「ナポレオン帝国 (ヨーロッパ史入門)」ジェフリー・エリス 著

ナポレオンである。フランス革命後の混乱の中でその軍事的才能を認められて民衆の支持を受けて世襲皇帝にまで上り詰め、列強を次々と降して欧州の大半を版図とした帝国を建設し、歴史上、近世と近代とを画した一大転機を作った、栄光と没落とで人々のロマンを掻き立てる不世出の英雄として、半ば神話化して何度も何度も語り継がれてきた。余りに人のロマンを掻き立てる生涯ゆえに、目がくらんで、歴史上のナポレオン帝国の実態は見えにくくなっている。

本書はこれまでのナポレオン研究を精査し、ナポレオン帝国の現実の姿を丁寧に概説した非常に手堅い一冊である。とても読み応えがあって、素晴らしい出来だった。岩波のヨーロッパ史入門シリーズはコンパクトかつ本格的な内容の本が多いけど、その中でも屈指の一冊だと思う。

序論でこれまでの研究史が総覧されているが、それら様々な研究史を踏まえて著者は本書の目的をこう整理している。

『・・・それゆえ私は、フランスの目線で、大きな見取り図を描くことにした。つまり、征服したヨーロッパをフランスの視点から眺めることを優先したのである。まずは、フランスおよび直接併合地域を重点的に取り上げることが適当だと考えた。この二つが、一八〇四年五月以降、帝国の公式な領土を構成することになり、帝国最盛期の一八一一年段階で、一三〇の県と四〇〇〇万以上の臣民を擁するのである。ついで、帝国国境外の衛星国へと目線を広げるのだが、それは、衛星国こそが、すくなくとも一八〇六年以降、ナポレオンがさまざまな政策を遂行するうえで必要不可欠な駒になったからである。ナポレオンによる征服と国家形成の原動力は何であったのか、彼の統治機関の特徴はどこにあったのか、彼の王朝構想はどのように膨らんでいったのか、フランスにおける社会的地位の引き上げ政策とイタリア・ドイツ・ポーランドにおける土地贈与とのあいだにはどのような連関があったのか、彼の大陸封鎖政策あるいは「大陸体制」が、広義の帝国の全体にどのように拡張されたのか。本書ではこういった事柄を確信的問題として取り上げたいと思う。そうすることで、いわゆる「大帝国」においてナポレオンが達成できたこととできなかったことを、フランス国内における同様の事柄と密接に関連づけて論じることができるようになるだろう。』(P12-13)

まさにこの、『ナポレオンが達成できたこととできなかったこと』を、帝国の文官組織、行政機構、財政政策、コンコルダート、司法、軍事機構、徴兵制度、帝国エリート、経済、そして彼の残した遺産などテーマごとに解説していく。成し遂げたことも多いが成し遂げられなかったことも多い。ナポレオンは何でも思い通りに動かそうとしたが、思い通りにならなかったことも数えきれない。いや、思い通りに動かそうとしたから思い通りに動かなかったというべきか。あるいは、御題目だけで、その逆のことをやったこともありとあらゆる面で、特に新しい貴族層を創出したことや、家父長権を強化したこと――これによって女性の権利に限っていえば十八世紀アンシァンレジーム期より後退した――など、様々に指摘され得る。

『法の下の平等というフランス革命の原理を捨て去ろうとナポレオンが心に決めた時期は、かたく見積もって、終身制の元老院議員知行地制度およびレジオン・ドヌール勲章が設けられた一八〇二-〇三以降である』(P142)

ナポレオンの天才のきらめきはその戦略戦術にあることは論を俟たないが、軍制の整備もまた特筆される。平均二万人から三万人の『軍団としては小さいが機動力のあるものとしては比較的大きい』(P125)自己完結性の強い戦闘集団を創設し、その長を元帥とした。元帥だけで一分隊~小隊が作れる程度に元帥号を乱発したが、ナポレオンは前もって計画の全体像を細部に至るまで構想し、それに忠実に動く人物を抜擢したから、ナポレオンのひらめきが機能している間は上手くいっても、『それぞれ自身の責任において戦役を遂行せざるをえなくなったとき、彼らのほとんどが技能と判断力に欠けていることが明らかになった』(P127)。また自在に動かすことができる散兵を組織して、戦場で柔軟に火力の集中を行うことが可能となった。

ナポレオン得意の戦術はこうだ。

『ナポレオンはまず、敵の位置を確認するためと、その前衛と交戦するために散兵の先発隊を出動させ、その一方で、主力本隊と手元の予備部隊を一ヵ所に集め、敵の目からそれを隠しておく。つぎに、敵軍に正面攻撃を仕掛けつつ、部隊を移動させ敵の側翼を突く。そうなると、側翼で局地的にフランス軍が数で優位に立つことがままおこり、敵軍にとってそれは、正面と側翼、兵站部隊の三者間の連携を断ち切られかねない危険な状況を意味した。連携を維持するために側翼を強化しようと後退すれば、正面の防備が薄くなり、一丸となったフランス軍の攻撃には持ちこたえられなくなる。かくして敵の戦列にほころびが見えるや、それまで温存されていたフランス軍の重騎兵と砲兵隊が、そしてときには帝国衛兵までもが、素早くそのほころびに突破口を切り開き、そこに軽騎兵がなだれ込んで、敵軍の退却を潰走に転じるのである。』(P125)

しかし、これが上手くいくのは兵が精鋭部隊であるときで、連戦に次ぐ連戦による損耗と無理矢理な徴兵によって兵の質の低下は徐々に大きくなり、軍団の機動力は殺がれ、やがて破綻していく。特に帝政期の後半には予備兵力への依存度が高くなっていたという。

徴兵制度についても、様々な研究成果から脱走兵と徴兵忌避者はおそらく『統領政府期と帝政期の戦争に正式動員された全兵員数の、ほとんど五分の一』(P115)で、同時に徴兵によって、各地に暴動が頻発していた。さらに帝政期にはフランス各地での山賊行為や暴力犯罪の増加が顕著で、脱走兵や徴兵忌避者の活動、さらには規律の緩んだ兵士など徴兵制の影響が研究されている。

戦争・軍事機構面から多く紹介したが、むしろ文官組織や地方行政機構に関する丁寧な調査、また土地の配分・贈与を通じての新たな特権層の形成、旧体制からの支配層の連続性などについての解説が、非常に細かなデータを次々と参照していてとても勉強になるので、本書の白眉はそちらだと思う。

ナポレオン時代については、これら細かな、特に社会史の面で研究が大きく進んでいることが本書から伝わってくる。しかし、その影響についてはまだ研究途上で確実な全体像が描ける段階には無いようだ。訳者解説で訳者は『旧体制、フランス革命、ナポレオン体制、そして復古王政という、異なる四つの社会について、それぞれの変化と連続性の解明こそ、現代の歴史研究者の多くが取り組んでいる真っ最中の課題』(P230)と書いている。

ナポレオンの生涯とか、取り巻く人々の事跡とか、ナポレオンの戦略戦術・戦史とか、この時代の通史とかはそれぞれ多数専門書が出ているのでそちらを参考にすればよい。本書はまさにこのようなナポレオン帝国そのものに焦点を当てた一冊なので、その方面に興味がある人におすすめ。

参考書籍
・「フランス史 (新版世界各国史)
・「フランス革命 (岩波現代文庫)
・「ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫)

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