ダルリアダ王国(Dalriada / アイルランド語”Dál Riata” ダール・リアタまたはリアダ)は六世紀頃から九世紀頃にかけて、ノース海峡を挟んでスコットランド西部アーガイル地方とアイルランド北東部アントリムにまたがる地域を支配したスコット人の王国。首都はドゥナド(Dunadd)。西暦500年頃、アイルランド北東部にいたゲール系の人々(スコット人)が伝説の建国者ファーガス大王に率いられてスコットランド西部キンタイア半島に進出したと伝わり、アイダーン王(在位574-608年)の治世下で最盛期を迎えるが、637年、マグ・ラス(モイラ)の戦いでアイルランド側領土を喪失して弱体化、741年ピクト王国に従属した。843年、ピクト王に即位したケネス・マカルピン王の下でピクト王国と統一され、十世紀初め頃、この統一王国はアルバ王国と呼ばれるようになり、スコットランド王国へ発展した。十二世紀頃までにダルリアダ王国の王家がスコットランド王家の祖であるとする系譜が整えられ、スコットランド王権を権威付けるルーツに位置づけられた。
スコット人の移住征服説
西暦500年頃、アイルランド北東部アントリム一帯に居住していたゲール語を話す人々(スコット人)がエルクの息子ファーガス(”Fergus Mór mac Eirc”/ファーガス大王)という指導者に率いられてノース海峡を渡り、スコットランド西部キンタイア半島に移住、ピクト人を駆逐してダルリアダ王国を建国したという建国伝説が十一世紀頃に成立(1十一世紀頃の詩「スコット人の詩歌”Duan Albanach”」による)し、この建国伝説に基づくスコット人の移住征服説が通説となっているが現在は疑問視されている。移住征服説の根拠となるのはファーガスの没年を501年とする「ティゲルナハ年代記”Annals of Tigernach”」と、ファーガスらエルクの息子たちがブリテン島へ移住したとする「アルバの人々”Senchus fer n-Alban”」の2つの文献の記述と、古アイルランド語がスコットランドへ移入されPケルト語であるピクト語とQケルト語であるゲール語の取替が起きたとする推論が基になっていた(2常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』27-29頁)/久保田義弘(2013)「中世スコットランドのダル・リアダ王国―― ダル・リアダ王国の伝説と最盛期から衰退までの変遷 ――」(『札幌学院大学経済論集 6』60-61頁)/ハインズ、ジョン「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、121頁))。スコット人の移住征服説に対しては1970年代からグラスゴー大学の考古学者レスリー・オルコック教授らが疑義を呈し、1980年代から行われたダルリアダ王国の首都ドゥナドの発掘調査でも移住の痕跡は発見されず、この発掘調査を指揮したユアン・キャンベル博士が2001年に発表した論文「スコットはアイルランド人か?”Were the Scots Irish?”」で否定し一石を投じた(3常見信代(2017)29-31頁/Campbell, Ewan.(2001). “Were the Scots Irish?” in Antiquity No. 75 . pp. 285–292.))。常見によれば、キャンベルは「アイルランド北東部からの征服や移住を否定しただけでなく、スコットはもともとアーガイルに居住していたと主張し、さらに『文化的影響があったとすれば、スコットランドからアイルランドへと向かった』と結論した」(4常見信代(2017)31頁)という。ただし、スコット人はアイルランド北東部からスコットランド西部へ拡大したのか逆にスコットランド西部からアイルランド北東部へ拡大したのかを判断する史料に乏しく、キャンベル説も仮説に留まっている(5常見信代(2017)31-32頁)。
歴史
ダルリアダ王国建国伝説が記された十一世紀頃の詩「スコット人の詩歌”Duan Albanach”」によると、エルクの息子ファーガスは二人の兄弟ローン(”Loarn”)とオエンガス(́”Oengus”)を伴ってスコットランド西部へ移住、ファーガスはキンタイア半島を征服してドゥナドを都とし、ローンはアーガイル地方を、オエンガスはジュラ島やアイラ島をそれぞれ征服して勢力下に置いたという。ファーガス大王死後、息子のドマンガルトが王位を継ぎ、ドマンガルトのあとをガブラーン 王が継いだ。これらの人物について実在していたか定かではないが、ガブラーン王から始まる家系であるケネル・ガブラーン(”Cenél nGabráin “ガブラーン家)と先のローンを祖とするケネル・ローン(”Cenél Loairn “ローン家)、オエンガスを祖とするケネル・ノエンガス(”Cenél nÓengusa “オエンガス家)の3つの家門が成立、これら三勢力の連合体としてダルリアダ王国が誕生し、後に、この三家にカワール半島とビュート島を勢力下としたガブラーンの弟コムガルから始まるケネル・コムガル(” Cenél Comgaill “コムガル家)が加えられた(6久保田義弘(2013)61-62頁)。
ダルリアダ王国の成立時期は定かではないが、七世紀後半にアイオナ修道院長アダムナーンが書いた「聖コルンバ伝”Vita Columbae”」によれば563年頃、聖コルンバがアイオナ修道院を創設したときにはすでにスコットランド西部にはゲール語を話す人びとが居住し、キリスト教徒の王がいたという(7常見信代(2017)32頁)。また、「アルスター年代記”The Annals of Ulster”」616年の条にはじめてダルリアダ王国の名が登場する(8常見信代(2017)32頁/The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts)。首都ドゥナドの発掘調査では同地は鉄器時代中期から山頂に小さな砦が築かれるなど人々の居住が始まり、四〜五世紀に築かれた小規模な砦が六世紀から七世紀にかけて拡張工事が行われ、八〜九世紀には大規模な囲いが築かれている。また七世紀半ばに大規模な金属加工場の操業が開始していることなどが判明している(9Historic Environment Scotland.(2004)’Dunadd Fort – Statement of Significance‘)
ダルリアダ王国の諸王について知る同時代の文献は存在せずいずれも後世の史料となるが、六世紀後半に登場したアイダーン王(在位574-608年、ガブラーンの子アイダーン”Áedán mac Gabráin”)の治世下で最盛期を迎えたとみられる。アイダーン王は、575年、聖コロンバの仲介でアルスターの最大勢力だった北イー・ネールと同盟を結び後顧の憂いを断つとバーニシア王国やピクト王国など周辺諸国を相次いで撃破し領土を拡大した。しかし、603年、デグサスタンの戦いでバーニシア王エセルフリスに破れてからは治世について記録が見えず、608年頃、74歳で亡くなった。
アイダーン王死後、後継者たちが争い、アイルランド方面での敗北も相次いだため弱体化し、637年、ドムナル・ブレック王(在位629-637年、”DomnallBrcc”)は北イー・ネールとの同盟を破棄して北イー・ネールと対立するウライド王国と結び、アイルランド北東部マグ・ラス(”Mag Rath”,現在の北アイルランド・ダウン州モイラ)で北イー・ネールと戦い敗北、程なくしてアイルランドのダルリアダ領を喪失した。その後、諸王の事績は詳しくわからないが、ピクト王国や統一ノーサンブリア王国を始めとする諸国の攻勢を受け、八世紀に入るとガブラーン家とローン家の王位継承をめぐる内紛も起きて衰退していった。
アルスター年代記によれば、736年、ピクト王オエンガス1世(在位732-761年)の侵攻を受けて敗北、首都ドゥナドを占領され、741年、ピクト王国に従属を余儀なくされた。以後、ダルリアダ王国はピクト王国の支配下となり、792年に亡くなったドンゴイルケ王(?-792年、”Donncoirce”)を最後にダルリアダ王の記録は途絶え、ピクト王がダルリアダ王を兼ねたとみられている(10久保田義弘(2013)71-72頁)
ピクト王国との統一
通説では、839年にヴァイキングの攻勢によってダルリアダの王族が多く戦死し、841年、ダルリアダの王族であったケネス・マカルピンが即位、843年、ケネス・マカルピンがピクト王国を征服してピクト王に即位しダルリアダ王国とピクト王国が統合されたという。しかし、近年の研究ではこのダルリアダ王国によるピクト王国征服説に対しては否定的で、ピクト王によるダルリアダ王国の支配は継続しており、839年にヴァイキングとの戦いで戦死した王族はピクト王国の王族で、ケネス・マカルピンはダルリアダ王には即位せずピクト王として即位したとする説が有力となっている。いずれにしろ、ピクト王国との合併によって独立国としてのダルリアダ王国は終わりを迎えた。
ピクト王国支配地域に対するスコット人の文化・言語の浸透はダルリアダ王国がピクト王国を支配した結果ではなく、長期的な融合の過程を経てゆっくりと浸透したものと見る説の方が強い。八世紀初め、ピクト王ブリデ3世の娘と結婚しピクト王ブリデ4世、ネフタン4世の父となった人物はダルリアダのコムガル家出身でコムガル家の領地もピクト王国ピクト王国のストラスアーンに近く、一族の一部がストラスアーンからファイフにかけて移住していたとみられ、古くから両王家の交流が行われていた(11常見信代(2017)37-38頁)。また、1995年、ピクト王国南部の中心都市でケネス・マカルピンが王宮を置いたと伝わるフォーティヴィオトの調査で石製のハイクロスに刻まれた碑文が解読され八世紀末のピクト王の名がゲール語で彫られていることが判明し、ゲール語話者であるスコット人たちのピクト王国への定住が進んでいることの傍証と考えられた(12常見信代(2017)41-42頁)。
十世紀末頃からアルバ王家(=スコットランド王家)は自らがケネス・マカルピンの末裔であり、ダルリアダ王家であるケネル・ガブラーンの王統出身であるとする文書を作成するようになり、十三世紀にはファーガス大王からさらにアイルランド歴代の王に結びつける詳細な系譜が整えられた。これは自らのルーツを歴史あるダルリアダ王家に結びつけることで王家を権威付けようとしたものとみられている(13常見信代(2017)43-44頁)。
参考文献
- 上野格/森ありさ/勝田俊輔(2018)『世界歴史大系 アイルランド史』山川出版社
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会
- ミチスン、ロザリンド(1998)『スコットランド史 その意義と可能性』未来社
- 久保田義弘(2013)「中世スコットランドのダル・リアダ王国―― ダル・リアダ王国の伝説と最盛期から衰退までの変遷 ――」(『札幌学院大学経済論集 6』59-82頁)
- 常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』25-52頁)
- Campbell, Ewan.(2001). “Were the Scots Irish?” in Antiquity No. 75 . pp. 285–292.)
- Historic Environment Scotland.(2004)’Dunadd Fort – Statement of Significance‘
- Dalriada | Britannica
- The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts
- Annals of Tigernach at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts