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世界史コラム

偽ジャンヌ・ダルク事件――中世フランス「自称乙女」騒動の顛末

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ジャンヌ・ダルクの死後、ジャンヌ・ラ・ピュセルを自称する女性が次々と登場してフランスを騒がせた。その数多の偽ジャンヌの中で1436年から1440年まで足掛け四年に渡って人々を騙し続けたジャンヌ・デザルモワーズ(Jeanne des Armoises1彼女を何と呼ぶかは難しい問題である。クロード・デュ・リスまたはジャンヌ・デュ・リスと詐称してジャンヌ・ラ・ピュセル本人として振舞い、本文中にもあるようにラ・ピュセル・ド・フランスと称していた記録も残り、ロベール・デザルモワーズと結婚したことで後にジャンヌ(またはクロード)・デザルモワーズとなった女性である。ボーヌ(2014)によればロレーヌ地方の小貴族ヴァルテル・ドルヌとエリザベト・ド・ピエールボンの娘であったかもしれないという。一般的にジャンヌ・デザルモワーズ(または二つの名をつなげてジャンヌ=クロード・デザルモワーズ)の名で呼ばれている。)の偽ジャンヌ事件は後々まで語り草になった。

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ジャンヌ・ラ・ピュセルの復活

ジャンヌ・ダルクの死から五年が過ぎた1436年5月20日、ロレーヌ地方メスに彼女、クロード・デュ・リスは現れた。デュ・リスはジャンヌとその家族がシャルル7世より授かった姓で、ジャンヌの家族はデュ・リス姓を継いでいた。このデュ・リス姓を詐称していたわけである。同じ日、彼女に続いてジャンヌ・ダルクの実兄ピエールとジャンも現れて、二人の兄は口をそろえて「彼女が火あぶりにされたとばかり思いこんでいたのだが、彼女を見るなり妹だとわかったし、彼女のほうもまた兄たちと認めた」(2ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、398頁)という。

ここで、彼女が本物だとお墨付きを与えた二人の兄についてである。ジャンヌ・ダルクには三人の兄がいて、次兄ピエールと三兄ジャンはジャンヌがドンレミ村を出るとその後を追って彼女の部隊に入りともに戦っている。しかし次兄ピエールは1430年ジャンヌと一緒に捕虜となっていて、この頃も未だ囚われていた(3高山一彦(2005)『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」』岩波書店、岩波新書、79頁では「上の兄ピエールに関しては、この時点ではまだ捕虜から釈放されていないので、「兄たち」というのはこの記録執筆者の誤り」とある。)。記録者の思い違いか、そうでなければ、この証言した兄ピエールを自称する男は明らかに偽者である。

もう一人の兄ジャンももしかすると偽者であったかもしれないが、一応本人であったと考えられている。ジャンヌ処刑後、ジャンヌの家族は父ジャック、長兄ジャックマン、姉妹カトリーヌが次々と亡くなり、次兄ピエールは囚われのまま、年老いた母イザベル・ロメを支え家族を養うのはジャンだけであった。貴族位が与えられてはいたが、たかが小さなドンレミ村とその周辺の免税特権でしかない。生き残りのために手段を択んでいられなかっただろう事情はうかがえる。ジャンはこのあとオルレアンや宮廷へジャンヌ生存の報せを持って行って金銭を受け取っている(4ペルヌー/クラン(1992)398頁によるとジャンは「オルレアンに立ち寄り、国王が彼にくれると約束した一〇〇フランの代わりに役人が二〇フランしかくれかなかったとこぼしている。オルレアンの人たちは彼にはわずか一二フランしか与えていない」という。)。とはいえジャンは少額の金銭を手に入れた後はこの件には一切かかわらないので、黒幕などというものではなく、偶然登場した自称ジャンヌに便乗した、あるいは彼女に利用されたという以上のものではない。

クロード・デュ・リスと名乗った自称ジャンヌ・ラ・ピュセルは実際のジャンヌ・ダルクとよく似た容姿であったらしい。ジャンヌ・ダルクの事績をよく調べていたし、体も鍛えていて武器の扱いや乗馬技術などにも長け、すぐに乙女の復活と話題になった。オルレアンでも話題となり、使者を派遣して真偽を調査させている。

メスのサン=ティボー教会の主席司祭はこう書き残している。

「この年ラ・ピュセル・ド・フランスと名乗る若い娘が現れ、その人物になりきっていたので、だまされた人も数多かった。特に身分のある人々がそうであった。」(5ペルヌー/クラン(1992)399頁

翻弄される人々

自称ジャンヌは、メスの貴族や有力者たちから馬や具足、剣、男物の衣服などを贈られると、長居は無用とばかりに、自称兄二人とともにメスを離れて本物のジャンヌ・ダルクの出発地であるヴォークルールへ赴き、そこからノートルダム・ド・リス聖堂へ向かった後、ルクセンブルク公位女継承権者エリザベート・ド・ゲルリッツ(6”Élisabeth de Goerlitz“エリーザベト・フォン・ゲルリッツ。1390~1451。神聖ローマ皇帝カール4世の子ゲルリッツ公ヨハンの娘でルクセンブルク公領継承者。ブルゴーニュ公ジャンの弟ブラバント公アントワーヌの妃。金策に詰まりブルゴーニュ公フィリップ3世に自身の死後のルクセンブルク公位の相続を約束したが、1443年、ルクセンブルク公領は相続を待たずフィリップ3世に占領される。)の庇護を得ることに成功した。エリザベートとともにアルロン(現在のベルギー南東部の主要都市)を訪れた彼女は、エリザベートを介して有力貴族(7ボーヌ(2014)によれば「のちの金羊毛騎士ロベール・ド・ヴィルヌブール伯の支援者の一人」(376頁)、ペルヌー/クラン(1992)によれば「ヴュルテンベルク伯」(399頁)である。)たちの支持を得ていく。「自称ジャンヌ」は貴族たちにとっても利用し甲斐のある立場であったようで、彼女は有力貴族に求められて、当時争われていたトーリア司教位で一方の候補に肩入れする見解を述べている。

彼女について記録した異端審問官ジャン・ニデールは彼女が「かつて乙女ジャンヌがシャルル王のためにしたように、二人のうちの片方を意欲的に支持したことを誇っている。そのうえ彼女も天啓を授かっているといい触らしていた」(8ペルヌー/クラン(1992)399頁)。ジャンヌ・ダルク本人の書簡を参照するならば、本物のジャンヌ・ダルクは対立する教皇位のどちらが正当か問われたとき、敢えて回答を回避した(91429年8月22日アルマニャック伯宛書簡では「使者殿の口上によりますと、貴殿が書状にてお尋ねの三教皇のいずれに信をおくべきか私に尋ねたいとのことでございますが、この件に関しましては今のところ貴殿に本当のことを申し上げることができかねます。」(ペルヌー/クラン(1992)437-438頁)とあり、この書簡について後に処刑裁判で尋問された際は「ローマにいる我等の聖なる父である教皇に服従すべきものと信じている」とした(高山一彦(1984)『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、100-101頁))。聖権に属することには口を挟まず服従することを範としていたからである。偽物と本物とで教会に対する態度が決定的に違っている。

続いてケルンに現れた自称ジャンヌはかなり派手に振舞っていたようで、「乙女」と自称しつつダンスや宴会に頻繁に参加して奔放さをみせ、人々の前で割れたコップを元に戻したり、二枚にちぎった布巾を一枚にしたりする手品(魔術)を見せたりした(10ボーヌ(2014)376頁、ペルヌー/クラン(1992)400頁)。さらに、彼女は1434年6月から10月にかけてローマ教皇エウゲニウス4世の下でローマの反徒と戦って数人殺したとか、そもそもローマへ行ったきっかけが誤って母を殴ってしまった懺悔のためだった、などという「武勇伝」を語ってもいる(11ボーヌ(2014)375頁。ジャンヌ・ダルクはその生涯殺人を犯していないことを処刑裁判で強く証言している。また、両親にも忠実であった点は本人も同時代の家族や隣人たちも口をそろえて証言しており、両親に逆らえないからこそ、自身の使命について語ることができず家を飛び出したというのがそもそもの出発点であった。明らかにジャンヌ・ダルクとは正反対にあることがわかるだろう。)。これら生前のジャンヌ・ダルクとは正反対の振る舞いでボロが出て、現地の異端審問官(12ボーヌ(2014)によれば「コンラット・カルタイゼン」、ペルヌー/クラン(1992)によれば「ハインリヒ・カルト・アイゼン」という人物。このときの召喚理由としては「魔術」と傭兵を率いての軍事行動であるが、その他の言動ももちろん含む。)に召喚されてトラブルになりケルンに居られなくなった。

1436年11月7日、自称ジャンヌはティッシュモン領主ロベール・デザルモワーズと電撃結婚する。玉の輿のようにみえるが領主というのは肩書だけでロベール・デザルモワーズの所領はすでに他者の支配下にありメスで亡命生活をしていた(13ロベール・デザルモワーズは1435年、バール公にしてアンジュー公であるルネ・ダンジューのバール公下の封地を公に無断で売却して怒りを買い財産没収されて、メスに亡命していたという。(ペルヌー/クラン(1992)400頁))。要するに元領主の無職男性である。ロベールとの間に二人の子供をもうけたという。しかし彼女はおとなしく家庭に収まりはしなかった。再びジャンヌ・ラ・ピュセルとして登場するのである。

再び裁かれる「乙女」

1439年春以降、一説には六月頃、自称ジャンヌ・ラ・ピュセルことジャンヌ・デザルモワーズはジャンヌ・ダルクの戦友として知られるジル・ド・レ元帥の所領に姿を見せた。彼女を見たジル・ド・レが何を思ったかはわからないが、このころ、丁度自称魔術師(詐欺師)プレラーティを招聘したばかりで、詳細割愛するが”降魔術実験”で忙しかったので配下の武将に命じて彼女を同行の上でル・マン方面へ出陣させている(14バタイユ、ジョルジュ/伊東守男訳(1969)『ジル・ド・レ論─悪の論理─』二見書房、244-245頁、清水正晴(1996)『<青髭>ジル・ド・レの生涯』現代書館、237頁などジル・ド・レに関する文献では六月頃としているが、ペルヌー/クラン(1992)401頁、ボーヌ(2014)377頁などジャンヌ・ダルク関連書籍ではオルレアンへの来訪後1439~40年頃としているので、時期は前後する可能性がある。)。続いて、1439年7月28日、オルレアンに姿を現した自称ジャンヌはオルレアン市民の歓待を受けた。8月1日、オルレアン解放の謝礼として金銭を受け取ると、あっさりと晩餐会の最中に姿を消した。(15高山一彦(2005)80頁によれば当時のオルレアン市の記録にジャンヌへ210パリ・リーヴル(=フラン)を支出している。また、ペルヌー/クラン(1992)400頁にはこの翌日国王シャルル7世のオルレアン訪問の予定があったために逃亡したとあるのに対し、高山一彦(2005)80頁では晩餐会に、かつてジャンヌ・ダルクの衣服の製作を担当したジャン・リリエーの出席が予定されていたために素性がばれるのを恐れて逃亡したとする。

オルレアンから逃げおおせたジャンヌ・デザルモワーズだがついに1440年8月、国王シャルル7世の下に連れてこられた。シャルル7世の問いは簡潔にして明瞭であった。「余と汝のあいだの秘密」(16ボーヌ(2014)377頁)を問うただけである――11年前、1429年3月6日の夕方、シノン城でシャルル7世と初めて会ったジャンヌ・ラ・ピュセルは、神以外誰も知らない王の秘密を告げ、それを聞かされたシャルル7世はとても晴れやかな表情になって彼女に絶大な信頼を置いたという――その「余と汝のあいだの秘密」である。”1440年のジャンヌ・ラ・ピュセル”は答えられなかった。

このあとパリ大学と高等法院によって法廷に立たされたジャンヌ・デザルモワーズは自身が偽者であり騎士ロベール・デザルモワーズの妻で二児の母であることを認め、公衆の面前で謝罪させられたあと、寛大にも罪に問われず放免された。シャルル7世はジャンヌ・ラ・ピュセルを二度も死なせたくなかったのかもしれない。以後彼女が偽ジャンヌとして現れることはなかったという。

人々はなぜ信じたのか

1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクは、ルーアンで火刑に処され、死んだ。これは疑問を差し挟む余地のない事実である。同時に多くの人々にとって「乙女」の死は容易に受け入れがたい衝撃であり、彼女の死の直後からジャンヌ・ダルク生存説は各地でささやかれ信じられていた。「ジャンヌの身体は死んだけれども、彼女の精神と美徳は予告された使命が終わるまでフランス人を導き続けた」(17ボーヌ(2014)372頁)というのは同時代人が少なからず持っていた観念である。また、もっと素朴な観念として「ジャンヌは秘密の罪ゆえに神に見放され、神に懺悔するために姿を消した」(18ボーヌ(2014)372頁)というものもある。ジャンヌはいつの日か戻ってくるかもしれないと信じたい心性が根付いていた。オルレアンや彼女の出身地であるロレーヌを中心に、ジャンヌがどこかで生きていてまた帰ってくるのではないか、という希望を抱く人々は少なくなかったのである。

偽ジャンヌ登場の一か月前、1436年4月17日、ついにフランス軍が王都パリの奪還に成功する。パリ奪還はかつてジャンヌ・ダルクが神の言葉として預言していた出来事でもあった。この盛り上がった世情の中で、「乙女」が再び現れてもおかしくないと人々もどこかで思っていただろうし、自分こそがあの「乙女」であるという幻想を抱く人が出てくるのは必然であった。ジャンヌ・デザルモワーズとほぼ同時期の1436年8月9日、フルール・デュ・リスというやはりジャンヌ・ラ・ピュセルを自称する偽者がオルレアンに現れている。

ゆえに、1436年の初夏ほど「乙女の帰還」にふさわしい時期はなかったのである。

もう一つには「乙女」という超越的存在を利用したい人々のニーズに上手く合致した点も挙げられる。兄ジャンはなんとか糊口をしのぎたかった。エリザベート・ド・ゲルリッツは神聖ローマ皇帝カール4世の孫娘でルクセンブルク公位相続権者と言う華麗なる大貴族だが、借金返済に困って甥のブルゴーニュ公フィリップ3世に対しルクセンブルク公位相続権を譲る契約を結ぶなど、その内情は火の車であった。彼女にとって「乙女」の存在は実に魅力的だったろう。有力貴族たちが自派に有利な人物を司教につけようと「乙女」を利用したことは上記のとおりだ。

素朴な「乙女」復活の願いや信仰心と、「乙女」という超越的な存在を利用したい人々の利害、そして王都奪還というかつて「乙女」が旗を掲げたその瞬間を彷彿とさせるような劇的なニュースで盛り上がる世情とが合致したところに最も上手くはまったのが自らをジャンヌ・ラ・ピュセルと信じるジャンヌ・デザルモワーズであり、その結果、この偽ジャンヌ事件という狂騒曲が奏でられたといえよう。

現れては消える「ジャンヌ」たち

偽ジャンヌ・ダルクは彼女で終わらずその後も次々と登場しては消えていく。

1449年ないし1452年、セルメーズに住むジャンヌ・ダルクのおじジャン・ヴトンの子孫ペリネ・ヴトンの家に「フランス王国で評判の武功を立てた乙女」がいたという。セルメーズの乙女である。彼女は別にジャンヌを自称したわけではなく噂に上っただけで、現地の司祭が一緒にボーム競技をして遊んだ。ジャンヌの親戚らしい明るく活発な少女であったらしい。

1457年、アンジェ市民ジャン・ドゥイエの妻が主婦仲間と諍いになって牢に入れられた。彼女は乙女を自称して男装、オルレアンを解放したなどと言っていたため、二度とそのような言動はしないと約束させられて釈放されている。

1459年、実行はされなかったが教皇ピウス2世が十字軍を提唱して信仰心が盛り上がるとル・マンの乙女マリー・ラ・フェロンヌが登場した。発作を起こしては神の言葉を述べ、人々に悔い改めるよう説いた。彼女はジャンヌ・ダルク以上に敬虔で毎日告解を欠かさなかったという。カリスマ性にあふれた女性であったが、1461年、トゥール大司教の調べで彼女は処女ではないこと、周囲の聖職者たちが彼女を唆してジャンヌのふりをさせていたことが明らかになって、入牢の後、パンと水だけで七年間過ごすよう命じられた(19他の偽ジャンヌの例はボーヌ(2014)374-379頁よりまとめ)。

ここに紹介した自称「乙女」たち、誰一人死刑になっていない点は特筆されてよかろう。最後のマリーへの罰は一見厳しいようだが、彼女が敬虔なふりをしていたので、本当に敬虔な生活を送るように命じたものである。フランス王権も地域社会も皆「乙女」を自称する彼女たちに対して非常に寛大であった。これらのジャンヌたちは少なくともジャンヌ・デザルモワーズ以上にもなることはできず、国王シャルル7世の死(1461年)を契機として自称「乙女」は記録に見えなくなり姿を消していった。この一連のジャンヌ・ダルクなりきり事件は、いわばこの時代、百年戦争後期シャルル7世治世下のフランス特有の現象であったといえるのかもしれない。

ジャンヌの顔

アルモワーズ家にゆかりのある Jaulny 城にはジャンヌ・デザルモワーズの肖像画と伝わる絵が残されている。ただし十五世紀当時のものではなく同城の十六世紀以降に造られた暖炉に付けられた記念メダルとして描かれたもので、ジャンヌ・デザルモワーズの容姿に忠実であったのかは疑問が持たれており、そもそもジャンヌ・デザルモワーズを描いたものかどうかも確実ではない。ただ、もしジャンヌ・デザルモワーズを描いていて、かつ、実際の容姿に忠実であったなら、似ていたというジャンヌ・ダルク本人の容姿を想像する素材となりえるが、まぁ参考画像以上のものではない。

Jaulny城内のジャンヌ・デザルモワーズの肖像画

Jaulny城内のジャンヌ・デザルモワーズの肖像画
Credit: Public domain, via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

  • 1
    彼女を何と呼ぶかは難しい問題である。クロード・デュ・リスまたはジャンヌ・デュ・リスと詐称してジャンヌ・ラ・ピュセル本人として振舞い、本文中にもあるようにラ・ピュセル・ド・フランスと称していた記録も残り、ロベール・デザルモワーズと結婚したことで後にジャンヌ(またはクロード)・デザルモワーズとなった女性である。ボーヌ(2014)によればロレーヌ地方の小貴族ヴァルテル・ドルヌとエリザベト・ド・ピエールボンの娘であったかもしれないという。一般的にジャンヌ・デザルモワーズ(または二つの名をつなげてジャンヌ=クロード・デザルモワーズ)の名で呼ばれている。
  • 2
    ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、398頁
  • 3
    高山一彦(2005)『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」』岩波書店、岩波新書、79頁では「上の兄ピエールに関しては、この時点ではまだ捕虜から釈放されていないので、「兄たち」というのはこの記録執筆者の誤り」とある。
  • 4
    ペルヌー/クラン(1992)398頁によるとジャンは「オルレアンに立ち寄り、国王が彼にくれると約束した一〇〇フランの代わりに役人が二〇フランしかくれかなかったとこぼしている。オルレアンの人たちは彼にはわずか一二フランしか与えていない」という。
  • 5
    ペルヌー/クラン(1992)399頁
  • 6
    ”Élisabeth de Goerlitz“エリーザベト・フォン・ゲルリッツ。1390~1451。神聖ローマ皇帝カール4世の子ゲルリッツ公ヨハンの娘でルクセンブルク公領継承者。ブルゴーニュ公ジャンの弟ブラバント公アントワーヌの妃。金策に詰まりブルゴーニュ公フィリップ3世に自身の死後のルクセンブルク公位の相続を約束したが、1443年、ルクセンブルク公領は相続を待たずフィリップ3世に占領される。
  • 7
    ボーヌ(2014)によれば「のちの金羊毛騎士ロベール・ド・ヴィルヌブール伯の支援者の一人」(376頁)、ペルヌー/クラン(1992)によれば「ヴュルテンベルク伯」(399頁)である。
  • 8
    ペルヌー/クラン(1992)399頁
  • 9
    1429年8月22日アルマニャック伯宛書簡では「使者殿の口上によりますと、貴殿が書状にてお尋ねの三教皇のいずれに信をおくべきか私に尋ねたいとのことでございますが、この件に関しましては今のところ貴殿に本当のことを申し上げることができかねます。」(ペルヌー/クラン(1992)437-438頁)とあり、この書簡について後に処刑裁判で尋問された際は「ローマにいる我等の聖なる父である教皇に服従すべきものと信じている」とした(高山一彦(1984)『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、100-101頁)
  • 10
    ボーヌ(2014)376頁、ペルヌー/クラン(1992)400頁
  • 11
    ボーヌ(2014)375頁。ジャンヌ・ダルクはその生涯殺人を犯していないことを処刑裁判で強く証言している。また、両親にも忠実であった点は本人も同時代の家族や隣人たちも口をそろえて証言しており、両親に逆らえないからこそ、自身の使命について語ることができず家を飛び出したというのがそもそもの出発点であった。明らかにジャンヌ・ダルクとは正反対にあることがわかるだろう。
  • 12
    ボーヌ(2014)によれば「コンラット・カルタイゼン」、ペルヌー/クラン(1992)によれば「ハインリヒ・カルト・アイゼン」という人物。このときの召喚理由としては「魔術」と傭兵を率いての軍事行動であるが、その他の言動ももちろん含む。
  • 13
    ロベール・デザルモワーズは1435年、バール公にしてアンジュー公であるルネ・ダンジューのバール公下の封地を公に無断で売却して怒りを買い財産没収されて、メスに亡命していたという。(ペルヌー/クラン(1992)400頁)
  • 14
    バタイユ、ジョルジュ/伊東守男訳(1969)『ジル・ド・レ論─悪の論理─』二見書房、244-245頁、清水正晴(1996)『<青髭>ジル・ド・レの生涯』現代書館、237頁などジル・ド・レに関する文献では六月頃としているが、ペルヌー/クラン(1992)401頁、ボーヌ(2014)377頁などジャンヌ・ダルク関連書籍ではオルレアンへの来訪後1439~40年頃としているので、時期は前後する可能性がある。
  • 15
    高山一彦(2005)80頁によれば当時のオルレアン市の記録にジャンヌへ210パリ・リーヴル(=フラン)を支出している。また、ペルヌー/クラン(1992)400頁にはこの翌日国王シャルル7世のオルレアン訪問の予定があったために逃亡したとあるのに対し、高山一彦(2005)80頁では晩餐会に、かつてジャンヌ・ダルクの衣服の製作を担当したジャン・リリエーの出席が予定されていたために素性がばれるのを恐れて逃亡したとする。
  • 16
    ボーヌ(2014)377頁
  • 17
    ボーヌ(2014)372頁
  • 18
    ボーヌ(2014)372頁
  • 19
    他の偽ジャンヌの例はボーヌ(2014)374-379頁よりまとめ
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