ミタンニ(ミッタニ)王国(”Mitanni or Mittani”)は前二千年紀後半、紀元前十五世紀頃から前十三世紀半ば頃までイラク北部から地中海東岸にかけての地域を支配下に置いていた古代帝国。住民の大多数は系統不明のフリ(フルリ)人であったと考えられている。現在のシリア北東部にあったといわれる首都ワシュカニが未発見のため、建国の経緯などは不明。前1440年頃から強国となりエジプト新王国、ヒッタイト、アッシリアなどと争ったが、前十四世紀半ば頃からヒッタイト王国の攻勢により衰退、強大化したアッシリア帝国の攻勢を受け、前十三世紀半ば頃までに滅亡した。
フリ(フルリ)人とミタンニ王国の登場
フリ人は前三千年紀後半から前千年紀にかけて古代オリエント世界で勢力を拡大した民族集団で、コーカサス語族のウラルトゥ語と関連があるとみられるフリ語を使っていた1渡辺和子「8 アッシリアとフリ人の勢力――前二千年紀前半の北メソポタミア――」(大貫他,2000,302頁)、「フリ人」(ビエンコウスキ他,2004)。アッカド王朝時代(前2334年~前2112年頃)からウル第三王朝時代(前2112年~前2004年)にかけてフリ語人名が記録に登場し、現在のトルコ南東部、イラク北部、イラン北西部にかけてフリ語名の王が支配下に置いていた。前二千年紀前半、古バビロニア時代(前前1792年~前1595年)にメソポタミア北部からシリアにかけて拡大した。
紀元前十五世紀頃、メソポタミア北部からシリアにかけての一帯を版図として登場するのがミタンニ王国である。史料上初めてミタンニの名が登場するのがエジプト王トトメス1世(前1506~前1494年頃)時代のエジプトの役人となったミタンニ出身者の墓碑銘で、続く前1500年頃以降ヌジ、アララク、カトナ、ウガリットなどからもミタンニに関する文書が出土、前十五世紀中葉までに地中海沿岸に至る広い範囲を征服した。
建国の過程は明らかではないが、通説となっているのが、前十五世紀頃からインド=ヨーロッパ語族がアナトリア地方からメソポタミアにかけて侵入し、フリ人社会の上に、『戦車隊を中心とする戦士の集団からなる貴族階級(マリアヌ)として君臨』2小川英雄,2011,49頁し、ミタンニ王国を建国したというものだ。
一方で以下のような批判もある。
『しかし最近は、多少の印欧系の要素は認められるものの、ミタンニ王国は支配者層も含めてフリ人の国であるとする学説が有力になっている。
支配者層が印欧系とされた主な根拠のひとつには、ミタンニ王シャティワザとヒッタイト王シュピルリウマ一世がとりかわした誓約文書のなかに、ヴァルナ、インドラ、ミトラ、ナサトヤという印欧系の神々の名があげられていること、もうひとつは戦車を持つ戦士層である「マリヤンヌ」が、古い印欧語の「青年」(márya-)と関連させられたことである。しかし印欧系の神々については、付随的に挙げられているにすぎない。また「マリヤンヌ」についても、現在ではフリ語特有の語形をもつことが指摘されている。』3渡辺和子,2000,301-302頁
ミタンニ王国の建国については、首都と考えられているワシュカニが現在もまだ発見されていないことも含めて謎が多く、よくわかっていない。インド=ヨーロッパ語族の支配階級「マリヤンヌ」がフリ人諸国を糾合して君臨したとする方が通説ではあるが、以上のような批判もあり見直しと議論が続いている、というのが現状である。
「ミタンニ(ミッタニ)」の呼称は前1500~前1350年にかけてミタンニの支配下にあったアラブハ候国の都市ヌジで発見された、アッカド語で書かれフリ語人名が多く掲載されるヌジ文書にある人名「マイッタ」に由来する地名「マイッタニ」に基づく。一方、フリ語では「フリ」、アッシリア等の文献では「ハニガルバト」、バビロニアでは「ハビガルバト」、エジプトでは「ナハリナ」「ナフリマ」と呼ばれていた。4「ミタンニ」(ビエンコウスキ,2004年)
2019年6月、イラク北東部クルディスタン地域にある、ティグリス川東岸のモスル・ダムの湖底からミタンニ王国に関わりが深い宮殿の遺跡が発見され話題となっている。
ミタンニ王国の強勢
紀元前1453年、ミタンニはエジプト王トトメス3世とカデシュ王中心のカナン連合軍が戦ったメギドの戦いで連合軍の一翼を担って戦っている。この時は敗戦の中でトトメス3世の追撃から逃れて撤退、兵の温存に成功している。前1440年頃の王サウシュタタルの時代にヌジ、アララクの支配を強化し、ウガリットやキズワトナを支配下に収め、アッシリアに侵攻して打撃を与えるなど、勢力を拡大して強国となった。
サウシュタタル王を継いだアルタタマ1世、シュタルナ2世、トゥシュラタの三代に渡ってエジプト王家と婚姻関係を結び、エジプトとの同盟関係を背景にオリエントでの勢力拡大を図った。アルタタマ1世の王女ムテミヤはトトメス4世の王妃の一人となり、アメンホテプ3世を生み、シュタルナ2世の王女ギルヘバ、トゥシュラタの王女タドゥヘバがともにアメンホテプ3世の王妃となり、タドゥヘバは後にアメンホテプ4世(アクエンアテン)と再婚している。
アメンホテプ4世と諸外国との外交書簡集「アマルナ文書」にはトゥシュラタ王との文書も残っており、そこにはトゥシュラタ王からの贈答品やアメンホテプ4世からの黄金などの資金援助、両者の婚姻関係を前提とした呼称の特徴などが窺える。そこにはミタンニ王がヒッタイトとの戦いでの戦利品の一部「戦車一両、馬二頭、男の従者一名、女の従者一名」とあわせて戦車五両、馬五組とトゥシュラタ王の姉妹でアメンホテプ4世妃ギルヘバへの贈り物として「黄金の飾りピンを一組、黄金のイヤリングを一組、黄金のマシュの輪を一個、「甘い油」を入れた香料入れ」などが贈られている。5クライン,2018,90-91頁
ミタンニ王国の衰退と滅亡
前十六世紀から前十五世紀末までヒッタイトは弱体化していたが、シュピルリウマ1世(前1370年頃~前1336年頃)はエジプトとの外交関係改善や周辺諸国との和平条約、バビロニア(カッシート)から王女を妃に迎えるなど国力の回復に努めていた。
同じころ、トゥシュラタ治世下では反トゥシュラタ勢力がミタンニ東部で王弟アルタタマ2世を擁立して内紛が勃発、このアルタタマ2世派がシュピルリウマ1世に支援を求めたがその後すぐにアッシリアによって滅ぼされた。この混乱を好機としてヒッタイトはミタンニに侵攻して首都ワシュカニを攻略、トゥシュラタ王を撃破した。敗れたトゥシュラタは息子の一人に殺害されてしまった。
その後、トゥシュラタ王の子の一人シャティワザがワシュカニ奪還を果たすも、シュピルリウマ1世は息子をカルケミシュ王として北西シリアを治めさせ、ミタンニは急速に弱体化していった。縮小したミタンニはアッシリアとヒッタイトという二大国の緩衝地帯となった後、アダド・ニラリ1世(前1305年~前1274年)の治世下で強大化したアッシリア帝国の攻勢を受け、おそらくアッシリア王シャルマナセル1世(前1273年~前1244年)によって前十三世紀半ばごろまでに滅亡させられた。名前が残る最後のミタンニ王はシャットゥアラ2世である。
ミタンニ王名表
キルタ” Kirta”
シュタルナ1世” Shuttarna I”
パルサタタル” Parshatatar”
サウシュタタル” Shaushtatar”前1440年頃
アルタタマ1世” Artatama I”
シュタルナ2世” Shuttarna II”前1400年頃
アルタシュマラ” Artashumara”
トゥシュラタ” Tushratta”前1370年頃
シュタルナ3世” Shuttarna III”
シャティワザ” Shattiwaza”
シャットゥアラ1世” Shattuara”
ウサシャッタ” Wasashatta”
シャットゥアラ2世” Shattuara II”前1250年頃6王名表はビエンコウスキ,2004および大貫他,2000参照
参考文献
- 大貫良夫,前川和也,渡辺和子,屋形禎亮(2000)『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント(中公文庫)』中央公論新社
- 小川英雄,山本由美子(2009)『世界の歴史4 – オリエント世界の発展 (中公文庫) 』中央公論新社
- 小川英雄(2011)『古代オリエントの歴史』慶應義塾大学出版会
- 小川英雄(2011)『発掘された古代オリエント』リトン
- 日本オリエント学会(2019)『古代オリエント事典 3 事典 シ-ワ』岩波書店
- クライン、エリック・H(2018)『B.C.1177 古代グローバル世界の崩壊』筑摩書房
- ビエンコウスキ、ピョートル,ミラード、アラン(2004)『図説古代オリエント事典―大英博物館版』東洋書林