歴史が東南アジア史の特徴ではないかと指摘されていて、非常に興味深い。
本書では第一章で紀元前五百年以降の初期金属器文化の誕生から扶南、チャンパー、シュリーヴィジャヤ、シャイレーンドラ朝そしてアンコール朝やアユタヤ朝など諸王朝の興亡を経てヨーロッパ諸国の進出までの東南アジア史が概説されたあと、第二章から第九章までアンコール朝の政治・経済・社会・文化・宗教・美術などに焦点を当てて解説される。第十章では宣教師からみた十六・十七世紀の東南アジアの様子が、第十一章では江戸時代の日本から見た祇園精舎としてのアンコール・ワットがそれぞれ描かれている。
概史以外は基本的に八世紀~十五世紀に栄えたカンボジアのアンコール朝に焦点があてられているので、インドネシア、タイ、ベトナム、マレー半島などの諸地域についてはほぼ最低限の記述のみと物足りない面があるが、一方でアンコール朝については非常に詳しい。アンコール朝からみた東南アジア地域という視点でタイトルの通り「多文明世界の発見」が試みられた一冊だ。
興味深かったのはアンコール朝の司法制度である。祭政一致の神権政治を敷いていたアンコール朝は王が裁判権を統括し、『法が強制力を有する社会規範であった』(P175)という。ほぼ当時の碑文からわかった裁判の様子だが、非常に進んだ裁判制度を持っていたことがわかる。
上級裁判所としての首都法廷と下級裁判所としての地方法廷があり、裁判長の下に陪席判事と検察官がおり、予審判事が訴訟の裏付け調査をおこない、司法事務を行う官僚たちが揃っていた。裁判は刑法と民法は一体で土地の争いや横領・商取引などから殺人事件まで幅広く対象となり、『訴訟は、告訴、反論、審理、判決という手順で行われていた』(P180)。裁判では証人の証言が重視され、『当時の法廷では証人が審理の決め手となるような証言を引き出していたし、重要な役割を果たしていた』(P180)。また、客観的な証拠もまた重視されていたらしく、『証人が被告人を弁護して補足陳述を行ったなかで、証拠書類を挙げたことから、告訴人と被告人の立場が逆転し、有罪になってしまった裁判もあった』(P180)という。
死刑、身体刑(手足の切断や鞭打ち刑など)、禁固刑など残酷な刑罰が多かったが、罰金刑(貨幣制度は無いので金・銀か物納)もあり、本書を読む限り証人・証拠重視で様々な担当者が役割分担を行う制度が確立されており、司法システムとしては当時(十世紀~十四世紀)としては文句なしに世界最先端だったように見える。この司法システムはどのように確立されたのか興味がつきないが、さすがにそこまではわからない。一方で貨幣制度は未確立で物々交換が中心、税制度もシンプルでかなり未発達な状態であったらしく、この司法と経済の極端なアンバランスさは何故なのか非常に興味を抱かされた。
アンコール・ワットについても著者がその研究の第一人者だけあってかなり詳しく、アンコール・ワットへの日本人の墨書(らくがき)についても当事者の追跡調査が行われていて面白い。ともかくアンコール朝について非常に理解が深まる一冊となっている。
2018年8月10日、講談社学術文庫から再販されます。