「チーズと文明」ポール・キンステッド 著

人類の歴史はチーズとともにあった。

紀元前七〇〇〇年頃、農耕牧畜の進展によって家畜から取れるミルクを豊富に生産できるようになり、さらにミルクを保存し、凝固させることが可能となる陶磁器製の容器が登場、西部アナトリアから肥沃な三日月地帯にかけての一帯でチーズ製造が始まった。

当時、ミルクに含まれるラクトース(乳糖)を消化するために必要なラクターゼを作ることができるのは乳幼児だけだったため、成人はミルクを飲むとお腹を壊してしまい飲むことが出来ない。一方でチーズは製造過程でラクトースが発酵し乳酸に変わるか、乳漿(ホェイ)とともに取り除かれるため、成人でもミルクの栄養を摂取することができる。そのような点でチーズ(とバター)は当時の人類にとって重要な栄養源であった。紀元前五五〇〇年頃以降、成人でもラクターゼを作る能力を遺伝的に持つようになり、現在では人類の多くがラクトース耐性を持っている。

チーズ製造はその誕生以降、人類の発展とともに急速に拡大する。メソポタミアからエジプトとアナトリアへ、アナトリアからシュメールやギリシアへ、あるいは草原を渡ってユーラシアへ、ギリシアからエトルリアへ、エトルリアからローマへ、また騎馬遊牧民によって中央ヨーロッパのケルト諸族へ、ケルト人を通じて北欧へと次々と伝播していく。一方でインドと中国ではチーズ製造は根付かなかったが、その理由は必ずしも明らかではない。おそらくインドは亜熱帯の気候がチーズ製造を困難なものとしていた点が、中国では紀元前六〇〇〇年頃までに稲作が発展したことで家畜のミルクに栄養源を頼る必要性が低かったことや騎馬遊牧民との対立などが大きな要因ではないかとするのが有力だ。

古代、チーズは神への捧げものとして重要な役割を担っていたという。メソポタミアの古代都市ウルクの神話には豊饒の女神イナンナが、穀物を捧げることを誓う農夫エンキドゥではなくチーズを捧げることを約束した羊飼いドゥムジを結婚相手に選ぶ物語があり、それによってドゥムジはウルクの王となる。このチーズを捧げる宗教儀式は古代メソポタミアの諸神話に受け継がれ一つの類型として確立、キリスト教にまで影響を与えた。「羊飼い」は王権と結びつけられるほどにチーズ製造者として象徴的な役割であったことに気付かされる。

キリスト教においても、創世記18-8で神の訪問を受けたアブラハムがチーズ、ミルク、仔牛の料理で振る舞い、イサク誕生の予告を受けるエピソードがあるが、チーズはキリスト教の確立に少なからず影響を与えている。西暦二〇〇年頃、神学者テルトゥリアヌスはイエス・キリストの受肉をレンネット(『反芻動物の胃の内膜を乾燥させたもので、ミルクを凝固させるのに使用する物質』(P28))を使ったチーズ製造に例えたという。

『論文「キリストの肉体について」の中でテルトゥリアヌスは、アリストテレスの胚の発生の理論と、使徒ヨハネの福音書の第一章の解釈にレンネット凝固のイメージを使って、キリストの誕生が性交渉によらなくても、奇跡的にマリアの子宮内で妊娠が起こり、分娩も通常のやり方で起こったのだと主張した。表現を変えると、イエスの受肉に似たものとして、神がミルクを凝固させ、レンネットを加えることなしにごく普通のチーズ桶の中に完璧なレンネット凝固のチーズを生み出す奇跡を考えたのである。』(P159)

チーズ製造はローマ帝国下で大きく発展する。ローマ帝国の際限ない拡大は安価な奴隷労働力の安定供給をもたらし、奴隷を使った大農園制が確立、オリーブオイル、ワインとともにチーズやバターなどの酪農品が大量生産されるようになり、製造技術が確立され、様々な料理法が考案され、都市の上流階級がそれを消費する。ローマ帝国の崩壊後、チーズ製造は荘園制の確立とともに欧州に広がり、領主層や修道会が支配する荘園でフレッシュチーズやパルメザンチーズ、熟成チーズなどが製造されて多様化の一途を辿った。

転機は十三世紀である。荘園制の崩壊、ペストの流行による農民の困窮、市場経済の急速な発達によってチーズ製造は一時衰退するが、新たなチーズの作り手となったのが台頭してきた自営農民たちであった。スイスからピレネーにかけての中央ヨーロッパでも伝統的なチーズ製造方法が残って、現代までパルメザンチーズなどに代表される山岳チーズを受け継ぐことになるが、中世末期から近世にかけてチーズ製造の中心となったのが英国とオランダである。

英国では荘園制の解体から独立自営農民(ヨーマン)の台頭という移行過程がスムーズで、かつ、羊毛を主要輸出品としていたことから、羊毛生産とその副産物としてのチーズ製造が進んだ。大陸向け輸出品としてチーズやバターが大きなシェアを占めるようになり、代表的なチェダーチーズやチェシャーチーズが登場する。オランダでは、作物の生産に適さない土壌の貧困さが功を奏した。十五世紀頃から、オランダ農家は大麦やホップの生産に伴うビール製造か、酪農によるチーズやバターの製造に注力、イタリア商業都市の衰退に伴うオランダ諸都市の台頭と相まって、チーズ供給大国へと飛躍する。ゴーダチーズとエダムチーズという二大ブランドの誕生によって実に二十世紀初頭まで欧州向けチーズ輸出のシェアを独占した。

近世の覇権争いはオランダから英国へとヘゲモニーが移り変わったが、チーズにおいてはオランダと英国の熾烈な競争の結果、オランダが勝利する。十九世紀までに高まるチーズとバターの需要に対して英国は低脂肪低品質チーズ「フレットチーズ」の生産によってバター生産を拡大させて市場のニーズに応えようとしたが、オランダはむしろ主力のエダム・ゴーダの品質を堅持、新製品「スパイスチーズ」を製造することでバター製造の拡大にも対応しつつ差別化を図った。この結果、英国産チーズの悪評が高まり没落の要因を作る。

これに追い打ちをかけたのが当時台頭しつつあったアメリカで、アメリカは英国製のチェダーチーズやチェスターチーズの製法を真似て国内生産に乗り出していた。その担い手となったのが黒人奴隷である。安価な労働力に支えられた大量生産チーズが次第に英国の伝統的チーズ製造を衰退させ、十九世紀半ばにはアメリカで機械化されたチーズ工場が次々と操業、アメリカ産チェダーチーズが市場を席巻しはじめると、英国ではチーズ製造が絶えていった。その後も欧州からの移民たちが次々とアメリカに地元のチーズ製造ノウハウを持ち込み、そのノウハウを元に工場で各地方の名を冠したアメリカ産チーズが大量生産されていく。米国産チェダー、米国産ゴーダ、米国産パルメザン、米国産エメンタール、米国産モッツァレラ・・・。

このような歴史的経緯を背景として、メソポタミアで始まったチーズ製造の文明史は、WTOにおける米国とEUとのチーズを巡る知的財産権の所在を問題とした貿易摩擦で終わる。「チェダーチーズ」は地方名「チェダー」を冠した特徴的な製法で作られた「チーズ」なのか、「チェダーチーズ」という一般名称なのか。前者であればアメリカ製品がチェダーを名乗るべきではない、モッツァレラなど他の製品についても同様だ、というのがEUの言い分だ。ヨーロッパではチーズの名称はその土地土地の伝統文化と密接なため、アイデンティティの問題となる。一方でアメリカでも、建国以来、欧州から移民してきた人々の間で受け継がれたチーズ製造の伝統という認識があり、また産業として育ててきた自負がある。食文化と経済摩擦とナショナルアイデンティティが複雑に絡み合って、1992年に設立された原産地名称保護(PDO)制度を巡る対立が続いている。

生き残るための食への欲求がチーズ誕生の要因となり、信仰と共に育まれ、農業技術の発展によってチーズ製造が発達し、経済規模の拡大がチーズ製造を産業へと成長させ、市場経済の発展と大量生産を可能とする機械化が伝統的産業としてのチーズ製造を衰退させる。歴史上、例外を探すことが困難なほどに普遍的なサイクルをチーズも辿っていて、チーズから垣間見える歴史の奔流に身震いさせられる。各時代時代の、各ブランドのチーズ製造の特徴や社会的背景が非常に詳しくてとてもためになった。

ちなみに個人的にはゴーダチーズ派です。

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