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事件・軍事・戦争

ヘースティングズの戦い(1066年)

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ヘースティングズの戦い(Battle of Hastings)は1066年10月14日、イングランド南部の港町ヘースティングズの近郊、現在のイースト・サセックス州バトルで行われた、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王ハロルド2世に勝利した戦い。戦後、ノルマンディー公ギヨーム2世はイングランド王に即位(イングランド王ウィリアム1世、在位1066-87年)してイングランドを征服、アングロ・サクソン人に替わってノルマン人がイングランドの支配者となった。

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王位継承問題

1066年1月5日、エドワード証聖王が亡くなった。子供の無かったエドワード証聖王の後継候補としては重臣で王妃エディスの兄弟ハロルド・ゴドウィンソンエドワード証聖王の異母兄エドマンド剛勇王の孫エドガー・アシリング、ノルウェー王ハーラル3世、ノルマンディー公ギヨーム2世の四人がいた。当時十代前半だったエドガー・アシリングは若すぎるとして退けられ、イングランドで開かれた賢人会(ウィタン)によってハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王に推され、翌6日、ハロルド2世として即位したことで、王位継承を巡る戦いが勃発する。

イングランド王・デンマーク王・ノルウェー王を兼ねたクヌート大王死後の後継者争いの過程で、1039年頃、クヌートの子ハーザクヌートとノルウェー王マグヌス1世の間で勃発した争いの和平条約としてどちらかが直接の相続人なしに亡くなった場合、もう一方が王国を継承することに同意する取り決めがなされた。この取り決めは無視されてハーザクヌート死後エドワード証聖王が即位するが、マグヌス1世はこれに異を唱えていた。マグヌス1世の後を継いだハーラル3世はエドワード証聖王死後、この約定を受け継いだとして王位継承権を主張した。

1070年頃、ウィリアム1世の命で書かれたギヨーム・ド・ジュミエージュ著「ノルマン人諸公の事績録」やウィリアム1世に仕えた司祭ギヨーム・ド・ポワティエが1070年以降に書いた「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」など、複数のノルマンディー側史料では生前エドワード証聖王ギヨーム2世をイングランド王位の継承者とする約束をして(1鶴島博和(2015)20-22頁ハロルド・ゴドウィンソンもノルマンディー公への臣従を承諾していたと主張している(2鶴島博和(2015)46-47頁)。これらの著作はウィリアム1世の征服を正当化する傾向が強いため事実か否かは定かではないが、エドワード証聖王が約束したならばハロルド・ゴドウィンソンがノルマンディーを訪れた1064年の直前頃か、ウェセックス伯ゴドウィンの一門がエドワード証聖王と対立した期間中で「アングロ・サクソン年代記」にノルマンディー公ギヨーム2世が大軍を率いてイングランドを訪れたという記述がある1052年の可能性がある(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、205頁/Battle of Hastings,Britannica.)。

戦いまで

「ノルマン・コンクェスト1066年の地図」 Credit:Amitchell125 at English Wikipedia, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

ノルマン・コンクエスト1066年の地図」
Credit:Amitchell125 at English Wikipedia, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

外交と戦争準備

エドワード証聖王の死とハロルド2世の即位はすぐに周辺諸国の知るところとなり、ノルマンディー公ギヨーム2世から使者が送られハロルド即位に対する非難が伝えられる(4鶴島博和(2015)93頁)。使者は1064年にハロルドとノルマンディー公の間で約束されたハロルドの妹と公との婚姻の履行と王位継承の約束を破ったことを非難、ハロルドは妹は死んだため約束は履行出来ないなど使者の言を退けた。その後再度ギヨーム2世は使者を送って軍事行動の可能性をちらつかせたが交渉は決裂する。

ギヨーム2世は大義名分のためローマ教皇アレクサンデル2世にハロルド2世の不当性を訴えてイングランド遠征を認めてもらうと、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世やデンマーク王スヴェン2世エストリズセンらと和平条約を結ぶなど積極的に外交を進めて後顧の憂いを断ちつつ遠征準備に着手した。対するハロルド2世もノルマンディーに多数の密偵を送って情勢を探らせ(5鶴島博和(2015)95頁)、ドーヴァー城を増強しイングランド南部に兵力を集めるなど、ノルマンディー公国との開戦に向けた準備が進められている。ハロルド2世が「今までこの国のいかなる王も集めたことがないような海陸の大部隊を集めた」(6大沢一雄(2012)220頁)と「アングロ・サクソン年代記」は書き記す。

ノルマンディー公ギヨーム2世は有力諸侯を集めて遠征計画の同意を得ると諸侯に兵員や船舶の提供を求め、これをリスト化している。リストには16人の聖俗貴族から騎士280人、船舶数776隻が記録されているが、あくまでも賦課された数であって実数はこれより少なかったとみられる。「作戦の効率上、渡航に使用されたすべての船は一定の基準に従って新しくつくられたもの」(7鶴島博和(2015)103頁)であったとするのが主流だが、既存の船も多く使われたともみられ、3月または4月頃からノルマンディー公国内の複数の港で造船が開始され、全軍が集結する9月初旬まで約半年かかっている。公妃マティルダからはギヨームの旗艦としてモーラ(Mora)という名の船が贈られた。

前哨戦

「スタンフォード・ブリッジの戦い」(ピーター・ニコラ・アルボ作、1870年、北ノルウェー美術館収蔵)

「スタンフォード・ブリッジの戦い」(ピーター・ニコラ・アルボ作、1870年、北ノルウェー美術館収蔵)
Peter Nicolai Arbo: The Battle of Stamford Bridge. 1870. Nordnorsk Kunstmuseum.
Credit:Peter Nicolai Arbo, Public domain, via Wikimedia Commons


1066年4月24日頃、ハレー彗星があらわれ人々は異変の前兆と語り合ったという(8大沢一雄(2012)220頁)。その直後、前年失政でノーサンブリア伯を解任・追放されていたハロルド2世の弟トスティグ・ゴドウィンソンが60隻の艦隊を率いてワイト島を攻撃、サンドウィッチを占領した後、ハンバー川河口まで進出してリンゼーで住民を多数虐殺した。マーシア伯エドウィンが陸上部隊を率いてこれを撃破、トスティグは12隻ほどに減った船団で敗走し、スコットランドへ逃れた。

1066年9月初旬、スコットランドでトスティグ・ゴドウィンソンはノルウェー王ハーラル3世に臣従した。ハーラル=トスティグ連合軍は9月中旬ヨーク近辺へ上陸し、9月20日、マーシア伯エドウィンとノーサンブリア伯モーカー率いるイングランド軍が迎え撃ったがハーラル=トスティグ連合軍が勝利した(フルフォードの戦い)。9月24日、ヨーク市に入ったハーラル3世とトスティグは同市から人質と食糧を提供させた上で、ヨーク市民を自軍に編成してイングランド征服に従事させる旨の講和条約を結び、早々とヨークを出て南下を開始、人質が集められると約束されたスタンフォード・ブリッジへと進んでいった。

ハロルドがいつノルウェー軍の侵攻を知ったかは不明だが、ハーラル=トスティグ連合軍がヨークを出た9月24日には、ロンドンにいたはずのハロルド率いるイングランド軍主力がおよそ300キロメートル以上離れたヨークの南16キロメートル付近のタドカスターに到着しており、非常に短期間に軍勢を移動させていた。9月25日、人質引き渡しの場所であるダヴェント川に架かるスタンフォード橋の付近で逗留していたハーラル=トスティグ連合軍を、ハロルド2世率いるイングランド軍が急襲する。ノルウェー王ハーラル3世とトスティグ・ゴドウィンソンの両指揮官が戦死し、300隻を数えたノルウェー軍はわずか24隻にまで減らされて撤退、機動力に優れたイングランド軍の圧勝で終わった(スタンフォード・ブリッジの戦い)。

スタンフォード・ブリッジの戦い(1066年)
スタンフォード・ブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)は1066年9月25日、現在のヨークシャー州イースト・ライディングにあったダヴェント川に架かるスタンフォード・ブリッジ近郊で行われた戦い。エドワード証聖王死...

ノルマンディー軍の上陸

1066年9月8日、なかなか攻めてこないノルマンディー軍に対する長期の臨戦態勢を兵糧の不足で維持出来なくなり、ハロルド2世は一旦軍を解散する。動員されたイングランド南部の沿岸の人々にとってはニシン漁の漁期が近づいていたことも影響あった。このようなタイミングで北から侵攻してきたのがハーラル3世で、この対応のためハロルド2世は集められるだけの軍を集めて北へ向かっていた。ハロルド2世が軍を解散させたとの報告を受け、9月12日、ギヨーム2世は現在のフランス北東部ソンム県のソンム川河口にあった港町サン・ヴァレリー・シュル・ソンムに全軍を集結させる。軍勢の数には諸説あるが7000名程度と推測されている。9月27日または28日、少なからず被害を受けた嵐がやみ、西風から英仏海峡を渡るのに最適な南風が吹き始めたときを見計らってギヨーム2世は全軍に出港を命じた。

翌28日または29日(9アングロ・サクソン年代記」の写本によって9月28日とするものと29日とするものがある(鶴島博和(2015)121頁/大沢一雄(2012)223頁))、英仏海峡に面したイースト・サセックス州の港町ペヴェンジーに上陸したノルマンディー軍は運搬してきた木材を使ってローマ時代の要塞跡を利用して橋頭堡を築き船の守りを固めると、10月1日ごろ、要衝となるヘースティングズへと主力を進め、防衛拠点のヘースティングズ城の築城を開始、周辺地域を占領して陣地を構築した。

ヘースティングズ城
ヘースティングズ城(Hastings Castle)は英国イースト・サセックス州ヘースティングズにあった城。ノルマン・コンクエストに際し、後のイングランド王ウィリアム1世がブリテン島に最初に築いた城である。現在は廃城となり遺構の一部が残るに...

両指揮官の決断

10月6日頃、ヘースティングズ城スタンフォード・ブリッジの戦いにおけるハロルド2世大勝の報が届く。報告してきたのはエドワード証聖王に仕えていた在地のノルマン人ロバート・フィッツ・ワイマークという人物で、彼は勢いに乗るハロルド2世軍との決戦を避け籠城を進言するが、ノルマンディー公は「余は、堀や壁に守られて籠っているつもりはない。可及的速やかにハロルドと一戦を交えん」(10鶴島博和(2015)138頁(ギヨーム・ド・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」より))とこの進言を退けたという。

ハロルド2世がロンドンに帰還したのが10月6日ごろのことである。ハロルド2世はギヨーム2世へ使者を送り自身の王位の正統性を訴えるとともに、金銭など対価を与える譲歩をして撤退を求めた。これに対してギヨームもまた、自身の王位継承の正統性を唱え、雌雄を決することを望む返答を送る。「私は彼のスターリング(銀貨)ではなく、誓約したように、エドワードが私に与えたこの国を取りに来たのだ」(11鶴島博和(2015)141頁(ウェイス「ロロの物語」より))。

対決姿勢が強まる中、ハロルド2世に献策したのが王弟イースト・アングリア伯ギリスである。ギリスは自身が軍を率いてノルマンディー軍と対峙する間に、ロンドンに火を放って焦土としたあと撤退して持久戦に持ち込めば、自身の勝敗に関わらず補給を断たれたノルマンディー公軍は撤退を余儀なくされるという。しかし、ハロルド2世は「私が保護すべき人々を害することなどできるはずがない。」(12鶴島博和(2015)143頁(ウェイス「ロロの物語」より))と退けたうえで、こう宣言した。

「ハロルドなしに戦場に行くことも戦うこともない。人々は臆病者と罵るだろう。多くが批難するだろう。もしハロルドが、彼のよき支持者たちを、来もしないところに送り込んだら」(13鶴島博和(2015)144頁(ウェイス「ロロの物語」より)

ヘースティングズの戦い

両軍の布陣

「ヘースティングズの戦い布陣図」

「ヘースティングズの戦い布陣図」
鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社、156頁より


10月13日、ハロルド2世率いるイングランド軍はヘースティングズからほど近いカルドベックの丘の稜線に布陣、対するギヨーム2世率いるノルマンディー軍はバトルで軍を集結させたのち、カルドベックの丘の南、テラムの丘に布陣した。イングランド軍の方がノルマンディー軍より足場の良い地形を確保し、ノルマンディー軍は攻略に不利な状況であった。軍勢については諸説あるが、両軍とも5000~7000、歩兵中心のイングランド軍に対して騎兵中心のノルマンディー軍という特徴があった。

イングランド軍は両翼をフェルドと呼ばれる民兵が、中央を王の親衛隊であったハスカールと呼ばれる護衛部隊が構成し、丘の稜線に沿って重装歩兵による五列の密集戦列を組み、盾をお互いに組み合わせて壁を作りその隙間から槍を突き出す「盾の壁」と呼ばれる堅固な防御陣形を敷いている。総指揮官ハロルド2世の下、弟イースト・アングリア伯ギリスと同じく弟のケント伯レオフワインの二人が副将を務める。ケント地方からの志願兵は王から高い信頼を寄せられて第一陣を務めた。

対するノルマンディー軍は中央をギヨーム2世率いる親衛隊とノルマン人部隊から構成される本隊、左翼をブルターニュ軍、右翼には留守を守る重臣ロジェ・ド・ボーモンの子ロベール・ド・ボーモンが率いるフランドルやブーローニュなど多様な出身地からなる騎兵混成部隊の三部隊に分け、最前列がクロスボウで武装した歩兵、二列目が重装歩兵、三列目が騎兵という布陣で、丘上に陣取るイングランド軍の前面に展開した。

戦闘

「ノルマンディー軍側視点からのヘースティングズの戦いの戦場」

「ノルマンディー軍側視点からのヘースティングズの戦いの戦場」
Credit:Nestor Daza, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons


10月14日朝9時頃、ノルマンディー軍の攻勢によってヘースティングズの戦いは幕を切った。序盤は地の利を生かしたイングランド軍が優勢となった。イングランド軍が布陣する丘とノルマンディー軍の布陣する丘のあいだの一番低いところで標高65.4m、その先から高低差18mを加速なしで駆け上がらなければならない(14鶴島博和(2015)171-172頁)。また、ノルマンディ軍は丘を攻略するために、低地に軍を展開させざるを得ず、一帯には溝や亀裂がいたるところに走って行軍を困難にしており、さらに、溝に落ちて戦闘不能となる兵も続出、不利な地形とイングランド軍の堅い守りに阻まれて攻めあぐねることになった。のちに「バイユーのタペストリー」製作を指示した人物とされるギヨーム2世の異父弟バイユー司教オドがこのとき軍を鼓舞してまわっている。

戦線が膠着するなか、ノルマンディー軍にギヨーム2世戦死の噂が駆け巡り、動揺が走る。ギヨーム2世はすかさず兜を投げ捨てて馬を走らせ、自らの健在をアピールして戦線の崩壊を防いだ。

「見よ!私は生きている。神のご加護でわれらは勝利に向かっている。何を血迷って逃亡しようとするのか。逃げ道でもあると思うてか。追って殺そうとする者は、おまえたちを牛のように屠殺できるであろう。おまえたちは、勝利と不滅の名声を捨てようとしている。そして破滅と消えることのない恥辱に落ちようとしている。逃げれば死が待っているだけだ」(15鶴島(2015年)175頁(ギヨーム・ド・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」より)

「バイユーのタペストリー第51場、兵士たちを鼓舞するノルマンディー公ギヨーム2世」

「バイユーのタペストリー第51場、兵士たちを鼓舞するノルマンディー公ギヨーム2世」
Public domain, via Wikimedia Commons

そう鼓舞して、全軍突撃を指示し攻勢に出る。イングランド軍に損害を与えたものの、味方も大きな損害をこうむっていた。このとき、イングランド軍副将の王弟イースト・アングリア伯ギリスとケント伯レオフウィンが戦死したと「バイユーのタペストリー」52場で描かれているが、一方で、ウェイス「ロロの物語」やアミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」ではギリスが戦死したのは最終局面、ハロルド2世を守っての戦死だったとする。

戦況はノルマンディー軍が不利な情勢で推移したが、イングランド軍の鉄壁の防御陣にも、おもに個人的な力量に優れたノルマン騎士の武勇によって開けた突破口であったが、いくつかほころびが見え始めていた。先のノルマンディー軍による一斉攻撃の際、撃退されて逃亡するノルマン人を追撃してきたイングランド軍を容易に撃破できたことがギヨーム2世に大きなヒントを与えた。

午後、ギヨーム2世は大きな賭けにでる。逃亡を装っての後退を指示したのである。偽装敗走は非常に高い統率力を必要とする戦術で、わずかな失敗で戦線が一気に崩壊しかねない。自らの鼓舞で士気が上がっているこのときは確かに絶好のタイミングで、この賭けは成功した。二度に渡り偽装撤退からのイングランド軍の追撃を反転迎撃して殲滅する作戦を成功させ、堅守でノルマンディー軍を退け続けたイングランド軍の戦線が一気に崩れる。

さらに追い打ちをかけるように、公は弓兵に高く矢を上に放つよう指示した。イングランド軍が「蚊」と呼んだ頭上からの矢の雨にイングランド軍が次々と倒れる。さらにその矢の一本がハロルド2世の右目に刺さった。王はその矢を自ら引き抜き、痛みをこらえて指揮を執り続ける不屈ぶりを見せつけ、その王の雄姿に鼓舞されるように、まだイングランド軍はケントとエセックスの精鋭を中心に激しく抵抗、攻勢にでるノルマン軍を再度押し返す。これに対してギヨーム2世自ら千名の精鋭で密集隊列を組み激しい攻勢に出た末、これを粉砕した。

この乱戦の中でついにハロルド2世が戦死した。その死がどのようなものだったかは様々な描写がありはっきりしない。アミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」はノルマンディー公がブーローニュ伯ユースタス、ポンチュー伯相続人ヒュー、騎士ギファードとともに王に戦いを挑み倒したとするが、この著者アミアン司教ギーはポンチュー伯の叔父でブーローニュ伯とも親しい人物で、その両者がわざわざ入っている点など記述の信憑性に疑問が持たれている(16鶴島(2015年)185頁)。別の史料ウェイス「ロロの物語」では単に「ある騎士が面頬を切りつけた。ハロルドは地面に倒れた。彼が立ち上がろうとしたとき、1人の騎士が腿を切り裂いたので彼は再び倒れた」(17鶴島(2015年)184頁(ウェイス「ロロの物語」より))としている。アミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」に従えば、前述の通り王弟で副将のギリスの戦死もこのとき、ギヨーム2世手ずからの一撃によってであった(18鶴島(2015年)176頁)。

ハロルド2世の戦死は日没前のことと考えられ、その死が全軍に伝わるとイングランド軍は逃亡を開始、およそ八時間にわたる死闘は幕を閉じた。

戦後

「ハロルド2世が亡くなったバトル修道院の祭壇の位置を示すレリーフ」

「ハロルド2世が亡くなったバトル修道院の祭壇の位置を示すレリーフ」
Credit:Néstor Daza, Public domain, via Wikimedia Commons


ハロルド2世の遺体はアミアン司教ギー「ヘイスティングズの戦いの詩」によれば、公の持っていた上質の紫のリネンの布に包まれ、葬儀が執り行われた。その上で、海の傍ら、崖の上に埋葬されたという。このとき、「半分ノルマン人、半分イングランド人」の公の側近がこの役目を務めた。また、ウィリアム・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」によると、埋葬の役目を務めたのはウィリアム・マレットという人物であったといい、公は「ハロルドの遺体は海と海岸の守護としておくべき」と語ったという(19鶴島(2015年)187頁)。

全体的に史料群はハロルド2世を非常に勇戦した人物として描いており、王の称号を欠かさず、尊重する姿勢が見られている。強敵として描くことでウィリアム1世の王位奪取を英雄的なものとし、同時にハロルド2世を尊重することでハロルド2世に近しい諸侯や地方を慰撫し味方につけようとする意図があったのかもしれない。中世、ハロルド2世は騎士道ロマンスの題材として描かれることが多く、長く英雄視された。またカンタベリーの聖オーガスティン修道院では毎年、戦いの記念日である10月14日には、「イングランド王ハロルドと多くの兄弟たち」の死が偲ばれている。戦いから四年後の1070年、ローマ教皇アレクサンデル2世はウィリアム1世にヘースティングズの戦いにおける殺人の告解を求め、これに応えてウィリアム1世が戦地に建てるよう命じたバトル修道院の祭壇はハロルドが倒れた場所に設けられたと伝わる。

以後、ドーヴァー、カンタベリーと要衝を支配下に置き、ロンドンで貴族らに擁立されたエドガー・アシリングを服従させて、1066年12月25日、イングランド王ウィリアム1世として戴冠する。以後、十年ほどかけて各地の反抗勢力を次々と鎮圧しながらイングランド全土を平定、「ノルマン・コンクエスト」の名で知られる征服事業が始まった。

参考文献

脚注

  • 1
    鶴島博和(2015)20-22頁
  • 2
    鶴島博和(2015)46-47頁
  • 3
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、205頁/Battle of Hastings,Britannica.
  • 4
    鶴島博和(2015)93頁
  • 5
    鶴島博和(2015)95頁
  • 6
    大沢一雄(2012)220頁
  • 7
    鶴島博和(2015)103頁
  • 8
    大沢一雄(2012)220頁
  • 9
    アングロ・サクソン年代記」の写本によって9月28日とするものと29日とするものがある(鶴島博和(2015)121頁/大沢一雄(2012)223頁)
  • 10
    鶴島博和(2015)138頁(ギヨーム・ド・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」より)
  • 11
    鶴島博和(2015)141頁(ウェイス「ロロの物語」より)
  • 12
    鶴島博和(2015)143頁(ウェイス「ロロの物語」より)
  • 13
    鶴島博和(2015)144頁(ウェイス「ロロの物語」より)
  • 14
    鶴島博和(2015)171-172頁
  • 15
    鶴島(2015年)175頁(ギヨーム・ド・ポワティエ「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」より)
  • 16
    鶴島(2015年)185頁
  • 17
    鶴島(2015年)184頁(ウェイス「ロロの物語」より)
  • 18
    鶴島(2015年)176頁
  • 19
    鶴島(2015年)187頁
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