歴史の中の『女王陛下のお気に入り』の時代と登場人物たち

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第91回アカデミー賞作品賞・監督賞・主演女優賞・助演女優賞など9部門10ノミネートされ、2019年2月15日より全国公開される『女王陛下のお気に入り』は、十八世紀初頭、フランスとの戦争状態にあるイングランドを舞台に、病弱なアン女王と女王の幼馴染で彼女に代わって政治の実権を握るレディ・サラ、サラの従妹で新しく侍女となった没落貴族の娘アビゲイルの三人の女性を中心にした宮廷劇です。

『女王陛下のお気に入り』日本版予告編

公式サイトSTORYより

「女王陛下のお気に入り」

「女王陛下のお気に入り」

時は18世紀初頭、アン女王(オリヴィア・コールマン)が統治するイングランドはフランスと戦争中。アン女王の幼馴染で、イングランド軍を率いるモールバラ公爵の妻サラ(レイチェル・ワイズ)が女王を意のままに操っていた。
そこに、サラの従妹だと名乗るアビゲイル(エマ・ストーン)が現れる。上流階級から没落した彼女はサラに頼み込み、召使として雇ってもらうことになったのだ。
ある日、アビゲイルは、痛風に苦しむアン女王の足に、自分で摘んだ薬草を塗る。サラは勝手に女王の寝室に入ったアビゲイルをムチ打たせるが、女王の痛みが和らいだと知り、彼女を侍女に昇格させる。

イングランド議会は、戦争推進派のホイッグ党と、終結派のトーリー党の争いで揺れていた。戦費のために税金を上げることに反対するトーリー党のハーリー(ニコラス・ホルト)は、アン女王に訴えるが、ホイッグ党支持のサラに、女王の決断は「戦争は継続」だと、ことごとく跳ね返される。
舞踏会の夜、図書室に忍び込んで、蝋燭の灯りで本を読んでいたアビゲイルは、ダンスホールを抜け出して突然駆け込んできたアン女王とサラが、友情以上の親密さを露わにする様子を目撃してしまう。
国を動かす二人と最も近い位置にいるアビゲイルに目を付けたハーリーが、アン女王とサラの情報を流すようにと迫るが、アビゲイルはキッパリと断る。アビゲイルはそのことをサラに報告するが、褒められるどころか「双方と手を組む気かも」と探られ、空砲で脅されるのだった。

アビゲイルはサラが議会へ出ている間のアン女王の遊び相手を命じられるが、女王は「サラは国家の仕事より私を優先させるべき」と駄々をこねる。アビゲイルは、女王の亡くなった17人の子供の代わりだという17匹のウサギを一緒に可愛がり、上手く女王をなだめるのだった。
アビゲイルはサラの信頼を徐々に勝ち取り、女王のお守役を務める機会が増えていく。いつもストレートに物を言うサラに対し、甘い言葉で褒め称える従順なアビゲイルに女王は心を許していく。
議会では、トーリー党が激しく抵抗して増税を食い止める。女官長に就任して以来、初めてその権力に翳りが見えたサラに、今度は女王との関係を揺るがす大きな危機が訪れる。それは、いつの間にか野心を目覚めさせていたアビゲイルの思いがけない行動だった──。

映画『女王陛下のお気に入り』公式サイト

この記事では本作の背景となる十八世紀当時のイングランドを取り巻く情勢や主要登場人物のモデルとなった実在の人物たちについて紹介したいと思います。以下、歴史条の出来事を紹介することで、自ずと歴史劇である本作品のストーリー展開に深くかかわる情報も混じるかと思われますので、ネタバレになる可能性があります。

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十八世紀初頭の英国

イングランド王ウィリアム3世

イングランド王ウィリアム3世

1603年、女王エリザベス1世の遺言によりスコットランド王がイングランド王を兼ねる同君連合が英国に誕生しますが、その支配は不安定でした。1640年、国王の専制的支配に反抗して議会派とプロテスタント派の同盟による清教徒革命が起きて国王を処刑。しかし、その革命政権が独裁化すると、1660年、亡命していた国王の王子を復権させて王政復古が行われ、かと思えば復古した王政がカトリックを重視しはじめたことに反抗して、1688年、国王ジェイムズ2世を追放してオランダの君主オラニエ公を王に迎える名誉革命が発生と、十七世紀の英国は大きく揺れ動きました。

1688年の名誉革命によってスコットランド王兼イングランド王となったのがウィリアム3世です。彼は追放された王ジェイムズ2世の長女メアリの夫で、妻と一緒に即位しました。国王がウィリアム3世で女王がメアリ2世です。前国王ジェイムズ2世はカトリックを重視して、軍事力を背景に議会に圧力を加えるなど横暴な姿勢が嫌われて追放されることになりましたが、ウィリアム3世は前王とは反対にプロテスタントを容認し、議会を尊重します。

イングランド女王メアリ2世

イングランド女王メアリ2世

イングランドの議会制度は十三世紀半ばごろから始まり、内紛続きで国王の力が弱かったこともあってゆっくりと根付いていました。作中でも対立するトーリー党とホイッグ党は1660年から1688年まで続く王政復古時代の1680年頃、王位の継承を巡る意見の対立から生まれたグループでした。トーリー党が後の保守党、ホイッグ党が後の自由党へとなっていきますが、この頃はまだ現在の政党のように一貫した政策の差などがあるわけではありません。ただ、トーリー党は君主制の維持を重視し中小地主が支持基盤で対外戦争に反対する姿勢が強く、ホイッグ党は大地主を支持基盤として議会を重視し宗教への寛容政策を求める一方、対外的には戦争の継続を主張していました。

しかし、オランダの君主でもある彼はフランスとの戦争中でした。前王はフランスと友好的な外交を展開していましたが、ウィリアム3世を迎えたことで自ずと英国も対フランス戦争への参加を余儀なくされます。1688年から続いたフランスがヨーロッパ諸国を相手にした「大同盟戦争」と呼ばれる大戦は1697年にようやくフランスの敗北で幕を閉じますが、同じころスペイン王が後継者無く亡くなり、次の王の座を巡って再びフランス王ルイ14世が自らの孫をスペイン王にしようと目論み、これに反対する神聖ローマ帝国(現在のドイツ・オーストリア)やウィリアム3世はフランスに対して再び戦争を始めます。1701年に始まったこの戦争は「スペイン継承戦争」と呼ばれ、1713年まで12年の長きに渡ってヨーロッパ全土を巻き込激しい戦闘が行われました。また植民地であるアメリカでも英仏間で戦われ、この植民地での戦いは「アン女王戦争」と名付けられています。

少し遡って1694年、ウィリアム3世の妃で共同の女王メアリ2世が子供の無いまま亡くなり、ウィリアム3世は後継者をどうするか悩みます。フランスに亡命中で返り咲きを狙っている前王ジェイムズ2世とその子供の復権だけは阻止しなくてはならないと、1701年、彼は王位を継ぐ条件としてカトリックを禁止する法律を定めます。その上で後継者にメアリの妹アンを指名し、アンが亡くなった後は王家の遠い親戚にあたるドイツの貴族ハノーファー家が王位を継ぐこととしました。そうして、またフランスとの激しい戦争が始まった直後の1702年、ウィリアム3世は落馬事故を起こして亡くなります。モグラの穴に足を引っかけての転倒だったため、政敵たちはもぐらに乾杯したそうです。こうしてアン女王の時代が始まります。

アン女王と二人の女性

アン女王

アン女王

アン女王は1665年2月6日、当時の国王チャールズ2世の弟ヨーク公ジェイムズ(後の国王ジェイムズ2世)と公妃アン・ハイドの次女として生まれました。両親はともにカトリック派でしたが姉メアリとともにプロテスタントとして育てられます。

1683年、18歳でデンマーク王国の第二王子ゲオルグ(カンバーランド公ジョージ・オブ・デンマーク)と結婚。夫のジョージは何かと「え?ほんと?”Est-il ossible”」と聞き返すのが口癖でそれがニックネームになったという逸話がある、頼りないが善良な人物でした。夫婦関係は良好で二人の間には十八人の子供が生まれますが、うち12人が死産、5人が半年以内に死亡して、一人残ったウィリアムも1700年、11歳で病死してしまいます。次々子供を失った悲しみからか彼女は「ブランデー・ナン」という異名がつけられるほどお酒に逃避して、王位についたときには肥満と痛風で歩行も困難な状態でした。

女王が愛したサラ・チャーチル

モールバラ公爵夫人サラ・チャーチル

モールバラ公爵夫人サラ・チャーチル

アン女王の寵愛深かった女性がモールバラ公爵夫人サラ・チャーチルでした。サラはナイト階級のジェニングス家の次女でアン女王とは5歳ちがいの1660年生まれ。幼いころからアンの遊び相手として一緒に育ちました。姉妹以上の仲の良さに同性愛的な関係があったと噂されるほどだったといいます。1678年、軍人ジョン・チャーチルと結婚してからも、アン女王の侍女として変わらぬ関係を続け、アンが夫カンバーランド公の待遇を巡って義兄ウィリアム3世・姉メアリ2世と対立したときもアンの味方として支えになり、信頼を勝ち得ます。1702年、アンが女王になるとともにサラは女官長に任命され、アンはサラに一切を頼るようになりました。

1702年、スペイン継承戦争でサラの夫ジョン・チャーチルが軍功を挙げると、女王は彼をモールバラ公爵に叙爵。さらに、1704年、史上名高いブリントハイムの戦いでモールバラ公率いるイングランド軍がフランス軍を壊滅させると、広大な庭園と宮殿を与えるなど大盤振る舞いで報います。劇中の予告編でも女王がサラに自慢しているこの宮殿、ブリントハイムの戦いの名にちなんでブレナム宮殿と名付けられ、現在、世界文化遺産の一つとしてウェストミンスター宮殿と並ぶイギリスを代表する宮殿となっています。

ブレナム宮殿

ブレナム宮殿
Blenheim_Palace_2006_cropped.jpg: *Blenheim_Palace_2006.jpg: gailf548 from New York State, USAderivative work: Nev1 (talk)derivative work: Durova [CC BY 2.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

ブレナム宮殿公式サイト(英語)

アビゲイル・ヒルとサラ・チャーチルの戦い

アビゲイル・ヒル

アビゲイル・ヒル

アビゲイル・ヒルは1670年、ロンドンの商人フランシス・ヒルの娘として生まれ、実家が困窮したことで従姉のサラに引き取られて養育され、サラの紹介でアン女王の侍女として働き始めます。1704年頃からサラがプレナム宮殿の建造などで宮廷から離れがちになると、献身的な働きが女王に認められて信頼を得るようになり、1707年、アビゲイルはアン女王の夫カンバーランド公ジョージの従者サミュエル・メイシャムと結婚、さらにトーリー党の党首ロバート・ハーリーとも接近して、次第にサラにとって代わるようになります。

当時、サラの夫モールバラ公は軍総司令官としてホイッグ党党首シドニー・ゴドルフィンとともに戦争推進派の政権を運営しており、サラもホイッグ党政権のためアン女王との橋渡し役になっていました。これに対してトーリー党を率いるロバート・ハーリーとアン女王との橋渡し役として力を持つようになったのがアビゲイルでした。

モールバラ公ジョン・チャーチル

モールバラ公ジョン・チャーチル

アン女王とサラとの関係を決定的に裂くことになったのが、サラが娘婿のサンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの入閣をアン女王に強く迫ったことです。元々女王はこの人物を好ましく思っていませんでした。ちなみにこのチャールズ・スペンサーの三男がモールバラ公家を継いで後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルの祖となり、四男がスペンサー伯家を継いでダイアナ元皇太子妃の祖となります。

1710年、アンとサラの関係は完全に冷え切ってしまいサラは宮廷を去り、アビゲイルが後任の女官長に就任し、1714年に女王が亡くなるまでアビゲイルは女王を支え宮廷で強い影響力を持ち続けました。また、1710年、総選挙でゴドルフィン内閣が倒れてハーリー内閣が成立、翌1711年、モールバラ公も解任され、1712年からアン女王が亡くなる1714年まで夫妻はイングランドを離れざるを得ませんでした。

アン女王の時代

アン女王はお酒に溺れて政治に興味を示さず、サラ・チャーチルやアビゲイル・メイシャムのような寵愛を受けた側近が権力を握るようになりましたが、一方で君主が政治に介入しなかったことで、議会政治が発展したことが大きな成果として挙げられます。また、彼女の時代に、スコットランド王の復権を防ぐためにイングランド王位とスコットランド王位の合同が決定され、現在のイギリス国王位であるグレート・ブリテン王位が誕生しました。1707年、彼女はイングランド王でもスコットランド王でもなく初代グレート・ブリテン女王となります。

このときの合同で初めて私たちが「イギリス」と呼ぶ一つの国「グレートブリテン」がブリテン島に誕生するとともに、強引な王位の一体化は最近のニュースでも報じられるように、スコットランドとの軋轢を生み続けることにもなりました。現在のイギリスの国名「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」にあるような、「グレート・ブリテン」に「北アイルランド」が加えられることになるのはもう少し後のことです。

大きな歴史の転換期を彩る女性たちのドラマが本作でも描かれることが期待されますね。

作品情報

女王陛下のお気に入り ”The Favourite”

スタッフ
監督 ヨルゴス・ランティモス
脚本 デボラ・デイヴィス,トニー・マクナマラ
製作 セシ・デンプシ,エド・ギニー,リー・マジデイ,ヨルゴス・ランティモス
撮影監督 ロビー・ライアン
衣裳 サンディ・パウエル
美術 フィオナ・クロンビー
編集 ヨルゴス・モヴロプサリディス
音響 ジョニー・バーン

キャスト
アン女王:オリビア・コールマン
アビゲイル・ヒル:エマ・ストーン
レディ・サラ(サラ・チャーチル):レイチェル・ワイズ
ロバート・ハーリー:ニコラス・ホルト
サミュエル・メイシャム:ジョー・アルウィン
ゴドルフィン:ジェームズ・スミス
モールバラ卿:マーク・ゲイティス

配給 20世紀フォックス映画
2019年2月15日公開
映画『女王陛下のお気に入り』公式サイト

参考書籍

・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・森護著『英国王室史事典』(大修館書店,1994年)
・青山吉信編著『イギリス史〈2〉近世 (世界歴史大系)』(山川出版社,1990年)
・君塚直隆著『物語イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書) 』(中央公論新社,2015年)