アンリ1世(Henri 1er、1008年頃生-1060年8月4日没)はカペー朝三代目のフランク(フランス)王(在位1031年7月20日-1060年8月4日)。ロベール2世の次男で兄ユーグの死後、父の存命中にランスで共治王として戴冠した。しかし、母コンスタンスが弟ロベールを王位に推したためロベール2世死後内乱となる。内乱を平定した後、ノルマンディー公、ブロワ伯、アンジュー伯、フランドル伯などの強力な領邦君主たちとの抗争を余儀なくされ、その治世下でフランス王領は史上最小となったが巧みな外交で生き残りを図り、カペー家の王位を次代へと繋いだ。
生涯
即位と骨肉の争い
アンリ1世は1008年頃、カペー朝第二代のフランク(フランス)王ロベール2世と王妃コンスタンス・ダルルの次男として生まれた。1016年、ロベール2世がブルゴーニュ公領の継承権を獲得、アンリにブルゴーニュ公位が与えられた。1025年、ロベール2世の共治王だった長兄ユーグが亡くなるとロベール2世はアンリを後継としようとしたが、王妃コンスタンス・ダルルは三男ロベールの後継を望んで対立する。1027年5月14日、ロベール2世の意志が通ってアンリは共治王として戴冠した。
1029年から31年にかけて、アンリとロベールの兄弟は母コンスタンスに促されて父王に反逆、ドゥルー、ボーヌ、アヴァロンを占領した(1Henri I CAPET, King of France.A Family Tree.)。1031年7月20日、王子たちの反乱を受けてボージャンシー城に籠城を続けていたロベール2世が城内で亡くなりアンリが単独の王となったが、母コンスタンスはロベールの王位継承を望み反対し続けたため国内が分裂した(2佐藤賢一(2009)『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、45-46頁)。
即位直後の1032年、アンリ1世は弟ロベールにブルゴーニュ公位を継承させるべく諸侯をオルレアンに集めて承認を求めた。ブロワ伯ウード2世らの協力を得た母コンスタンスに唆されたロベールが反乱を起こしたため、1033年、アンリ1世はノルマンディー公国へ退避を余儀なくされた(3Henri I CAPET, King of France.A Family Tree.)。アンリ1世はノルマンディー公ロベール1世にヴェクサン地方割譲を約束することで協力を得て反乱を鎮圧した。コンスタンス母后死後の1034年、弟ロベールと和解してブルゴーニュ公とした。
諸侯との対立
ブロワ伯は一貫してフランス王とは距離を置いて臣従せず、ブロワ伯ウード2世の代にブロワ伯領とともにシャンパーニュ伯領、シャトーダン、シャルテル、トゥール伯領などを獲得して東西から王領を包囲する態勢を築いた。ブロワ伯ウード2世はアンリ1世即位時にはオルレアンへの召集にも参加せず、コンスタンス母后=ロベール連合の反乱に加担してアンリ1世と対立、1034年から亡くなる1037年まで度々王領に侵攻して脅かした。彼の死後、ブロワ伯領は兄弟で分割相続されるが、1047年、弟のティボー(4ブロワ伯としてはティボー3世、シャンパーニュ伯としてはティボー1世)が力尽くで再統一し、フランス王家にとって最大の脅威となり続けた。
アンリ1世は弟の反乱やブロワ伯家の脅威に対抗するためアンジュー伯に協力を求め、当主フルク3世ネラとその子ジョフロワ2世マルテルを重用した。1031年、フルク3世へヴァンドームの領主権を認め、ジョフロワ2世とアキテーヌ公ギヨーム5世未亡人アニェス・ド・ブルゴーニュとの結婚を承認、1041年、アンジュー伯位を継いだジョフロワ2世にトゥレーヌとル・マンの司教区を与えた。1043年、一気に強力な諸侯に台頭したジョフロワ2世は義理の娘アニェス(アグネス・フォン・ポワトゥー)を神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世と結婚させて同盟を結び王権を脅かした。アンジュー伯家の台頭を恐れたアンリ1世はノルマンディー公ギヨーム2世(後のイングランド王ウィリアム1世)と結んで1049年からアンジュー伯領に侵攻、1052年8月15日、ル・メーヌを平定してジョフロワ2世がアニェス・ド・ブルゴーニュと離婚することで、アンジュー伯と皇帝ハインリヒ3世との同盟関係は解消された(5ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、22-24頁)。
1035年、アンリ1世はノルマンディー公ロベール1世の死によって発生した後継者争いに介入、後継者となった庶子ギヨーム2世を支持し、1047年、ギヨーム2世がヴァル・エス・デュヌの戦いで反乱貴族を制圧して地位を固めた。1053年、アンリ1世は一転して反ギヨーム2世派を支援してアンジュー伯ジョフロワ2世マルテルと結びノルマンディーに侵攻するが、1054年のモートマの戦い、1057年のヴァラヴィルの戦いと続けてノルマンディー公軍に敗れ、介入を断念した。この結果、ノルマンディー公ギヨーム2世の支配は盤石なものとなる。強大化する一方のノルマンディー公ギヨーム2世に対し、引き続きアンリ1世はアンジュー伯ジョフロワと同盟を結んで対抗、この三つ巴の対立構図がアンリ1世死後のノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)へと繋がることとなる。
1060年8月4日、アンリ1世は52歳で亡くなり、1059年にアンリ1世の共治王に戴冠していた弱冠8歳の長子フィリップが単独の王として王位を引き継ぎ、アンリ1世の妹アデルの夫フランドル伯ボードゥアン5世が後見人として選ばれた。
評価
前王ロベール2世の治世後半からアンリ1世治世にかけての時期、フランスでは領邦君主・城主層の急速な台頭が見られる。かつて王権が保持していた支配権力はほとんどがこれら領邦君主層に握られ、さらに多くの城が築かれて地域支配を実現する城主たちが台頭、中世フランスに特徴的な城主支配体制(シャテルニー)が姿を現した(6渡辺節夫「第六章 中世の社会――封建制と領主制」(柴田三千雄(1995)『フランス史(1)先史~15世紀 (世界歴史大系) 』山川出版社、281-289頁))。このような社会背景の中でアンリ1世はノルマンディー公国、ブロワ伯、アンジュー伯、フランドル伯といった王権を遥かに凌ぐ強力な領邦君主たちへの対抗を余儀なくされる。
アンリ1世治世下で多くの領土を失いフランス王領は史上最小となったが、骨肉の争いを乗り越え、強力なライバルたちに伍して合従連衡を駆使した巧みな外交戦略で生き残りを図り、カペー家の王位を次代へと繋ぐことに成功した。
結婚と子供たち
アンリ1世は最初に神聖ローマ皇帝コンラート2世の娘マティルダと婚約したが、彼女は1034年に早世した。続いて1034年、マティルダ(Mathilde)という出自不明の女性を最初の妃に迎え娘が生まれたが、娘は1044年以前に5歳で亡くなり、マティルダ妃も1044年に亡くなった。1051年、キエフ大公ヤロスラフ1世の娘アンナ・ヤロスラヴナ(アンヌ・ド・キエフ)と結婚、アンヌ妃との間に四人の子供が生まれた(7FRANCE CAPETIAN KINGS.MEDIEVAL LANDS.)。
- フィリップ(1052年生-1108年7月30日没)フランス王フィリップ1世
- エマ(1054年生-没年不明)
- ロベール(1054年頃生-1063年没)
- ユーグ(1057年生-1102年10月18日没)ヴェルマンドワ伯ユーグ1世
参考文献
- 朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社
- 佐藤賢一(2009)『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、講談社現代新書
- 柴田三千雄(1995)『フランス史(1)先史~15世紀 (世界歴史大系) 』山川出版社
- シャルマソン、テレーズ(2007)『フランス中世史年表 四八一~一五一五年(文庫クセジュ)』白水社
- ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ
- Henri I CAPET, King of France.A Family Tree.
- FRANCE CAPETIAN KINGS.MEDIEVAL LANDS.
- Henry I | Capetian Dynasty, Reformer, Crusader | Britannica