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スコットランド南部で川底から中世の戦略的要衝となった橋の遺構が見つかる

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スコットランド、テヴィオット川のアンクラム古橋の遺構

スコットランド、テヴィオット川のアンクラム古橋の遺構
© Historic Environment Scotland / Ancrum and District Heritage Society

スコットランド南部スコティッシュ・ボーダーズを流れるツイード川(River Tweed)の支流テヴィオット川(River Teviot)で、歴史上戦略的・経済的要衝として知られた中世の橋「アンクラム古橋(Ancrum Old Bridge)」の遺構が初めて発見された。

スコットランド政府公共部門「スコットランド歴史環境協会(Historic Environment Scotland, HES)」からの資金提供を受けた「アンクラムおよび地区遺産協会(Ancrum and District Heritage Society, ADHS)」が、年輪年代調査コンサルティング会社「デンドロクロニクル社(Dendrochronicle)」と「ウェセックス考古学沿岸・海洋チーム(Wessex Archaeology Coastal and Marine team)」の協力で「アンクラム古橋プロジェクト(The Ancrum Old Bridge Project)」を立ち上げ、2018年から2年かけて歴史調査、現地調査、ドローン写真撮影、年代学、水中考古学、放射性炭素年代測定など多面的調査が行われた。

ADHSのAncrum Bridgeのページに発見調査の様子について詳しく紹介されている。

ADHS - Ancrum Bridge
DISCOVERING THE REMAINS OF THE MEDIEVAL BRIDGE AT ANCRUM

HESおよびADHSのリリースによると、元々橋が架かっていたとみられる位置のテヴィオット川の川底から橋脚の水よけの土台とオーク材が発見され、放射性年代測定の結果、十四世紀半ば頃のものと判明し、これがアンクラム古橋の遺構と見られている。

デンドロクロニクル社の年輪年代学者コラリー・ミルズ博士は今回の調査について次のように述べている。

『アンクラム近くのテヴィオット川でADHSが発見した木製構造物は、非常に戦略的・歴史的な場所にある初期の橋の一部が残された稀有なものだ。オーク製木材は非常に良好な状態で、戦争の荒廃を生き延びた中世の建物がほとんどない地域で、樹木年輪分析のための本当に重要な現地の素材を提供している』

木材サンプルは、イースト・キルブライドの「スコットランド大学連合環境研究センター(Scottish Universities Environment Research Centre, SUERC)」(1SUERCはスコットランドにある大学が高価な機器や専門家の専門知識を共同で利用できるようにするために設立された組織で、地球科学や放射化学などに強みを持ち、英国で最も包括的な年代測定技術が揃う。https://www.gla.ac.uk/research/az/suerc/)に送られ、放射性炭素年代測定のために「ウィグル・マッチ(wiggle match)」(2ウィグル・マッチ法についてはhttps://paleolabo.jp/analysis-information-1-1.html)を行い、1300年代半ばの日付範囲を示す結果が得られた。

スコットランド王デイヴィッド2世(在位1329-1371)治世下で建設された複数のアーチを持つこの橋は、スコットランドの首都エディンバラからイングランドとの国境に近いスコットランド南東部の勅許自治都市ジェドバラまで延びる「王の道(Via Regia)」の一部だった。

ADHSによれば、ジェドバラの修道院で育てられた羊毛がテヴィオット川に架かったこの橋を渡りアンクラムを経由してロクスバラに集積され、ロクスバラから北海沿岸の商業港ベリックへと運ばれた。この街道はアンクラムから西にセルカーク、メルローズ、東にロクスバラ、そしてそこからグラスゴー、エディンバラ、ベリックへと貿易ルートが走る中近世スコットランド王国の経済を支えた非常に重要な輸送網の要所であった。

ADHSのジェフ・パークハウス氏は、『当時、洪水時や高潮時には、ホーイックとベリックの間のテヴィオット川を渡る唯一の場所であった可能性があり、中世スコットランドで最も重要な構造物の一つとなっていた』と言う。

軍事的にも重要で1526年にはジェイムズ5世がこの橋を渡り、1566年にはスコットランド女王メアリが出産後間もない身を押して、負傷した寵臣ボスウェル伯を見舞うためこの橋を渡って伯の居城ハーミタージ城(Hermitage Castle)を訪れジェドバラやスコットランド・ボーダーズを視察した。清教徒革命下のスコットランド内戦(三王国戦争)では、1645年、王党派の指揮官モントローズ侯がこの橋を渡って歴史上重要な戦いである「フィリップホフの戦い」に向かった。またスコットランド長老派の強硬派カヴェナンターズの反乱(1679年)の際、カヴェナンターズはこの橋のたもとで反乱軍を徴募したが同様の例は多く見られ、この橋の一帯は戦時に軍を徴集するために重要な場所であったと考えられている。

1698年、「アンクラムの橋は壊れて損傷していて もう使えない」という記録が残るが、十八世紀には新たな橋が再建されたとみられ、十八世紀末にはベリックからケルソー、アンクラム橋への運河開削計画が、十九世紀にはアンクラム橋への鉄道延伸計画なども挙がり、1938年、現存する橋が建設された。中世以来一貫して、交通の要衝として重視されてきた橋であった。

ウェセックス考古学沿岸・海洋チームのボブ・マッキントッシュ博士は今回の発見について、考古学的な意義を以下のように語っている。

『結果は本当にエキサイティングなものだった。驚くほど早い時期に加えて、川底に敷き詰められた木枠の上に石の重なりが置かれたものであるブランダーズ(branders)を使って作られたようだ。スコットランドでブランダーズが考古学的に発見されたのは今回が初めてだ。他の方法では、歴史的な資料と、十九世紀から二十世紀初頭に完成した現存する橋の工学的な作業に関する2つの記述からしか知られていない。』

スコットランドの河川に架かっていた橋で、元の位置から発見された遺構としては、これまで十五世紀のものが最古の例であったため、今回の発見がスコットランド最古の橋の遺構となった。

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