「アジアのなかの琉球王国」高良 倉吉 著

琉球史の第一人者高良倉吉氏が、東シナ海の中継貿易で栄えた琉球王国の姿を、琉球王国誕生前の三国鼎立時代から十六世紀末にかけての時期を中心に描いた一冊。

この時代の琉球史・琉球外交史については大まかなところを以前「琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史」で書いたので、そのあたりの歴史については割愛して、特に当時の東シナ海沿岸諸国と琉球の密接な関係を表すエピソードを少し紹介してみる。

十五世紀の琉球が馬の産地で、明国の対モンゴル遠征で大量に馬が輸出され、その協力への報酬として、海禁政策によって海外に出られない明人に代わり、琉球が独占的に中継貿易を行うことが出来たことは本書を参考として別記事でも紹介したが、そのような冊封体制下で、琉球は明国と非常に密接な交流があった。

その代表的な例が「唐営」という華人の共同体の存在である。当時、琉球に限らず、海禁政策によって故国に帰れなくなった者や禁を破って海外に進出した者などが東アジア各地に進出し、華人社会を形成していた。これらはまとめて「唐営」と呼ばれ、その多くが現地政府の冊封・進貢関連の事務に就いていた。冊封体制下の諸国でも特に明朝政府と関係が深い琉球では公式非公式問わず華人が多く来訪して定住、「唐営」を各地に築いた。

この「唐営」は琉球では久米村(クニンダ)と呼ばれることになり、久米村人のことを「閩人(ビンジン)三十六姓(または久米三十六姓)」と呼んだ。「閩」とは福建のことで、三十六は具体的な数のことではなく多数のという意味になる。彼らは冊封事務だけでなく、外交、貿易、造船、航海など政治経済から技術分野まで幅広く活躍して琉球王国を支えることになった。

前述のとおり、華人は琉球に限らず、シャムなど東南アジア諸国から日本まで進出して各政権に雇われている。また、華人だけでなく様々な国・地域の人々がボーダレスに現地政権で大臣クラスから末端まで様々な職に就いており、日本からは京都五山の禅僧が随時派遣されて琉球政府の外交事務を担っていて、後に対豊臣・対島津外交でも琉球の窓口担当者として日本の禅僧が交渉を行っていることはよく知られている。逆に島津の外交ブレーンが明国人だったりもするし、このボーダレスでマージナルな関係は現代の国民国家を前提とした感覚とはかけ離れているといえるだろう。

ほか、面白かった話として、琉球では大型船が鳥、特にハヤブサ、ワシ、タカなどの猛禽類のイメージで捉えられていたのだそうだ。貿易船の船首には鋭い大きな目が描かれ、船の建造から完成までの過程を歌った琉球の神歌では『船は船大工の手を借りて、スラ所という巣からハヤブサとして巣立』(P146)つものとして歌われている。スラ所は造船所のことで、スラの語源には二つあり、大きな石や大木を運ぶ運搬車の「修羅車」が訛ったものとする修羅説と、琉球語の樹木の梢や先端の意味の「スラ」と卵の孵化を意味する「スデル」からの連想で巣立ちを意味するとする巣立ち説があり、高良は後者を有力としている。船を鳥のイメージで捉えるのは意外だった反面、とても美しいとも思わされ、とても印象的な話だ。

また、近年(本書は1998年刊)、米軍基地を巡る政治的な文脈で琉球王国は非武装の国だったとする俗説があるそうで、これに対するカウンターとして、琉球の軍制や当時の武器備蓄の資料を簡単に説明して、琉球王国非武装論を否定している。

当時の琉球のアジアにおける位置づけや簡単な歴史の流れ、当時の社会、経済などのアウトラインを掴むのに良い本の一つだと思う。

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