登場以来、ユーラシア大陸を縦横無尽に駆け巡り、世界史をリードし続けた騎馬遊牧民の成立の過程と初期の騎馬遊牧民として知られるスキタイ・匈奴の文化、社会、歴史について近年の研究成果をもとに描いた非常に丁寧な内容の一冊。
「騎馬遊牧民」は文字通り、馬に乗って(騎馬)定期的に牧地を変えながら移動する(遊牧)形態の生活を送る人々のことで、歴史上モンゴル高原からハンガリーのドナウ平原まで広く見られユーラシアの大半を席巻していた。英語で言うとマウンテッド=ノマド、あるいはノマディック=ホースメンと呼ばれる。
「騎馬遊牧民」か「遊牧騎馬民族」か、という呼称の問題にも触れられているが、歴史学上、「民族」は近現代の国民国家を形成、あるいは独立を図る集団としての使用が主流であり、古代から中世にかけての、騎馬で遊牧生活を送る人々の集団や彼らが構成した国家に「民族」という概念を適用するのは適切ではないということで、「騎馬遊牧民」の使用が妥当であるとされている。
騎馬遊牧民の誕生は諸説あるが近年ではほぼ紀元前九世紀頃だったと考えられている。肥沃な三日月地帯と呼ばれるアッシリア(現在のイラク)を始まりにして、狩猟採集から定住へと人類の生活形態が変わり、羊・ヤギ・馬・牛などの家畜化に成功、都市定住民の間で放牧が始まり、一部の都市化した集落でムギの栽培が始まるとそれに圧しだされる形で遊牧が始まる。人々は草原に進出して遊牧生活を送るようになる。西アジアでは前5500頃、草原地帯では前4000年紀頃のことのようだ。前3500年ごろ、メソポタミアで車が発明、まず馬車が先に発明され、その後騎馬の技術が生まれたと考えられている。騎馬についてはいつ誕生したのか諸説あるが、少なくとも前4000~前3000年には馬の騎乗は無かったと考えられている。前2000年ごろ、スポーク付車輪がメソポタミアで発明され、同じころ中央アジアで銜(くつわ)留め具が発明、どちらもゆっくりと数世紀かけて広がり、西アジアで前十世紀、草原地帯で前九~八世紀に騎馬を表す証拠が見られるようになり、前七世紀ごろ、カフカスから黒海北方にかけての草原地帯に最初の騎馬遊牧民スキタイが登場、続いて前三世紀ごろ、モンゴル高原に匈奴が登場する。
スキタイも匈奴も騎馬遊牧民は文字を持たないので、彼らの文化や社会は考古学上の調査によるか、周辺諸国の人びとによる数少ない文献史料しかない。そのほぼ唯一と言って良い文献がスキタイについてはヘロドトスの「歴史」、匈奴については司馬遷の「史記」(前一世紀以降は班固の「漢書」)である。特に司馬遷は匈奴との戦いで降伏した友人李陵を擁護したことで宮刑を受けたことで知られるように、匈奴とは浅からぬ因縁があり、非常に詳細に匈奴について記述している。
一方、スキタイについては、遺跡群は十七~十九世紀ごろまでにほぼ盗掘されてスキタイ文化の華といえる金細工は大半が失われているだけでなく、二十世紀に入るとスキタイの遺跡群はソ連の勢力下に入ったことで西側の研究者はほぼ関ることができず、二十世紀初頭には西側研究者との共同調査・研究も行われたがスターリン時代の大粛清で研究者も多くが殺され、研究成果も散逸、またソ連の研究者間でも社会主義下ということで唯物史観的な側面からの分析が主で、遺跡の多くが農場建設などで破壊されたりもして、その研究には限界があるということのようだ。匈奴についても同様のことは言えるが、調査研究が進んだのは本当に近年のことらしい。
匈奴は強大な軍事力を誇り、漢は武帝の頃までは匈奴の侵略に対してはに贈り物を送り和親を乞うなど弱い立場であった。統一を成し遂げ政治的・経済的に安定したことで軍事力が強化され、武帝の頃に匈奴に対して攻勢に出るようになる。全盛期の冒頓単于、軍臣単于を経てその次の代には後継を巡って内紛も起き次第に匈奴が劣勢になり、武帝によって西域諸国に送り出された張騫の努力もあって、漢は西域諸国を巻き込んでの対匈奴戦略を立てられるようになり形勢逆転、やがて弱体化した匈奴は前一世紀半ば、南匈奴と北匈奴に分裂し、北匈奴は西走して一世紀ごろまでに歴史の表舞台から姿を消し、南匈奴は後に三国時代や魏晋南北朝時代に再び力を持つようになる。
この西に向かいその後消息不明となった北匈奴がフン族になってヨーロッパに侵攻、民族大移動を巻き起こしたという説があるが、フン族と匈奴には習俗や文化に似たところもあるが同じと言う確証は無く、謎に包まれたフン族の起源を巡る説の一つというところであるらしい。
騎馬遊牧民は前九世紀ごろに誕生し、前七世紀からのスキタイ時代には王墓を築き、装飾品をこしらえるなど明確に王権を持つようになり、前三世紀の匈奴になると、十進法に基づく軍事組織を兼ねたピラミッド型の支配構造を形成、強大な軍事力で周辺諸国に強い影響力を行使し、また、遊牧だけでなく、農耕民や職人などもその支配下に治めて農業もおこなっていたし、定住農耕民の居住や交易の場としての都市を建設、また漢人を始めとして諸国の人材を多く登用して多様な社会を築いていた。この時期、騎馬遊牧民を通じて東西の文化が相互に行きかうようになり、「世界史」の成立に大きな影響を与えることとなった。
スキタイ・匈奴からの騎馬遊牧民の東西交流の流れはやがて、モンゴル帝国の成立によってユーラシアをあまねく覆い、現代まで受け継がれる大きな歴史の奔流を形作ることになるが、その前史として、地に足がついた初期の騎馬遊牧民であるスキタイ・匈奴研究の現状を把握することが出来る、地道で丁寧な良書だと思う。
追記。本記事は2007年講談社刊版を参照しておりますが、2017年1月、講談社学術文庫から再刊されています。