マンドゥブラキウス(Mandubracius)は紀元前一世紀半ば頃のブリテン島の部族トリノウァンテス族の王。カッシウェッラウヌスに圧迫され、ユリウス・カエサルの第二次ブリテン島侵攻(前54年)の際はカエサルに庇護を求めた。
生涯
ユリウス・カエサルの「ガリア戦記” De Bello Gallico”」によれば、カッシウェッラウヌスによって父王(1名前は不明だが、「ガリア戦記」のいくつかの写本には父王の名としてイマヌエンティウス(Imanuentius)やイマヌウェンティトゥス(Imanuventitus)等と書かれているものがある(カエサル(1994)『ガリア戦記』講談社、講談社学術文庫、200頁))が殺されたため、カエサルの下に逃れていた。紀元前54年に行われたユリウス・カエサルの第二次ブリテン島侵攻ではトリノウァンテス族の使節がカエサルにローマ軍によるトリノウァンテス領の防衛およびマンドゥブラキウスの帰国と即位を請願した。これに対しカエサルは人質40人を出すことと穀物の供出を命じるとともに、マンドゥブラキウスを送り返したという(2Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.20)。
マンドゥブラキウスが帰国したうえでトリノウァンテス族がローマ軍に守られたことで、周辺の部族がカエサルに降伏した(3Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.21)。のちに抵抗を続けていたカッシウェッラウヌスが降伏すると、カエサルはカッシウェッラウヌスに対してマンドゥブラキウス王とトリノウァンテス族に害を加えないよう厳命した(4Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.22)。
マンドゥブラキウスについては「ガリア戦記」のみにしか記述がなく、鉄器時代の諸部族の王のような貨幣もみつかっておらず考古学的な裏付けもないため、詳細は不明である。紀元前30年頃からトリノウァンテス族の領土にあたるエセックス州一帯を支配するようになったのがアッデドマルス(Addedomarus)という人物であることが出土した貨幣から明らかとなっており(5Addedomarus – Oxford Reference)、この時期、マンドゥブラキウス王は亡くなり王位はアッデドマルス王に移ったと考えられている。
中世以後の記録
五世紀初めにローマの聖職者パウルス・オロシウスによって著された「異教徒に反論する歴史七巻” Historiarum Adversum Paganos Libri VII”」では写本によってマンドゥブラギウス(Mandubragius) やアンドラゴリウス(Andragorius)の名で登場する(6Mary Jones(2007).” Mandubracius “)。ジェフリー・オブ・モンマス「ブリタニア列王史” Historia Regum Britanniae”」ではオロシウスの記述を踏まえたとみられるトリノヴァントゥム公アンドロゲウス(Androgeus)という人物が登場し、カッシウェッラウヌスがモデルのブリタニア王カッシベラウヌスと対立してユリウス・カエサルに助けを求め、後にカエサルに臣従する展開が描かれている(7Historia Regum Britanniae 3.19,4.1-10)。
参考文献
- カエサル(1994)『ガリア戦記』講談社、講談社学術文庫
- サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会
- ジェフリー・オヴ・モンマス(2007)『ブリタニア列王史 アーサー王ロマンス原拠の書』南雲堂フェニックス
- Addedomarus – Oxford Reference
- Mary Jones(2007).” Mandubracius “