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地理・地域・都市

アル・ヘーン・オグレッズ(古き北方)

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「アル・ヘーン・オグレッズ(ウェールズ語: Yr Hen Ogledd)」または英語で「オールド・ノース(Old North)」は中世ウェールズ人からみた、ローマ帝国崩壊後にブリトン人の諸王国が栄えたスコットランド南部からイングランド北部にかけての地域の呼称。日本語では「古き北方」と訳される(1森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房、357頁)。七世紀半ばまでにアングロ・サクソン勢力に征服されたため、中世のウェールズ人たちは喪失したこの地域を民族的源郷と位置づけて中世ウェールズにおける民族意識を形成した。また「古き北方」で活躍した人々を題材にした様々な伝承や物語、古詩が生まれ、後のアーサー王物語群をはじめとする中世騎士道文学に大きな影響を与えた。

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北方ブリトン人王国の興亡

「アル・ヘーン・オグレッズ(Yr Hen Ogledd)勢力図」(六世紀後半から七世紀前半)

「アル・ヘーン・オグレッズ(Yr Hen Ogledd)勢力図」(六世紀後半から七世紀前半)
Credit: myself, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

ブリトン人諸王国とアングロ・サクソン勢力の攻防

ローマ帝国軍が撤退した五世紀のブリテン島では、それまでローマ帝国の支配を受けていたブリトン人の諸部族が自立して各地に部族国家が興隆した。フォース湾南岸ロージアン地方にエディンバラを中心としてブリトン人のウォタディニ族が勢力を拡大し、六世紀頃までにゴドジン(Gododdin)王国が成立した。またスコットランド南西部からイングランド北西部にかけての一帯にはダンバートンを中心にアルト・カルト(Alt Clud)王国(後のストラスクライド王国)、現在のカンブリア州(イングランド)一帯にはカーライルを中心にフレゲッド(Rheged、リージッドとも)王国、現在のヨークシャー州にあたる地域にはエルメット(Elmet)王国が登場する。これら4つの主なブリトン人部族国家の他小規模の勢力が旧属州北部にあたるハンバー川以北の地域に多数割拠した。

フォース湾の北にはピクト人が、スコットランド西部アーガイル地方にはスコット人が勢力を確立してローマ時代から続いてブリトン人を脅かし、五世紀半ば頃からはユトランド半島やドイツ北部のゲルマン人集団(アングロ・サクソン人)が漸進的にブリテン島へ入植を開始、五世紀末から六世紀にかけて大規模な武力侵攻に至った。六世紀後半までにハンバー川以南の地域はドゥムノニア半島(コーンウォール)とウェールズ地方を除いてアングロ・サクソン諸部族が相次いで部族国家を築き、遅れてハンバー川以北にも進出する。入植してきたアングル人によって六世紀後半から七世紀始めにかけての時期にティーズ川以北のリンディスファーン島やバンバラを中心とした地域にバーニシア王国が、同じくアングル人によってヨークを中心としたハンバー川以北・ティーズ川以南の地域にデイラ王国が誕生した。

バーニシア王国デイラ王国によってブリトン人勢力は次第に勢力を削がれ、バーニシア王国エセルフリス王が即位すると、600年頃、カトラエスの戦いでゴドジン王国軍はエセルフリス王に壊滅的な敗北を喫し、ゴドジン王国はエディンバラ周辺にまで縮小した。フレゲッド王国は対バーニシア戦争で英雄的な活躍をしたオワイン王死後、西暦600年頃までに衰退、エルメット王国もエセルフリス王に従属を余儀なくされた。604年頃、エセルフリス王がデイラ王国を征服し、イングランド北東部(ノーサンブリア)にアングロ・サクソン人による支配が確立された。

613年から616年頃にかけてのいずれかの時期(2チェスターの戦いが起きた時期について、「アングル人の教会史」は603年、「アングロ・サクソン年代記」は607年、「ティゲルナハ年代記」は611年、「アルスター年代記」「カンブリア年代記」は613年など史料によってまちまちだが、613年からエセルフリスが亡くなる616年の間に起きたとするのが有力である(Dawson, Edward.(2008).Æthelfrith’s Growing Fyrd.))、エセルフリス王率いるバーニシア王国軍がペナイン山脈を越えてブリトン人の勢力下にあったイングランド北西部へ侵攻、現在のチェシャー州チェスター市近郊でウェールズ地方のブリトン人国家ポウィス王国を中心としたブリトン人連合軍を撃破した(チェスターの戦い)。この戦いを経てウェールズ地方のブリトン人勢力が弱体化したため北部のブリトン人諸国は孤立し、640年頃までに相次いで滅ぼされることとなった。

ブリトン人諸王国の滅亡

エルメット王国はエセルフリス王に従属していたが、616年、デイラ王国の王族エドウィンを支援したイースト・アングリア王国軍にアイドル川の戦いエセルフリス王が敗死し、新デイラ王エドウィンによってバーニシア王国が征服されたことで、苦しい立場に追い込まれた。かつて、エルメット王ケルティックはエセルフリス王の命でエドウィンの甥へレリックを殺害していたため報復を受けることとなり、同年中にエドウィン王の攻撃を受けてエルメット王国は征服された。

633年、北ウェールズのブリトン人国家グウィネズ王国のカドワソン王とマーシア王国ペンダ王が同盟を結びノーサンブリアへ侵攻、10月12日、ハットフィールド・チェイスの戦いエドウィン王が戦死しノーサンブリアの統一体制が崩壊した。一時カドワソン王がイングランド北東部を席巻したが、エドウィン王体制下で亡命していたエセルフリス王の遺児オスワルドが戻り、634年、ヘブンフィールドの戦いでグウィネズ王カドワソンはオスワルドに敗れて死亡、バーニシア王国によりノーサンブリアが再統一された。「アルスター年代記」によれば638年、ノーサンブリアのオスワルド王によってエディンバラが攻略されゴドジン王国が滅亡している(3The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts)。

630年代後半、ノーサンブリアのオスワルド王の弟で後のノーサンブリア王オスウィウはフレゲッド王国の王族リアンメルト(Rhianmellt/ウェールズ語:フリアンメスト)を妻に迎えた。リアンメルトは「ブリトン人の歴史」にオスウィウの妻として名前が上がる女性でフレゲッド王イリエーンの子ルム(Rum4ブリトン人の歴史」によればリアンメルトの祖父ルムはオワイン王の弟で司祭としてエドウィン王の洗礼を行った人物という)の子ロイト(Royth)の子で(5ルムとロイトのカナ表記は瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、54頁に従った)、後のデイラ王アルフフリス(Alhfrith、664年以降没)を産んだが、640年代前半までに亡くなった。この結婚はオスワルド王時代初期の体制が不安定だったころに国内のブリトン人を味方につける目的で行われたものとみられる(6Grimmer, Martin.(2006). “The Exogamous Marriages of Oswiu of Northumbria“.A Journal of Early Medieval Northwestern Europe, issue 9. )。オワイン王死後の600年頃からこの結婚までの間にフレゲッド王国は独立を失い、アングロ・サクソン人の体制下に入ったとと考えられている。

生き延びたアルト・カルト(ストラスクライド)王国

相次いで北方のブリトン人王国がアングロ・サクソン人勢力下に入る中、アルト・カルト王国はこの地域で唯一独立を守ったブリトン人の王国となった。六世紀前半、他のブリトン人部族と戦いながら勢力を拡大、六世紀後半にはスコット人のダルリアダ王国に臣従を余儀なくされたが603年、ダルリアダ王国がデグサスタンの戦いでバーニシア王エセルフリスに敗れて勢力を減退させたことでダルリアダ王国の支配から離れた。七世紀はダルリアダ王国とたびたび戦いながら自立の道を歩むが、史料が少なく実態は定かでない。

870年、ヴァイキングの侵攻で首都ダンバートンが陥落し一時滅亡するが、アルト・カルトの王族がグラスゴー近郊のクライド川沿岸パーティク周辺に拠点を移してストラスクライド王国として再興された。927年、ウェセックス王エセルスタンが全イングランドを統一してイングランド王国が誕生したため、937年、ブルナンブルフの戦いでヴァイキングのダブリン王国、アルバ(スコットランド)王国と連合してイングランド王国に挑むが大敗、ストラスクライド王オワインが戦死した。945年、イングランド王エドマンド1世とウェールズのデハイバース王ハウェルの連合軍によってストラスクライド王国は征服された。エドマンド1世はアルバ王マルカム1世とストラスクライド王国を租借することを条件に和平条約を結び、以後アルバ王国の宗主権下に置かれ、十一世紀前半頃までにストラスクライド王国はアルバ王国に完全に併合された。

語り継がれる「アル・ヘーン・オグレッズ(古き北方)」

イングランド北東部を失ったことでブリトン人の勢力はウェールズ地方とドゥムノニア半島を残すのみとなり、ウェールズ地方にブリトン人の文化を継承するウェールズ人が形成された。中世のウェールズ人たちは喪失したイングランド北部からスコットランド南部にかけての、かつてのブリトン人勢力圏を「古き北方(ウェールズ語:アル・ヘーン・オグレッズ”Yr Hen Ogledd”、英語:オールド・ノース”Old North”)」あるいは「ア・ゴグレッズ(北方)」と呼んで民族的源郷と位置づけて中世ウェールズにおける民族意識を形成した(7森野聡子(2019)357頁)。

中世のウェールズ人は自らをカムリ(Cymry)と称したがウェールズ地方だけではなくブリトン人全体を指した。カムリは細かく区切られた地域共同体(bro)という単位に基づく「同じ地域(bro)の人びと」を意味しており、局地的な地域を指すものが、ブリテン島全体に広がる領域まで拡大して認識されるようになっていた(8森野聡子(2019)358頁/「用語解説」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、356頁))。カムリが使われるようになったのは北方喪失後とみられるが、地名として使われているカムリをラテン語化したカンブリア(Cambria)など「古き北方」とウェールズ地方は「一つのカムリ」という同族意識が醸成された(9森野聡子(2019)358-360頁)。

「中世ウェールズにおける民族意識には二つの流れがある。一つは、知識階層や職業詩人バルズの伝承によって構築された、トロイの王族ブルートゥス(またはブリットー)を先祖とする、ブリテン島最古の住民という起源伝説である。五世紀にブリテン島からローマ軍が撤退した後、アングロ・サクソン人やアイルランド人などの外来民族の侵略に脅かされるようになったブリテンの住民は『われらブリトン人』の意味を込めて自ら『ブリトネス』または『ブラソン』と呼んだ。やがて、アングロ・サクソン諸王国の成立によりブリトン人の部族国家が次々と消滅すると、スコットランド低地地帯からヨークシャーを含む北イングランドにかけての同胞の地を、ウェールズ人はノスタルジアをこめて『古き北方(アル・ヘーン・オグレッズ)』、あるいは単に『北方(ア・ゴグレッズ)』と呼び習わした。」(10森野聡子(2019)356-357頁、一部用語表記を改変して引用(アングロ=サクソン→アングロ・サクソン、ブリテン人→ブリトン人))

九世紀初めに北ウェールズで編纂された「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」に、グウィネズ王マエルグンの祖先キネザ(Cunedda)がマエルグン王より146年前、フォース湾南部地域にあたるマナウ・ゴドジン(Manaw Gododdin)からグウィネズへやってきて現地のスコット人を撃退したという逸話が登場する。十世紀から十一世紀頃に編纂されたと見られるウェールズ諸王家の系図をまとめた写本群ハーレイアン系図(Harleian genealogies)でグウィネズ王家の系譜が整えられて、キネザはケルト神話の太陽神ベレヌスと同一視される架空の君主ベリ・マウル(ベリ大王、Beli Mawr)の末裔であるとされ、皇帝を意味するウレディク(Wledig)の称号が与えられてグウィネズ王家の祖として位置付けられた。キネザ・ウレディクの子孫がウェールズ地方を分割して支配し、各地の支配一族の祖となったという(11CUNEDDA WLEDIG (fl. 450?), British prince“. Dictionary of Welsh Biography. National Library of Wales.)。

また、ハーレイアン系図の一部やその後十三世紀頃に編纂されたとみられるウェールズ語写本ペニアルス45写本(Peniarth MS 45)などではキネザを祖とする系図と別に伝説のブリタニア王コエル・ヘーン(Coel Hen12十一世紀の作家ジェフリー・オブ・モンマスによる偽史「ブリタニア列王史」(1138年)によれば、ローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害に怒りコルチェスターで挙兵したがブリテン島へ侵攻してきたコンスタンティウス・クロルスに服従、その後死去したが、コンスタンティウス・クロルスとコエル・ヘーン王の娘ヘレナが結婚し後のローマ皇帝コンスタンティヌス1世が産まれたという(ジェフリー・オヴ・モンマス(2007)『ブリタニア列王史 アーサー王ロマンス原拠の書』南雲堂フェニックス、127-128頁)伝承が描かれている。)を祖としてフレゲッド王家やエルメット王家など古き北方の諸王家へと繋がる系図が存在している。この系図は歴史的事実とは考えられていないが、「古き北方」の諸王家を統合したコエル・ヘーンに始まるコエリング家(Coeling)の系図は中世ウェールズ諸王家に繋がるものとして強い影響を与えた。この系図が作られる過程でフレゲッド王家が権威付けされている点は七世紀にフレゲッド王家のリアンメルト王女がノーサンブリア王オスウィウの妃となったことの影響が強い可能性が示唆されている(13Parker, W. (2022). The Coeling: Narrative and Identity in North Britain and Wales AD 580–950. Northern History, 59(1), 2–27. DOI: 10.1080/0078172X.2022.2031049)。

失われた「古き北方」で外敵と戦ったブリトン人の戦士たちは「北方の戦士たち(ウェールズ語: グイール・ア・ゴグレッズ”Gwŷr y Gogledd”)」と呼ばれて英雄視され、その活躍が語り継がれた。ゴドジン王国の宮廷詩人アネイリンの作と言われるカトラエスの戦いで戦士した戦士たちを謳った哀歌「ア・ゴドジン(Y Gododdin)」などを収録した「アネイリンの書」や対バーニシア戦争で活躍したといわれるフレゲッド王国のイリエーン王とその息子オワイン王に仕えた宮廷詩人タリエシンの作品群と信じられている古詩群、一つのテーマを3つの詩を組み合わせて謳ったブリテン島の三題歌(Trioedd Ynys Prydain)などいずれも十三世紀前後までにウェールズで写本群にまとめられて、「古き北方」への郷愁は中世ウェールズの文化を代表するテーマとなった。

これらで描かれた「北方の戦士たち」の逸話は、例えばフレゲッド王オワインが円卓の騎士ユーウェインとなったり、同じく円卓の騎士パーシヴァルのモチーフとなったウェールズの伝承に登場する戦士ペレドゥルの父が「北方」の領主であったり、三題歌に登場する狂人で預言者のマルジン・ウィストが預言者マーリンのモチーフとなるなど多数アーサー王物語群に取り入れられた。また、様々な伝承が書き残された中世写本群が十九世紀に「マビノギオン」と名付けられた伝承集として編纂された。

参考文献

脚注

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