ウェセックス王国(Kingdom of Wessex)は六世紀から十世紀にかけてブリテン島に存在したサクソン人の王国。七王国の一つ。六世紀後半、テムズ川上流域で勃興し七世紀始め頃からブリテン島南部・南西部を支配下におさめ強国として台頭、マーシア王国、ノーサンブリア王国を始めとする諸王国と覇を競った。825年、エグバート王時代にマーシア王国を撃破してブリテン島に覇権を確立、アルフレッド大王治世下でデーン人との激しい戦いを経てヴァイキングの支配地域デーンローとイングランドを二分する勢力となり、927年、エセルスタン王が全イングランドの征服に成功して初代イングランド王となったことでイングランド王国(927-1707年)へ発展する。
歴史
起源
ウェセックス王国の初期の歴史について、九世紀後半にウェセックス王アルフレッドの命で編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」によれば、西暦495年、チェアディッチとその息子キンリッチ(1アルフレッド大王に仕えた修道士アッサーが著した「アルフレッド王の生涯」(893年頃)に書かれている王家の系譜ではキンリッチはチェアディッチの息子クレオダの子、すなわちチェアディッチの孫であるとしている(アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、1-62頁))が五隻の船団を率いて現在のハンプシャー州南部に上陸したという。508年、二人は軍を率いてブリトン人の王ナタンレオドとその配下5000人を殺害、519年、ウェセックス王国を建国してチェアディッチが初代の王となったとされている。530年、ワイト島を征服、534年、チェアディッチを継いだキンリッチ(在位534-560年)は領土の拡大を進め、三代目の王チェウリン(在位560-592年)はサイレンセスターやグロスターなどを征服、現在のグロスターシャーやオックスフォードシャーなどミドランズ地方中南部まで領土を広げてウェセックス王国をブリテン島南西部屈指の勢力に押し上げ、「アングロ・サクソン年代記」ではブリテン島諸国に上級支配権を行使する地位であるブレトワルダに挙げられている。しかし、このような「アングロ・サクソン年代記」の記述は三世紀以上後に書かれたもので記述を裏付ける他の同時代史料が無く、それぞれの事件の年代も疑問視されており、信憑性は低い。
従来、ウェセックス王国は「アングロ・サクソン年代記」の記述を踏まえてチェアディッチらが征服し後に王国の首都が置かれたハンプシャー州ウィンチェスター周辺に六世紀前半頃誕生したと見られていたが、近年のアングロ・サクソン系墓地の発掘・分析を中心とした考古学的な調査結果では、六世紀後半から七世紀前半にかけて、より内陸に入ったオックスフォードシャー南部のローマ時代の都市ドーチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames)を中心としたテムズ川上流域に誕生したとみる説が有力となっている(2Hamerow, H. , Ferguson, C., Naylor, J. (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69./ Hamerow, H., Ferguson, C. ,Naylor, J. , Harrison, J.,McBride, A. ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.)。
また、初期のウェセックス王国を指してゲウィッセ(Gewisse)王国と呼ぶのが通説である。ベーダ「アングル人の教会史」(731年)でウェセックス王をゲウィッセ王と書かれているのが初出で、766年のウェセックス王キネウルフ(在位757-786年)の勅許状(Chaerter)でもゲウィッセ王を称している他、ウェセックス王エグバートの825年の勅許状でも自らをゲウィッセ王と称しており、十二世紀にもウィンチェスター周辺を指してゲウィッセと呼ぶ記録が残るなどウェセックス(ウェスト・サクソン)の王を称する様になっても並行してゲウィッセという王号および地域名が使われていた(3Thomas William Shore(1906).’Origin of the Anglo-Saxon Race‘,Elliot Stock.pp.224-225.)。名称の由来は諸説あるが、部族または氏族の名に由来するとみられ、テムズ川上流域に勃興したゲウィッセ族を中心として諸部族の統合と征服を経て六世紀後半から七世紀前半にかけてゲウィッセ王国=ウェセックス王国が誕生したと考えられている。
キリスト教化と勢力の拡大
ベーダ「アングル人の教会史」によれば、635年、キリスト教布教のためブリテン島を訪れたフランク人司教ビリヌスの宣教によりウェセックス王キュネギリス(在位611-642年頃)がキリスト教に改宗したという。あわせてキュネギリス王はドーチェスター・オン・テムズに司教座と居住地を与えた。この洗礼の場にはキュネギリス王の娘の夫であるノーサンブリアのオスワルド王が臨席しており、オスワルド王と同盟を結ぶために洗礼を受けたとみられる。「アングロ・サクソン年代記」によると、これに先立つ626年、キュネギリス王の兄弟または息子で共同でウェセックス王を務めていたウェセックス王クウィッチェルム(在位626-636年)がノーサンブリアのエドウィン王暗殺の刺客を送って失敗しているが、続く628年、今度はウェセックス王国はマーシア王国のペンダ王とサイレンセスターで戦っており、対ノーサンブリアから対マーシアへの外交方針転換を背景としてノーサンブリアと同盟を締結する必要性からキリスト教への改宗がおこなわれた。キュネギリス王の跡を継いだチェンワルフ王(在位642-645、648-672年)は当初キリスト教に改宗せず、マーシア王ペンダの妹を王妃としていたが後に離婚したことで、645年、マーシア王国の侵攻を受けペンダ王によって追放されイースト・アングリア王国に一時亡命した。648年、ウェセックス王位を回復してからはキリスト教を庇護し、司教区を分割して新たにウィンチェスターに司教座を置き、ウェールズ地方へ領土を拡大するなど安定した治世を築き、死後はチェンワルフ王の王妃セアクスブルグ女王(在位672-674年)の短い治世を挟んで王族のアスクウィネ(在位674-676年)、キュネギリス王の子ケントウィネ(在位676-685年)を経て、ウェセックス王国の台頭をもたらすカドワラ王、イネ王の時代を迎える。
カドワラ王(在位685-688年)はチェウリン王の末裔と言われるが系譜は信頼されておらず前半生も謎に包まれている。王位に付く前には一時追放されて亡命生活を送っていたという。685年、王位を継承してすぐにサセックス王国へ侵攻してエゼルウェルフ王を殺しサセックス王国を併合、翌686年、マーシア王国に支配されていたワイト島を奪還し、さらに同年、一気にケント王国も征服してウェセックス王国の版図を急拡大させた。686年にカドワラ王が発した勅許状がウェスト・サクソン人の王(ウェセックス王)を称した最初の例で、領土の拡大が既存のゲウィッセ王号に代わる新たな称号の必要性に繋がったと考えられている(4Yorke, Barbara (1990), Kings and Kingdoms of Early Anglo-Saxon England, London: Routledge,p. 59)。
688年、カドワラ王がわずか三年でローマ巡礼のために退位すると、チェウリン王の末裔というイネが即位した。イネ王(在位688-726年)は694年、ケント王国は三万ポンドの支払いとともにウェセックス王国からの独立を認めつつ従属国とし、イングランド南東部の支配を安定化させ、ドゥムノニア半島のブリトン人王国ドゥムノニア王国の領土へ侵攻して領土を拡大、イングランド南西部の支配を確固たるものとした。また、イネ王は法典を整備しウェセックス王国の統治体制を確立した。イネ王法典はイングランドにおいてケント王国のエセルベルフト法典などに続く代表的なゲルマン部族法典であり、農地の権利、兵役の義務、人命金、殺人罪の裁判における弁護人の選任など具体的な条文が残され、後にアルフレッド大王の法典にも採用された(5Attenborough, F.L. Tr., ed. (1922). The laws of the earliest English kings. Cambridge: Cambridge University Press.pp.34-61.)。
覇権の確立からイングランド統一へ
757年、マーシア王となったオファ王(在位757-796年)は征服活動を推進、次々とマーシア王国の支配下となっていった。ウェセックス王国はマーシア王国の勢力拡大に対抗して独立を守っていたが、786年、キネウルフ王(在位757-786年)が王族によって暗殺されると、オファ王の娘を妻として支援を受けるベオルフトリクと、ウェセックス王家の血を引くケント王国の王子エグバートとの間で後継者を巡って争いが起こり、オファ王の支援を受けるベオルフトリクが即位(在位786-802年)、ついにマーシア王国に従属した。
王位争いに敗れたエグバートはフランク王国に亡命し、オファ王死後ブリテン島へ帰還、802年、ベオルフトリク王死後ウェセックス王に即位した(在位786-802年)。以後じっくりと力を蓄え、825年、エレンダンの戦いでエグバート王率いるウェセックス王国軍はマーシア王国軍を破り、エセックス、サリー、サセックス、ケントなどイングランド南部諸国をウェセックス王国の支配下とし、829年から830年までの短い間ながらマーシア王国も占領した。「アングロ・サクソン年代記」はこれをもってエグバート王を第八のブレトワルダに挙げる。以後イングランドにおけるウェセックス王国の覇権は揺るぎないものとなった。
八世紀末から始まるヴァイキングの活動は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、ヴァイキング勢力はハーフダン・ラグナルソンら複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、通称「大軍勢(6“The Great Army”古英語”micel here”/または大異教徒軍”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」として活動を開始する。869年あるいは870年、イースト・アングリア王国を滅ぼすなどイングランド各地に戦火が広がった。871年、エゼルレッド王(在位865-871年)は弟アルフレッドとともにアッシュダウンの戦いでヴァイキング勢力を撃破するが直後に亡くなり、同年、アルフレッドがウェセックス王となる(在位871-899年)。
アルフレッド大王はヴァイキングとの戦いを繰り広げ、878年、デーン人の指導者グスルムにエディントンの戦いで勝利、886年頃、和平条約を結び、「ロンドンからチェスターへ続くウォトリング街道の東北部をグスルムが、南西部をアルフレッド大王が統治する」(7アッサー(1995)330頁)こととした(ウェドモア条約)。これらデーン人に対する勝利を背景に同年、アングロ・サクソンの王を称するようになった。アルフレッド大王の治世下で軍制改革、行政機構の整備、「アルフレッド法典」の制定、「アングロ・サクソン年代記」の編纂、学芸の保護など多岐にわたる改革が断行されてウェセックス王国の統治機構は大きく発展した。またウィンチェスターやロンドンなどが都市計画に基づいて整備・開発され中世都市として形作られた。
アルフレッド大王を継いだエドワード古王(在位899-924年)は、マーシア女王となった姉エセルフレドと協力して対ヴァイキング戦争を進め、910年、テッテンホールの戦いで旧ノーサンブリのデーン人勢力を撃破してハンバー川以南へのヴァイキングの侵攻を阻止、イースト・アングリア他イングランド南部を再征服、918年、姉エセルフレド死後マーシア王国を併合してハンバー川以南を全てウェセックス王国の版図に組み込んだ。
次のエセルスタン王(在位924-927年(ウェセックス王)、927-939年(イングランド王))はまず王位継承を巡る国内の混乱を鎮め、927年、ヨークを拠点として旧ノーサンブリア王国南部を勢力下とするデーン人王国(ヨールヴィーク)を滅ぼし、バンバラを中心に旧ノーサンブリア王国北部に残存していたノーサンブリア王国の残党(バンバラ伯)を征服、全イングランドの征服に成功した。エセルスタン王の軍事的成功は周辺諸国の反発を招き、アルバ王国と小規模な戦闘がおこなわれた。927年7月12日、現在のカンブリア州ペンリス近郊にあったイーモント橋にエセルスタン王、アルバ(スコットランド)王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワイン、デハイバース(8十世紀当時南部を除くウェールズ地方の大半を勢力下に置いた王権)王ハウェル、バンバラ伯エルドレッドら諸王侯が集まり講和会議が開かれ七年間の休戦とバンバラ伯がエセルスタン王に臣従することなどが決められた。
エセルスタン王はヨーク征服を記念して「ブリタニア全土の王(Rex Totius Britanniae)」の刻印が刻まれた貨幣(エセルスタン・ペニー”Athelstan Penny”)を多数発行し、翌928年4月16日付でエセルスタン王が出した勅許状(Charter)で初めてイングランド王(Rex Anglorum)の称号を使う(9The Electronic Sawyer: Online Catalogue of Anglo-Saxon Charters,S400., London, British Library, Add. 15350, ff. 70r-71r (s. xii med.),)など、このイングランド統一が実現した927年にイングランド王国が成立したと考えられている。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
- 桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会
- Attenborough, F.L. Tr., ed. (1922). The laws of the earliest English kings. Cambridge: Cambridge University Press.
- H. Hamerow, C. Ferguson, J. Naylor (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69.
- H. Hamerow, C. Ferguson, J. Naylor , J. Harrison, A. McBride, ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.
- Thomas William Shore(1906).’Origin of the Anglo-Saxon Race‘,Elliot Stock.
- “The Electronic Sawyer: Online Catalogue of Anglo-Saxon Charters“
- “Wessex“, Encyclopedia Britannica.
- “King Athelstan“, Athelstan Museum.