「田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし」藤田 覚 著

十八世紀後半、江戸幕府の権力を掌握して様々な政策を断行し、通称田沼時代と呼ばれる一時代を築いた老中田沼意次(1719-1788)の評伝である。意次失脚後から現代まで脈々と続く悪徳政治家のイメージや、近年そのイメージへのカウンターとして登場した清廉な政治家としてのイメージのいずれからも距離を置いた、十八世紀後半という時代背景の中で生き、また時代をつくった田沼意次像を描いている。

田沼は、すくなくとも賄賂を受けいれている例もあり清廉潔白とは言い難いし、脇の甘さも目立つようだが、当時の多くの政治家たちも同様でもあり、特段悪質という訳ではないようだ。清廉潔白と呼ばれているような人――たとえばザ・清廉潔白な松平定信も――でも、大なり小なり贈収賄的なやりとりを行っている。そして、田沼の人柄の指摘が面白い。

当時の権力者たちに通じる特徴として、「権勢を誇らず」という点があるらしい。意次に限らず、当時の権力者の多くが、腰が低く謙遜家であるという特徴が語られており、意次も表面上は物腰が柔らかで何かと気配りが出来る人物であったようだ。六〇〇石の旗本から大名への成り上がりという点の「ひけめ」もあったか、居丈高ではなく慇懃にへりくだり、謙虚で家来の労をねぎらう気配りを見せて巧みに人心操縦を行い、一方で閨閥を築き、政略を駆使して成り上がり、様々な政策を断行するリーダーシップを発揮する。大名というよりは役人風の人物という指摘は当を得ているように思う。

一般的にいわれる「田沼時代」がいつからいつまでなのかは歴史家の間でも見解が分かれているという。広くは宝暦年間(1751~63)から天明年間(1781~88)にかけての時期を指して田沼時代とするが、始期を巡っては郡上一揆の処理で意次がリーダーシップを発揮した宝暦八年(1758)と、非田沼派の老中が相次いで幕政から退き田沼派で幕閣を独占した天明元年(1781)とがあり、本書では田沼時代を宝暦八年から意次が失脚して松平定信が老中に就任する天明七年(1787)までとし、宝暦八年から安永九年(1780)までと、天明元年(1781)から天明七年(1787)までで二分している。

田沼意次は六〇〇石の旗本から五万七千石の城持ち大名へと大出世を遂げたが、石高の増加だけであれば異例ではあるものの前例がないわけではないし、その増加も役職に応じたもので特殊というわけではない。しかし意次が特別だったのは、第一に将軍の意志を老中に伝える御用取次・側用人の奥勤めと、幕政を担当する老中職とを兼任したこと、また、従来の側用人が将軍一代限りで辞職したのに対し、二代に渡って職を続けたところにある。

草創以来の江戸幕府の特徴として、幕政を実行する老中職の権力が強くなりすぎて最高権力者であるはずの将軍職の力が低下し、統制が取れなくなるという問題点があった。それゆえに五代将軍綱吉は自身の側近としての側用人を置いて将軍権力の強化と老中・諸大名の牽制を図った。これに対して八代将軍吉宗は側用人の権勢が強まりすぎていた反省から側用人を廃止し諸大名の支持を取り付けたが、一方で自身のスタッフ機能として側用人とよく似た御用取次職や将軍直属の御庭番などを設置、紀州以来の子飼いの旗本たちを自身の側近として次々と登用し、やはり将軍権力の強化を図った。しかし、将軍が自ら政治を採る際には御用取次・側用人は有効だが、将軍が幼かったり、政治に消極的であった場合、彼らの権限が非常に強くなってしまう。さらに牽制しあうはずの老中も兼任してしまうと、その権力は絶大なものとなる。

田沼時代の諸政策がどの程度田沼意次によるものなのかは、どの程度彼が幕府の政策に影響力を持っていたのかについて必ずしも明らかでないことから、確定できないことが多い。諸資料から宝暦九年(1759)までには老中首座堀田正亮、側用人大岡忠光に次ぐ幕府No.3の実力者となり、宝暦十二年(1762)頃には第一人者として老中たちに対しても強い影響力を行使できていたという。明和六年(1769)、老中格として幕政にも直接参画するようになり、明和九年(1772)、格が取れて正式に老中に就任、この間着実に田沼派を形成して実務を掌握し、天明元年(1781)、老中、若年寄の幕閣を全員田沼派で独占したことで独裁的な体制を確立した。

その絶大な権力を背景にして意次が行ったのが困難に直面していた幕政、特に慢性的な税収不足と財政赤字の打開であった。

吉宗の享保の改革は端的にいうと倹約による財政支出の削減と行政のスリム化、年貢収入の最大化による税収の安定化による幕府の立て直しにあったが、あらかた田畑が開発されつくすと年貢収入のこれ以上の増加は望めなくなる。さらに十七世紀の気候変動によって飢饉や災害が頻発して年貢収入は不安定化し、年貢に変わる新たな財源確保が急務となった。

田沼時代の幕府財政は田沼意次が主導権を握った宝暦末年以降悪化しはじめ、不安定な明和期・安永期を過ぎて天明期に一気に破綻寸前まで陥る。幕府財政は宝暦末年まで年貢・金ともほぼ黒字基調であったが明和元年(1764)から米・金とも赤字に転落、それでもぎりぎりで踏みとどまり、安永期に入ると米の歳出超過は続くものの、金収入は黒字に転じて一段落する。しかし天明期に入って、天明の大飢饉や浅間山の大噴火、江戸の大洪水など災害が連発、財政支出が拡大して大幅赤字となっていく。この間、明和七年(1770)に三〇〇万両あった幕府の備蓄金は天明八年には八一万両にまで急減していた。

このようなぎりぎりの中で意次が行ったのが米以外の生産・流通・商業・開発など様々な分野の成長をうながし、そのための様々な経済政策・金融政策を打ち、財政支出を減らし、諸大名への金融支援・分配を削り、様々な税制を創設して税収増を図る施策であった。「御益(利益)」追求型の政治と呼ばれる。産業育成・経済成長・行政改革と増税とを一気にやろうとしたわけで、同時進行でやらざるを得ない切迫した状況であったが、その強引さは様々な衝突を生み、経済規模の拡大や蘭学を初めとする学問の発展など成果も少なくなかったものの、最終的に行き詰まり失敗してしまった。

具体的な諸政策については読んでもらえばいいが、一つ興味深い施策を挙げると、計画段階で頓挫した幕府銀行設立構想であろうか。

当時、各藩とも藩財政は危機的状況で、そこから様々な藩政改革が断行されていくことになるわけだが、幕府にも窮地に陥った諸藩に与える余剰財源は無かった。そこでまずは天明三年(1783)、大坂の豪商たちに大名への融資を命じる。この仕組みは大名から融資の申し込みがあれば大坂町奉行所が返済保証をつける。貸し手である両替商は年利八%の範囲で貸し付け、利息のうち五%を幕府に上納、その上納金から年利二・五%を両替商に戻すというものだった。天明五年には同様の仕組みで利息七%うち一%を上納する御用金令が出されている。大名の救済、幕府財政支出の削減、新財源創出という三つが達成できる施策であったが、これは結局商人たちの融資そのものに対する強制力が無かったため貸し渋りが起こり、実効性がないまま天明六年(1786)に中止となった。

この失敗を受けて、天明六年(1786)、新たに構想されたのが幕府銀行「貸金会所」設立である。資金繰りに困る諸大名への融資を行うため、全国の寺社・百姓・町人に対して御用金を課し、それを財源とした金融機関「貸金会所」を大阪に設立、その事務は三井組他複数の商人が行うというものだ。寺社は金十五両または相応、百姓(富裕農民)は持ち高一〇〇石につき銀二五匁、町人(地主)は所持する町屋敷の間口の広さ一間につき銀三匁を上納、貸金会所を通じて年利七%で大名に貸し出され、五年後以降七%の貸付利息から事務手数料を引いた利息をつけて出資者に返済されるという仕組みである。

ほぼ全国民に対する強制的な徴収である一方で五年後に利息がついて帰ってくる仕組みであるので、現代の年金のようなものと捉えればいいのかもしれないが、やはり現代同様に、当時の人々もこれは新しい負担としか思わず、しかも天明の大飢饉の真っただ中での「増税」案ということもあって反発が大きかった。また借り手である大名の方も、確かに市中金利よりも低金利で借りられるメリットはあるが、原資は領民でもある百姓・町人から取り立てた金であり、幕府の「貸金会所」を通じて借りるということは藩の内情を幕府に知られてしまうことになる。この点で大名たちからも反発が大きく、結局実施前に中止となってしまった。そして、この失敗が田沼意次失脚の呼び水となってしまうのだった。

計画段階で頓挫したので、実際設立されていたらどのような運営が行われるのか不明だが、もしかすると大名への融資に留まらず様々な分野への投資を行うようになって、市場経済の拡大に資するだけでなく文字通りの近代資本主義の形成に繋がっていたかもしれないし、やがて中央銀行的な機能を有するようになっていたかもしれない。いや、そこまでいくとただの妄想でしかないのかもしれないが、一つの可能性として興味深い施策の一つであったと思う。

丁度、本書の幕藩体制を言い表した部分が田沼政治とは何だったのかという問いの本質であると思うので引用しておこう。

『幕府は「国益」「御益」を標榜して幕府の利益を追求し、藩は「国益」「御益」を唱えて藩の利益を追求した。ときに幕府と藩の利害が衝突する。将軍・幕府と大名・藩とが、領主身分全体の利害にそって全国支配を行う仕組みを、幕藩体制と呼んでいる。』(P111)

このような前提で、これまで綱吉も吉宗も幕藩体制を前提としつつ幕府権力を限りなく強化していこうとしていたが、田沼時代になると様々な局面でこの二つの国益のどちらかを選ばなくてはならない程に幕藩体制がほころびを見せ始め、意次は、深刻化する幕府財政の立て直し・生き残りのために、幕府にとっての「国益」を優先して、藩にとっての「国益」を切り捨てるとまでは言わずともこれまでになく距離を置く施策を執ろうとしたといえる。そのために民政を重視し、経済を促進して、商人や技術者、蘭学者などの知識人を重用して直接結びつこうとした。商人と幕府の接近は一方で市場経済の進展を促したが、他方で賄賂の横行など政治腐敗も呼び起こした。一方で諸大名は田沼に反発する。民衆も苦しい状況下で次々となされる負担増に反発する。十八世紀末という時代背景がドラスティックな改革を求めていたのだとしても、自身は失脚し、長く悪名を被ることになり、その諸政策も功罪相半ばする結果となったが、確かに幕府の危機に正面から向き合おうとした政治家であったのだろうと思う。

最後は将軍家治が危篤になると、次期将軍の父にあたる一橋家と御三家が連携して意次排除に動き、田沼派内部からも離反があって辞職に追い込まれた。御三家がかついだのが兼ねてからの田沼の政敵松平定信で、追い討ちをかけるようにして田沼家は五万七〇〇〇石から一万石へ大幅に削減され、意次も失意のうちにこの世を去った。田沼失脚に際し、蘭学者杉田玄白も喜びを表明しているのが皮肉である。往々にして、自身に恩恵を与えているものが何かというのは見えにくいものだ。

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