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人物

キュネギリス(ウェセックス王)

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キュネギリス(Cynegils)は七世紀初頭のウェスト・サクソン(ゲウィッセ)の王(在位611-642年頃?)。626年から636年の間息子または弟のクウィッチェルムと共同王であったとみられる。キリスト教へ改宗した最初のウェセックス王で、宣教師ビリヌスをドーチェスター・オン・テムズ司教に任命した。ノーサンブリアのエドウィン王やマーシア王国ペンダ王の勢力に圧迫され、ノーサンブリアのオスワルド王に従属した。

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キュネギリスの即位

キュネギリスは前王チェオルウルフ死後の611年、ウェセックス王に即位した。キュネギリスの系譜について前王チェオルウルフの兄弟である前々王チェオルの子とするのが通説だが、「アングロ・サクソン年代記」(九世紀末)の611年の条ではチェオルの子とするが(1大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、34頁)、同じ「アングロ・サクソン年代記」の688年の条ではチェウリン王の子クズウィネの子であるとする(2大沢一雄(2012)55頁)など、史料間で混乱があるため定かではない(3ENGLAND, ANGLO-SAXON & DANISH KINGS)。

アングロ・サクソン年代記」やベーダの「アングル人の教会史」(731年)などの文献にはキュネギリス王と同時期にクウィッチェルムという名のウェスト・サクソンの王が登場する。「アングロ・サクソン年代記」の648年の条によればクウィッチェルムはキュネギリス王の子であるという(4大沢一雄(2012)39頁)。一方、十二世紀イングランドの歴史家マームズベリーのウィリアムはキュネギリスとクウィッチェルムが兄弟で共同で王となったという(5Giles, J. A.(1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,LONDON:HENRY G. BOHN, YORK STREET, COVENT GARDEN.M.DCCC.XLVII.CHAP.II.)。二人の関係について親子か兄弟かは定かではないが、息子とみる説が通説で、共同で王となっていたと考えられている。

治世前半の危機

アングロ・サクソン年代記」の614年の条によると、この年、キュネギリスとクウィッチェルムはベアンダン(古英語:Beandune)という場所でブリトン人2065人を殺害したという。ベアンダンは現在のオックスフォードシャー・バンプトンとする説が有力で、侵攻してきたブリトン人をここで撃退し大きな損害を与えたと考えられている。しかし、ベアンダンをバンプトンに比定するのは根拠に欠くため確かではないともされている(6“The identification of Bampton with Beandun, where Cynegils allegedly defeated over 2,000 Britons in 614, lacks evidence.”(A P Baggs, Eleanor Chance, Christina Colvin, C J Day, Nesta Selwyn and S C Townley,(1996) ‘Bampton and Weald: Introduction’, in A History of the County of Oxford: Volume 13, Bampton Hundred (Part One), ed. Alan Crossley and C R J Currie , pp. 8-17. British History Online.))。

626年、クウィッチェルム王がノーサンブリアのエドウィン王を暗殺するためエオメルという刺客を送ったが殺害に失敗、年内にエドウィン王は報復のためにウェセックス王国へ侵攻した。「アングル人の教会史」によれば「エドウィンは刺客から蒙った傷も癒え、軍を編成して西サクソン人の国へ侵攻し、戦いを始めるとただちに自分の生命の抹殺を共謀した者全部を糾弾し、あるいは惨殺し、あるいは降伏させた」(7高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、92頁)という。

ノーサンブリア地方を統一してブリテン島に覇権を確立したエドウィン王はこの事件の前年の625年にはケント王国の王女を妃に迎え、ウェセックス王国は北と東から脅威を受けるようになった。この圧力への抵抗として起こした暗殺未遂事件だったが失敗に終わり大きな損害を受けた。628年には当時エドウィン王に従属していたとみられるマーシア王ペンダとサイレンセスターで戦うが敗北、講和している。

キリスト教への改宗

「キュネギリス王の洗礼」(イーストハムステッドの聖ミカエルとマグダラの聖マリア教会のステンドグラス、トマス・デニー作、2013年)
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「キュネギリス王の洗礼」(イーストハムステッドの聖ミカエルとマグダラの聖マリア教会のステンドグラス、トマス・デニー作、2013年)
‘Baptism Of Cynegils’.at St Michael and St Mary Magdalene’s Church, Easthampstead,
Credit: Tim.sneller, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

633年、エドウィン王がグウィネズ王カドワソンとマーシア王ペンダの連合軍によって滅ぼされると、エドウィン王によって追放されていた前バーニシア王エセルフリスの子オスワルドが帰国、グウィネズ王カドワソンを滅ぼしてノーサンブリア地方を再統一するとブリテン島全土に覇権を確立した。このようなノーサンブリアのオスワルド王の覇権への従属を象徴する出来事がキュネギリス王の改宗であった。

634年、ローマ教皇ホノリウス1世によってウェセックス王国へのキリスト教布教を命じられた司祭ビリヌスがブリテン島へ上陸しウェセックス王国で宣教を開始する。翌635年、キュネギリス王はビリヌスの宣教を受け入れてキリスト教の洗礼を受けることになった。このとき、キュネギリス王の娘を妻としたノーサンブリアのオスワルド王を代父として洗礼式が行われ、洗礼式が終わるとビリヌスはオスワルド王とキュネギリス王の二人によってウェセックス王国の中心都市であるドーチェスター・オン・テムズに司教座と居住地が与えられたという(8高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、122-123頁)。

ウェセックス王国は、近年のアングロ・サクソン系墓地の発掘・分析を中心とした考古学的な調査結果では、六世紀後半から七世紀前半にかけて、より内陸に入ったオックスフォードシャー南部のローマ時代の都市ドーチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames)を中心としたテムズ川上流域に誕生したとみる説が有力で(9Hamerow, H. , Ferguson, C., Naylor, J. (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69./ Hamerow, H., Ferguson, C. ,Naylor, J. , Harrison, J.,McBride, A. ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.)、キュネギリス王時代ドーチェスター・オン・テムズに王宮が置かれ、ビリヌスは近郊のチャーン・ノブ(Churn Knob)という円形塚で説教を行っていたと伝わる(10St Birinus Pilgrimage in a Day – The British Pilgrimage Trust)。

娘を嫁がせた上で自らの洗礼式で代父となってもらい、さらに当時の首都であるドーチェスター・オン・テムズに司教座を置くことを二人で許可するという一連の過程はノーサンブリアのオスワルド王の覇権に対するキュネギリス王の従属を示すものとして理解されている(11チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、174頁/Hunt, William.(1885)’Cynegils‘.Dictionary of National Biography, 1885-1900, Volume 13.)。

死と継承

636年、共治王だったクウィッチェルムが死去して単独の王となる。以後キュネギリス王の事績は不明で、「アングロ・サクソン年代記」は息子のチェンワルフの王位継承を641年とする写本と643年とする写本が混在しており(12ENGLAND, ANGLO-SAXON & DANISH KINGS)、642年頃に亡くなったとみられている。キュネギリス王の遺骨はウィンチェスター大聖堂霊安室の歴代ウェセックス王家の櫃に納められていると伝わるが特定されていない(13The riddle of Winchester Cathedral’s skeletons. BBC News. 18 May 2019.)。

キュネギリス王の死と同時期の642年、マーシア王ペンダによってオスワルド王が殺害されると、マーシア王ペンダがアングロ・サクソン諸王国に対し覇権を確立した。645年、チェンワルフ王はペンダ王によって追放され、一時マーシア王国に併合される。648年、チェンワルフはペンダ王の支配からウェセックス王国を解放してウェセックス王に再登位するが引き続きマーシア王国ノーサンブリア王国の覇権争いの影響を受け続けた。ウェセックス王国の躍進は七世紀末から八世紀前半にかけてのカドワラ王、イネ王の治世を待たねばならない。

参考文献

脚注

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