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先史・考古学

ヒルフォート(丘砦)

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ヒルフォート(Hillfort)は丘の上に作られた要塞化された防御性集落を指す総称で、ヨーロッパの広い範囲で紀元前一千年紀の青銅器時代後期から鉄器時代にかけての時期に築かれた。日本語では「土砦」「丘砦」などと訳される。丘陵地の頂上部分に外周に沿って溝が掘られ土塁や石塁が複数列備えられた防御設備を持つ構造が特徴である。防衛の拠点や戦時の避難場所としてだけでなく食料の備蓄や交易・手工業の中心として発展した。ヒルフォートの構造は紀元前二世紀頃から築かれ始めるオッピドゥム(Oppidum)と呼ばれた防御施設を伴う大規模定住地へ受け継がれた(1木村正俊/松村賢一(2017)『ケルト文化事典』東京堂出版、87-88頁)。

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ヒルフォートの特徴と歴史

「バーバリー・カースル(英国、ウィルトシャー州、鉄器時代のビヴァレート・ヒルフォート)」

「バーバリー・カースル(英国、ウィルトシャー州、鉄器時代のビヴァレート・ヒルフォート)」
Credit: Geotrekker72, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

ヒルフォートはブリテン諸島およびアイルランド、イベリア半島、フランス、ドイツ、スカンジナビア半島、バルト海沿岸、東ヨーロッパなどの広い範囲で見られ、最初期のヒルフォートは青銅器時代後期、紀元前1000年頃から築かれ始めたが、本格的に各地に築かれるようになるのは鉄器時代前期の紀元前800年から700年の間と考えられている(2Historic England(2018). Hillforts: Introductions to Heritage Assets. Swindon.)。

初期のヒルフォートは丘陵地の頂上に土塁と外堀で構成される単純な構成で築かれた。「ユニヴァレート(univallate)」と呼ばれる一列の木製の防御柵で囲まれた構造が特徴的で、正門前に出郭や堀が築かれ入口付近が強化されたり、木材と組み合わせた土塁が築かれていたりすることが多く、通常10ヘクタールを超える広い面積を占めていたが、構造物自体は比較的小規模なものであった(3Univallate hillfort . Oxford Reference.)。

初期のユニヴァレート・ヒルフォートは、紀元前400年頃から「ビヴァレート(bivallate)」や「マルチヴァレート(multivallate)」と呼ばれる構造に発展する。ビヴァレート・ヒルフォートは初期のユニヴァレート・ヒルフォートに二列目の土塁と堀が追加された構造で、さらに土塁と堀が増えるとマルチヴァレート・ヒルフォートとなる(4Historic England(2018))。 大規模なマルチヴァレート・ヒルフォートは、丘の上に位置し、最大15mの間隔で設置された2列以上の同心円状の土塁によって構成される面積5ヘクタールから85ヘクタールの要塞と定義される。多くは紀元前六世紀から紀元後一世紀半ばの間に建設され使用された(5Multivallate hillfort at Hunsbury Hill, West Hunsbury, Northamptonshire)。ビヴァレート・ヒルフォートとマルチヴァレート・ヒルフォートは、「発展したヒルフォート(developed hillforts)」とも呼ばれることもある(6Historic England(2018))。

「メイデン・カースル(英国、ドーセット州、鉄器時代初期のマルチヴァレート・ヒルフォート)」 1935年撮影、アシュモレアン博物館収蔵

「メイデン・カースル(英国、ドーセット州、鉄器時代初期のマルチヴァレート・ヒルフォート)」
1935年撮影、アシュモレアン博物館収蔵
Credit: Major George Allen (1891–1940), Public domain, via Wikimedia Commons

「マルヴァーン・ヒルのブリティッシュ・キャンプ(英国ヘレフォードシャー、マルチヴァレート・ヒルフォート)」

「マルヴァーン・ヒルのブリティッシュ・キャンプ(英国ヘレフォードシャー、マルチヴァレート・ヒルフォート)」
Credit: Spoonfrog at English Wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons

ヒルフォートには、ラウンドハウス(円形住居)、貯蔵穴、農業用倉庫として使われたと思われる小型の四本柱の構造物などの建造物が見つかっている。鉄器時代のブリテン島のラウンドハウスの方位は、宗教的または社会的信条を反映してか、ほとんどの出入り口が東または南東を向いているという強い偏りがあった。ヒルフォート内のラウンドハウスは通常、小規模で、他の建造物と比較して特に支配的な位置にあったり物質的な豊かさを示すような特徴は無いという(7Historic England(2018))。

ヒルフォートの防衛的な性質は、それらが暴力の脅威に対応して建設されたことを示唆しているが、紀元1世紀頃の断片的な人骨や一部焼けただれた人骨、武器、衣類などが発見されているキャドバリー・カースルの例などを除くと、一般的にヒルフォートで戦争が行われたという明確な証拠はほとんどなく、鉄器時代の侵略行為の大半は他の場所で行われた可能性が高い。ヒルフォートは集落、食料貯蔵所、集会所、そしておそらく宗教的な中心地としての役割の方が戦争時における役割よりも重要であったと考えられている(8Historic England(2018))。

その後、多くのヒルフォートは使われなくなり、生き残ったヒルフォートはより精巧で堂々としたものになったが、その数は少なくなった。「発展したヒルフォート(developed hillforts)」群は、紀元前100年頃までに相次いで放棄され、オッピドゥムと呼ばれる大規模な防御性集落がヒルフォートに代わって発展した(9木村正俊/松村賢一(2017)88頁/Historic England(2018))。中世以降、ヒルフォートの跡地に砦や城が築かれて再利用される例も多くみられる。

キャドバリー・カースル(Cadbury Castle)

キャドバリー・カースル(Cadbury Castle)
© Tim Heaton , CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons

参考文献

脚注