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宗教・神話・伝承

ウィットビー教会会議(664年)

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ウィットビー教会会議(Synod of Whitby)は664年、ノーサンブリア王オスウィウによってウィットビーの聖ヒルダ修道院で開催された教会会議(Synod)。ノーサンブリア王国内の教会において復活祭期日の算定方法や剃髪の慣習についてアイルランド教会の慣習とローマ・カトリック教会の慣習のどちらを採用するか論争が戦わされ、ローマ・カトリック式の採用が決定された。この決定を契機として八世紀までにアングロ・サクソン諸国やアイルランド教会でもローマ・カトリック式が受け入れられるようになり、ブリテン諸島の教会制度がローマ教皇の権威を受け入れてローマ・カトリック秩序に組み込まれることとなった。

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背景

ブリテン島へのキリスト教布教は大陸経由とアイルランド経由の2つのルートを辿った。ローマ帝国の属領時代にキリスト教はブリテン島南部に浸透したとみられるが、五世紀初頭のローマ帝国支配の終焉とともに衰退する。五世紀始め頃からパトリキウス(聖パトリック)やパラディウスによってアイルランドへの布教が開始し、六世紀半ば、アイルランド北東部の有力勢力イー・ネールの王族出身の修道士コロンバがヘブリディーズ諸島にアイオナ修道院を創設したことで同修道院が中核となってアイルランド修道制がアイルランドとブリテン島北部へ広がった。一方、ローマ・カトリックのブリテン島への布教は六世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世によって派遣されたベネディクト派修道士アウグスティヌスら宣教団がケント王国へ到着した597年からブリテン島南部のアングロ・サクソン諸王国を中心に拡大した。

アイルランドを中心としてブリテン島北部に拡大したキリスト教を「ケルト式1なお、「『ケルト式』とは研究者の造語であり、『ケルト人』に由来する復活祭慣行ではけっしてない。『ケルト式』自体は、おそらく四世紀に大陸で行われていた算定方式であ」るとされる(常見信代「用語解説」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、375頁)」、大陸経由でブリテン島南部に拡大したキリスト教を「ローマ式」と呼び細部にわたり様々な違いがあるが、両者の違いを巡って七世紀のブリテン島で大きな問題となったのが復活祭の算定方法を巡る対立「復活祭論争」だった。「ローマ式」ではユダヤ暦のニサン14(月齢十四日)の後の最初の日曜日をイエスの復活祭とするが、「ケルト式」では太陰太陽暦の84年周期で復活祭の月齢範囲を14日から20日の間に定めるため、ユダヤ教の過越しの祝日になるおそれがあり、キリスト教会の自立性を損なうおそれがあった(2常見信代(2010)375頁/Thurston, H. (1909). Easter Controversy. In The Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company.)。

ウィットビー教会会議

「ウィットビー修道院の遺構」

「ウィットビー修道院の遺構」
Credit: Wilson44691, CC0, via Wikimedia Commons


オスウィウ王は若い頃アイオナ修道院で育ち洗礼を受け、兄オスワルド時代にアイオナ修道院から聖エイダンをリンディスファーン修道院に招聘していたこともあって「ケルト式」の慣習がノーサンブリア宮廷に広がっていたが、王妃エアンフレダはケント王国で育ったため「ローマ式」での慣習で日々過ごしており、「ある年、王は復活祭の日曜日を喜んで祝っていたが、妻はまだ厳格な四旬節の断食を続け、棕櫚の日曜日(Palm Sunday)を守っていた」(3“One year, the king was happily celebrating Easter Sunday while his wife was still keeping her austere Lenten fast and observing Palm Sunday.”(How The Synod of Whitby Settled the Dates of Easter. English Heritage.))という具合に生活習慣のすれ違いが非常に大きくなっていた。ノーサンブリア王国内の主流派の「ケルト式」に対して改革を促す動きを起こしたのがオスウィウの王子デイラ王アルフフリスである。アルフフリスはリポン修道院長にローマから帰国したばかりの修道士ウィルフリッドを抜擢するなどローマ式採用の動きを強め、国内の聖職者たちの論争に拍車をかけた。

664年、オスウィウ王はウィットビーの聖ヒルダ修道院に聖職者や関係者を招集、ノーサンブリア王国内の教会におけるケルト式とローマ式の採用を巡る論争が戦わされた。ケルト式を主張したのがリンディスファーン司教コルマーン(Colmán)、イースト・サクソン司教ケッド(Cedd)。ローマ式を主張したのがリポン修道院長ウィルフリッド(Wilfrid)、前ドーチェスター司教アギルベルト(Agilbert)らである。

教会会議の様子はベーダ「アングル人の教会史」に詳しく描かれている(4CHAP. XXV.How the question arose about the due time of keeping Easter, with those that came out of Scotland. [664 A.D.]“(Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library.))。オスウィウ王は教会会議の開会を宣言し、続いてリンディスファーン司教コルマーンに発言を命じ、彼はケルト式慣習の正当性を聖ヨハネに従うものとして主張した。リポン修道院長ウィルフリッドはこれに対して反論を行い、聖ペテロに従うべきことを主張する。その後両者の間で激しい論戦が行なわれた後、オスウィウ王は復活祭期日の算定方法や剃髪についてローマ式の採用を決定した。

決め手となったのはウィルフリッドによる聖ペテロがイエスから天国の鍵を預けられたとする「マタイによる福音書16章」の記述(5「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(新共同訳[マタイによる福音書16.19]))を引用したことである。オスウィウ王はこの主張を受け、ペテロは天国の門番なので自身が天国に行くときに門を閉ざされることが無いように、ペテロの法に従うべきだと結論付けた(6“And I also say unto you, that he is the door-keeper, and I will not gainsay him, but I desire, as far as I know and am able, in all things to obey his laws, lest haply when I come to the gates of the kingdom of Heaven, there should be none to open them, he being my adversary who is proved to have the keys.” Sellar(1907)CHAP. XXV.)。

影響

ウィットビー教会会議後、ノーサンブリア国内では「ケルト式」で論陣を張った人物のうちケッド司教はローマ式を受け入れ、リンディスファーン司教コルマーンは退任してアイオナ修道院へ帰還、ノーサンブリア司教座がリンディスファーンからヨークに移りウィルフリッドがノーサンブリア司教に任じられた。一方、オスウィウ王はデイラ王位をアルフフリス王子からエッジフリス王子に交替、以後、アルフフリスは史料に姿が見えなくなる。また開催場所の聖ヒルダ修道院はウィットビー修道院と名を変えた。

ウィットビー教会会議はノーサンブリア国内の紛争解決を目的としたものだったが、当時オスウィウ王はブレトワルダとしてイングランド全土に君臨していたこともあって影響は大きく、この決定を契機にイングランド全体でローマ式が受け入れられる機運が高まった。673年、カンタベリー大司教テオドロスの主導で開催されたハートフォード公会議ではカンタベリー大司教を首位として司教区が再編されるとともに復活祭の計算についても改めてウィットビー教会会議の決定が確認された。以後、716年にアイオナ修道院がローマ教会の管轄下となり、八世紀までにアイルランドやウェールズも続いて、ブリテン諸島の教会制度がローマ教皇の権威を受け入れて西ヨーロッパのローマ・カトリック秩序に組み込まれることとなった(7青山吉信(1991)「第4章 イングランド・スコットランド・ウェールズの形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、107-110頁))。

参考文献

脚注

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