「永楽帝――華夷秩序の完成」檀上 寛 著

明朝第三代皇帝永楽帝(1360-1424、在位1402-1424)は初代洪武帝、朱元璋の第四子で武勇に優れ燕王に封じられて北方の守りを任されていたが、父の死後、跡を継いだ甥の第二代皇帝建文帝の中央集権化政策に反対し叛乱を起こして皇位を簒奪、即位後は徹底した粛清と殺戮、度重なる外征によって内と外の敵を撃滅し専制君主として君臨、明帝国の基礎を築いた。その中国史上に冠絶した帝王の波乱に満ちた生涯と、彼によって完成をみた当時の東アジア地域の世界システムである「華夷秩序」とは何かを概説した一冊。

「中華」という言葉の登場は後漢~三国時代頃の造語だという。それ以前、西周時代に夏・華・諸夏・華夏などの文化的優越性を示す語や中国・中州・中土などの地理的中心性を示す語がつかわれており、これらの造語として「中華」が生まれたとされる。中華の四方に東夷・西戎・北狄・南蛮という「夷狄」が配置され、自らと周囲とを区別することで「中華思想」が誕生した。エジプト、インド、ギリシアなどにも類似の思想がみられるように古代世界によくある排除の論理として誕生したが、やがて、中華ととによる世界を『中国を上位に置きつつ、両者の共存する世界』(P20)として捉えるように洗練されていく。

中華と夷狄とをつなぐ思想として機能したのが「天命思想」である。『宇宙の主宰者であり根本的な原理である天』(P21)が『有徳者に天命を下し、天下を治めさせる』(P21)。『天命を受けた天の子である天子』は民衆を教導することで天命に応えるが、徳を失えば民心は離れ、『天は革めて別の人物に天命を下す』(P21)。これが「革命」である。この「天子」の徳はやがて中華世界からその周辺、四方の夷狄へと波及するとされ、『天子の徳に浴した夷狄は、その徳を慕って中華に来貢』(P21)することになる。

『垂直思考の天命思想と水平思考の華夷思想。この両者が天子を基軸に垂直に交叉し、その中間に築き上げられた空間こそが中華世界である。』(P25)

中華の民と夷狄との区別は民族的な相違ではなく文化的な儀礼(礼)や道徳観(義)の習得度合による。『夷狄であっても礼・義を知れば中華の民になれる反面、中華の民ですら、礼・義の失墜とともに夷狄におとしめられる』(P25)。差別と寛容とが一体の思想として中華思想はある。この礼・義の習得度合のグラデーションによって中華世界すなわち中国王朝と周辺諸国・諸民族との関係を序列・体系立てたものが「華夷秩序」である。

特に唐以降の各王朝はみな、すべからく「華夷秩序」の具現化に努めた。「冊封」は、古くは漢帝国にはじまるが、『中華の天子が夷狄の主張を王として認定し、君臣関係を設定すること』(P27)で、冊封を受けた君主は「外臣」として身分を定めた印章を授かり、代わりに「朝貢」を行う。この慣習は後に多様化して唐代には冊封と朝貢による君臣関係(朝鮮半島諸国など)、朝貢のみの関係(日本など)、中国の行政府が置かれる羈縻関係(中国東北部・ヴェトナムなど)、強大な周辺諸国に対する盟約関係(突厥・ウィグルなど)の四つに変化し、これらは父子・兄弟などの家族関係に模された。

国際政治システムとしての華夷秩序のプロトタイプを作った唐が滅び五代十国の混乱を経て宋が誕生、しかし宋は遼・金など北方諸勢力に対して劣勢で、一部では華夷秩序を機能させていたものの、国際政治の核とはなりえず、多極化が進む。そこにモンゴルが台頭して中華世界の枠を飛び越えた巨大な世界システムとしてのモンゴル帝国が生まれ、中華世界にはクビライ・ハンの元が誕生する。元朝は江南地域の経済力を背景として東アジア地域一帯に交易圏を形成、この東アジア交易圏とアラブ・ペルシア世界とがムスリム商人によって結び付けられ、一気に活性化する。しかし、十四世紀、元朝の力が衰退と同時に周辺諸国の政情も一気に不安定化して、東アジアの海域には武装商人の跳梁を許すことになり、これが倭寇の台頭を呼んだ。

北方の騎馬遊牧民諸勢力、南方の倭寇、腐敗する元王朝、度重なる飢饉と疫病と民衆蜂起、各地で翻る叛旗、そんな元末の十四世紀後半、動乱の中国に登場したのが朱元璋である・・・というわけで、こんな前提で朱元璋による明の建国から永楽帝の死までが本書で描かれている。

特に注目なのは、これまでこの時期の中国史というと宋末元初期と明末清初期にばかり注目が集まって、元末明初期の研究はおろそかになりがちであったという指摘である。歴史学において元から明へのプロセスをモンゴルから漢への民族革命として捉える見方を受け容れてしまったがゆえに、両者を断絶するものとして見る史観が定着してしまったという。実際のところ、明の、朱元璋の体制は漢民族国家の樹立という通説とは程遠く、民族の枠組みとは関係なく成立・運営されていた。逆に元と明との連続性の方が明らかで、この元末明初の体制に、後の近代中国の萌芽があることが指摘されている。

また、本書には歴史史料の謎解きの面白さがある。永楽帝は華夷秩序の完成者にして知勇兼備の名将であり、また史上まれに見る残虐な君主としての顔を持つが、一方で、歴史を徹底的に改竄しようとした皇帝でもある。有名なのは、建文帝を滅ぼした後、建文帝のブレーンとして当時最高の知識人として知られた儒学者方孝孺に対して即位の詔の作成を命じたときのエピソードであろう。反骨の人方孝孺は「燕族簒位(燕族、位を簒えり)」との四文字で応え、永楽帝は、彼の十族の殺害を命じた。十族とは家族の九族と友人・弟子など関係者の一族をあわせた表現である。以後、かれは簒奪者としての歴史を徹底的に抹消しようと文字通り狂奔する。正統の歴史とは別の民間に様々なかたちで伝わる野史として永楽帝にまつわる様々な歴史は書き残され、この両者ともに間違っていることも少なくないが、その丁寧な比較検証によって永楽帝の姿が浮き彫りになっていくあたり、一次史料であっても徹底的に検証するという過程には、「歴史」書の王道の面白さがある。

読んでみればわかるが、永楽帝は本当に多様な顔を持つ人物である。野心家であり、自ら陣頭に立って軍を指揮し、優秀な部下を次々と使いこなして、劣勢を覆していく。靖難の変の顛末はあたかも英雄伝説のようである。一方で、即位後の彼は、血に飢えた殺戮者である。敵対者を次々と言語に絶する殺し方をし、しかもその処刑は自らの目の前で行わせたという。粛清に次ぐ粛清によって彼は専制君主としての地位を確立、様々な業績を残し、中華世界に君臨するが、一方で、その猜疑心は歯止めを失い、忠臣たちすら退けて孤独な帝王として死ぬ。

簒奪者という負い目が天命思想の忠実な実行者、有徳の天子として振る舞わせ、有徳の天子であらねばならないがゆえに敵対者の苛烈な粛清へと向かわせる。また彼には中風ともリューマチとも癲癇ともいわれる持病があり、常にその苦痛と戦っていて、その苦痛もまた狂気を呼んでいたのかもしれない。

中華思想の帰結としての明初の皇帝を頂点とした専制国家の樹立であり、皇帝を統制者とする儒教的社会の誕生であり、対外的には武力と交易とによって周辺諸国を再編成して華夷秩序を確立、中華世界を統括した。その結節点に登場したのが異能の専制君主永楽帝であり、永楽帝以後、『皇帝に権力を付託し、その権力で社会を統制しつつ、秩序を維持する』(P296)という統制的な社会としての中国社会が形成されていく。以後、専制体制の維持と強化が国家的目標となり続けるが、一方で社会は専制体制から遊離して体制そのものを突き崩そうとするようになるという。永楽帝以後の専制国家と統制的社会との遊離と衝突のありように中国社会の帰着点としての永楽帝以後を著者は見ている。その衝突が明末清初へと繋がり、清代の中国的「近代」を胚胎していくというアウトラインには、非常に興味を覚えた。

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