「アーダーの聖杯(Ardagh Chalice)」は八世紀半ば頃に制作された、聖杯(Chalice)としてカトリック教会の典礼で使われたとみられる銀製の杯。1868年、アイルランド南西部リムリック県アーダーのじゃがいも畑で四つのブローチや銅杯と一緒に発見され、精巧な装飾が施された豪華な作りの聖杯であったことから、当時盛り上がりを見せていたケルト復興運動(Celtic Revival)のアイコンとして「タラ・ブローチ」「ケルズの書」などとともに注目された。島嶼芸術(Insular art)の代表的な工芸品として知られ、一緒で見つかった他の工芸品とともに「アーダー宝庫(Ardagh Hoard)」と呼ばれる。アイルランド国立博物館収蔵。
特徴
「アーダーの聖杯」は高さ17.8センチメートル(7インチ)、直径24センチメートル(9.5インチ)、深さ10センチメートル(4インチ)の大きさで、350以上の別々の部品からできている。両手で持つための二つの把手が付き、杯と基部は銀製で、両者を鋳造された青銅の脚が繋ぎ、この三つの部品が銅製のボルトで結合されている。
動物の形や渦巻きと抽象的な模様の繰り返しが組み合わされた金線細工(filigree)が帯部分を装飾し、青色や赤色のエナメルでセットされた装飾用の鋲が間隔を置いて配置されている。杯の外側には、表と裏に円形模様が装飾されている他、十一人の使徒と聖パウロのラテン語名が刻まれ、この字体は七世紀末から八世紀初め頃にノーサンブリア王国で作られた装飾写本「リンディスファーン福音書」の中の大きなイニシャルの一部と類似点があり、これらの特徴から聖杯は八世紀半ば頃に作られたとみられている。
聖杯(Chalice)はローマ・カトリック、東方正教会、ルター派等を始めとするキリスト教諸教派における聖餐の儀式で秘跡のワインを入れるために使われる容器で、初期教会の頃から使われ、中世ヨーロッパでは教会、修道院に欠かせない器具の一つとなっていた(1各教会・修道院の典礼で日常的に使われるチャリス(Chalice)の他、特にイエス・キリストが最後の晩餐で使用したと伝えられる杯はホーリー・チャリス(Holy Chalice)、中世ヨーロッパで語られた聖杯伝説に登場する奇蹟をもたらす魔法的な容器はホーリー・グレイル(Holy Grail)と呼ばれて区別されているが、日本語では全て「聖杯」の訳語があてられている。)。アーダーの聖杯はその豪華さから日常的にではなく特別な機会に使われたものと考えられている。製作地や保管・使用されていた場所等出自について様々に推測されているが不明である。
アーダー宝庫(Ardagh Hoard)
「アーダーの聖杯」が発見された際、一緒に四つのブローチと青銅の聖杯も見つかっておりこれらを合わせて「アーダー宝庫(Ardagh Hoard)」と呼ばれている。四つのブローチのうち一つは準環状ブローチ(penannular brooch)と呼ばれる形状で残りの三つは偽準環状ブローチ(pseudo-penannular brooch)と呼ばれる形状である。七世紀頃からスコットランドやアイルランドなどの地域で貴金属のピンの頭部にリングをつけた装飾されたブローチが作られるようになった。環に途切れのある円形のブローチを準環状ブローチと呼び、スコットランドでは準環状のままだったが、アイルランドでは九世紀頃までに輪の開口部を無くした「偽準環状」と呼ばれる形状が作られるようになった(2ラング、ロイド/ラング、ジェニファー(2008)『ケルトの芸術と文明』創元社、156頁)。発見されたブローチの制作年代の推定から、この宝庫は十世紀頃から本格化したヴァイキングの襲撃の際に襲撃者から貴重品を隠す目的であった可能性が高いと考えられている。またアーダーの聖杯が1125年にリムリックのデーン人によってクロンマクノイズ修道院から盗まれた貴重品のひとつであるとする説もある(3Snook, J. (2020). Ardagh Chalice. World History Encyclopedia)。一方で、真偽不明だが発見の二十年前に、近くで金の聖杯が発見され後に行方不明となったという当時の関係者の証言があり、このとき一緒に見つかった木製の十字架に描かれていた紋章などから1740年代頃と推測されたという(4The Ardagh Chalice,Ardagh-Carrickerry History)。いずれにしても証拠はなく推測の域を出ない。
発見と注目
「アーダーの聖杯」は1868年9月17日、アイルランド島南西部リムリック県アーダーのリーラスタ(Reerasta)近郊にある紀元前1000年頃のヒルフォート「アーダー・フォート(Ardagh Fort)」の南西部に広がるじゃがいも畑でジミー・クイン(Jimmy Quinn)とパディ・フラナガン(Paddy Flanagan)によって四つのブローチや銅製の杯などと一緒に発見された。この畑はジミー・クインの母クイン夫人がアイルランドで慈善活動を行う修道会”Sisters of Mercy”(5Sisters of Mercyは、1831年、アイルランドのダブリンで修道女キャサリン・マコーリー(Catherine McAuley,1778-1841)によって設立されたカトリック団体。現在、世界中で多くの教育施設や医療施設を設立・運営している。公式サイト”Congregation of the Sisters of Mercy“)から借りていた畑であったことから、クイン夫人はリムリック司教ジョージ・バトラー(George Butler)の求めに応じて50ポンドで売却、1878年、バトラー司教は100ポンド(500ポンドとも言われる)でロイヤル・アイルランド・アカデミーに売却し、1890年、アイルランド国立博物館の設立にあわせてロイヤル・アイルランド・アカデミーから移された。
発見当時、盛り上がりを見せていたケルト復興運動(Celtic Revival)の波に乗って「アーダーの聖杯」は大きな注目を集め、ケルト復興運動の象徴の一つとして人気となり、多くのレプリカが作られた。1928年、アーダーの聖杯の形状を模して全アイルランド・フットボール選手権優勝チームに贈られるサム・マグワイヤ・カップ(Sam Maguire Cup)が作られ、現在まで使われている。また、2007年には全アイルランド・シニア・カモギー(6Camogie=女性が行うハーリング(Hurling)競技のこと)選手権優勝トロフィーのオダフィー・カップ(O’Duffy Cup)がアーダーの聖杯をモデルとして作られた。また、1950年代から繰り返しアイルランド各地を巡回して展示され、アイルランドを代表する工芸品としての地位を築いている。
参考文献
- 木村正俊/松村賢一(2017)『ケルト文化事典』東京堂出版
- ラング、ロイド/ラング、ジェニファー(2008)『ケルトの芸術と文明』創元社
- Snook, J. (2020). Ardagh Chalice. World History Encyclopedia.
- The Ardagh Chalice. National Museum of Ireland.
- The Ardagh Chalice. JSTOR.