ヴァイキングのリンディスファーン襲撃(793年)

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ヴァイキングのリンディスファーン襲撃(Viking raid on Lindisfarne)とは793年6月8日に起きたヴァイキングの集団による英国ノーサンバーランド州沖リンディスファーン島にあったリンディスファーン修道院襲撃事件のこと。当時のブリテン島におけるキリスト教信仰の中心であった同修道院に対する徹底的な攻撃・略奪と破壊が行われたため、西ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。この事件以降ヴァイキングによる活動が本格化することから、ヴァイキング時代の始まりを象徴する事件として位置づけられている。

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リンディスファーン襲撃

「リンディスファーン修道院跡」

「リンディスファーン修道院跡」
Credit:Christopher Down, CC BY 4.0 , via Wikimedia Commons

リンディスファーン修道院は634年、ノーサンブリアのオスワルド王の要請を受けたアイルランドの修道士・聖エイダンによって設立され、アイオナ修道院と並んでブリテン島北部のキリスト教布教の拠点となった修道院である。687年、ノーサンブリア王国を代表する修道士・聖カスバートの遺骸が埋葬されたことで、聖カスバートの聖遺物に触れると奇跡が起るとして有名になり、聖人信仰の地として多数の巡礼者を集めた。また、「リンディスファーン福音書」として知られる美しい装飾写本の製作地としても知られイングランド北部におけるキリスト教文化の中心的な役割を担った。「聖なる島」とも呼ばれたリンディスファーン島への襲撃は同時代、衝撃をもって受け止められている。

ヴァイキングのリンディスファーン襲撃事件について、事件の約一世紀後、九世紀後半に編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」には以下の記述がある。

『この年ノーサンブリア人の地に恐るべき凶兆が現れ、人びとを惨めなほどの不安に陥れた。その凶兆とは休まることのない稲光であり、恐るべきドラゴンが上空を浮遊するのが目撃された。こうした凶兆の直後に大飢饉が続き、同年しばらくして後の六月八日(1元の写本の記述は一月とされているが、他の史料の証言等から日付は六月の筆記ミスであろうと考えられている(Lindisfarne raid I Facts, Summary, & Significance | Britannica)には、野蛮人の襲撃により略奪と虐殺がおこり、リンディスファーンの神の教会が悲惨にも破壊された。』(2クロフォード、バーバラ・E(2015)「第二章 ヴァイキング」(デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会、74頁)

記述にある稲光やドラゴンなどの天の凶兆、飢饉などはいずれも福音書で世界の終末を予兆する徴(3クロフォード(2015)74頁)で執筆当時の人々がこの事件から受けた衝撃を示している。また、ノーサンブリア王国出身で、当時フランク王国に仕えていた修道士アルクィンはノーサンブリア王エセルレッド1世(在位774-779年,790-796年)に宛てた書簡でこの事件について言及し、深い衝撃を受けたことを伝えた。

『われわれとわれわれの父祖がこの美しい土地で生を得ていままでおよそ三五〇年、われわれが野蛮人から蒙った恐怖は、いまだかつてブリテンの地で経験されたことはない。実のところそのような渡海が可能だと考えられたこともなかった。聖カスバートの教会には神の司祭たちの血が飛散し、あらゆる聖具が略奪された。ブリテンのなかでもっとも神聖なるこの地が野蛮人の略奪に屈したのである』(4クロフォード(2015)74頁

ヴァイキング時代の開幕

「ヴァイキングのロングシップ(オーセベルグ船)」(九世紀頃、ノルウェー文化史博物館収蔵)

「ヴァイキングのロングシップ(オーセベルグ船)」(九世紀頃、ノルウェー文化史博物館収蔵)
Oseberg ship, Kulturhistorisk museum , Oslo, Norway.
Credit: Daderot, Public domain, via Wikimedia Commons


ヴァイキングの活動が八世紀末以降本格化した理由として急激な人口増加で外部に押し出されたとする説が有力視されてはいるものの英雄的な行為を求めた説や国内の内紛から逃れたとする説、イスラーム圏との交易の活発化、近隣のザクセン人のキリスト教改宗の影響など諸説ある。以上のようなヴァイキングの活動が始まった要因については引き続き議論が続いているが、この時期、造船・航海技術の進歩により遠距離航海が以前より容易になったこともあって、スカンディナヴィアの人々が広範囲に移動するようになり、ヴァイキングの活動が始まった。彼らは海賊・戦士であると同時に交易者であり、故郷では多くが農民であった。ヴァイキングは遠征に際して豪族の指揮の下、豪族の家人や農民の子弟らを乗務員として船団を構成し各地に赴いた。かれらは権威の上昇を目指して遠隔地の珍しい文物を入手するため略奪や交易を行う。

当時、アルクィンが書簡で書いているようにヴァイキングに「そのような渡海が可能だと考えられたこともなかった」ようで、ブリテン島の修道院は多くが海沿いに建てられており、無防備でかつ貴重な品々が集まる建物がヴァイキングにとって襲いやすい立地で点在していた。リンディスファーン修道院襲撃に続いて794年、ノーサンブリア王国のモンクウィアマス=ジャロウ修道院が、795年にはスコットランドのヘブリディーズ諸島にあったアイオナ修道院が、799年には西フランスのロワール川河口ノワール・ムーティエ島にあるサン・フィリベール修道院が相次いで襲撃を受けた。ヴァイキング時代初期の襲撃者はノルウェー出身者であった可能性が高く、リンディスファーン襲撃もノルウェー・ヴァイキングによるものと考えられている(5Lindisfarne raid I Facts, Summary, & Significance | Britannica)。

ヴァイキングによる襲撃はリンディスファーンへの襲撃事件以前にも起きていた記録があるが、西ヨーロッパのキリスト教世界に異教徒のヴァイキングの脅威を示し大きな衝撃を与えた点で非常に大きな事件となった。また、この後九世紀から十一世紀半ばまでヨーロッパ全土への大規模な襲撃、征服と入植、交易などヴァイキングの活動が活発化したことから「ヴァイキング時代」の始まりを画する事件として位置づけられた。

参考文献

脚注