ノーサンブリアのオスワルド(バーニシアとデイラの王)

スポンサーリンク

オスワルド(またはオズワルド、英語:Oswald, 604年頃生-641または642年8月5日没)は七世紀始め、ノーサンブリア地方一帯を支配した君主。604年頃、バーニシア王国エセルフリス王の子として生まれたが、616年または617年、アイドル川の戦いで父エセルフリスが戦死、デイラ王に即位したエドウィン王によってバーニシア王国が征服されたため弟オスウィウとともにアイオナ修道院に逃れた。634年、エドウィン王死後ノーサンブリア地方を寇掠していたグウィネズ王カドワソンをヘブンフィールドの戦いで撃破、バーニシア王に即位し、さらにデイラ王国を始め周辺諸国も相次いで支配下に置き、ブリテン島の広い地域にブレトワルダとして覇権を確立した。641年または642年8月5日、マーサフェルスの戦いでマーシア王国軍に敗れ戦死。死後、殉教者として聖人崇拝の対象となった。聖名祝日は8月5日。

スポンサーリンク

亡命生活

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより

「700年頃の<a href=

ノーサンブリア王国地図」” width=”973″ height=”981″ class=”size-full wp-image-23283″ /> 「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

オスワルドは604年頃、バーニシア王エセルフリスの子として生まれた。母はデイラ王エッレの娘アッカ、8人の兄弟姉妹がおりバーニシア王エアンフリス(在位633-634年)は兄、ノーサンブリア王オスウィウ(在位642-670年)は弟。

六世紀後半、後のノーサンブリア王国にあたるイングランド北東部は移住してきたアングル人がブリトン人諸王国を駆逐して勢力を拡大、ティーズ川を境にして南にヨークを中心としたデイラ王国、北にバンバラを中心としたバーニシア王国が成立した。エルメット王国、フレゲッド(リージッド)王国、ストラスクライド王国、グウィネズ王国などのブリトン人諸王国、スコットランドのピクト王国ダルリアダ王国などと勢力争いを繰り広げていたがバーニシア王国エセルフリス王が即位すると急速に勢力を拡大してオスワルドが生まれた604年頃、デイラ王国を征服してノーサンブリア地方に統一王権を樹立した。

しかしエセルフリス王の覇権は長くは続かず、616年または617年、亡命していたデイラ王国の王子エドウィンを支援したブリテン島南部のイースト・アングリア王国アイドル川の戦いでバーニシア軍を撃破、エセルフリス王も戦死し、イースト・アングリア王レドワルドの支援を受けたエドウィンデイラ王国に帰還して即位しすぐにバーニシア王国を征服した。このとき、オスワルドは弟オスウィウとともにバーニシア王国を脱出、ヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院に逃れた。エドウィン王の体制が崩壊する633年まで同地で過ごし、この間にキリスト教へ改宗したという。

覇権確立

「英国イーストボーンの聖救世主教会のオスワルド王のステンドグラス」

「英国イーストボーンの聖救世主教会のオスワルド王のステンドグラス」
Credit: Fr James Bradley from Southampton, UK, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons


バーニシア王国を征服してノーサンブリアを支配下に置いたエドウィン王はイースト・アングリア王レドワルド死後、イングランドの大半を従属させてブレトワルダとして覇権を確立した。しかし、633年、カドワソン王率いるウェールズのグウィネズ王国とペンダ王率いるイングランド中部のマーシア王国が連合してエドウィン王に挑戦、10月12日、エドウィン王はハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ=マーシア連合軍に敗れ、戦死した。勝利の勢いに乗ってカドワソン王はノーサンブリア各地を寇掠、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位し、バーニシア王にはオスワルドの兄エアンフリスが即位して両国の統一体制は崩壊した。しかし、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちにあって殺害される。

634年、オスワルドは兄王エアンフリスの死を受けて少数の兵力を率いてバーニシア王国へ帰国、現在のノーサンバーランド州ヘクサム近郊ヘブンフィールドと呼ばれた地でカドワソン王率いるグウィネズ軍と対戦、カドワソンを撃破して殺害した。オスワルドは戦いの前に十字架を立てて神に祈りを捧げた。十字架を設置する際、オスワルド手づから掘られた穴に十字架を押し入れ従者たちが土を盛って固定されるまで支え、十字架の設置が終わるとオスワルドは以下のように叫んで全軍を鼓舞したという。

『さあ、わたしたちは全員ひざを折って、全能の主、生きた真の神が慈悲をもって、高慢で獰猛な敵からわたしたちを護ってくださるよう祈りを捧げようではないか。わたしたちが住民の安全のために、正義の戦いをおこなっていることを主はご存知だからである』(1高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、114頁

戦いに勝利したオスワルドはバーニシア王に即位するとともにデイラ王国も支配下に置きノーサンブリア地方を再統一して秩序の回復に努めた。

キリスト教信仰

オスワルドは即位してすぐにダルリアダ王国へ司教の派遣を依頼しアイオナ修道院の修道士エイダンを招聘した。オスワルド王はエイダンのためにリンディスファーン島に修道院を築かせて司教座を与え、ノーサンブリアへのキリスト教布教に当たらせた。有力者への宣教に際してエイダンの使う古アイルランド語と現地で使われる古英語(ノーサンブリア方言)の両方に通じたオスワルド王自ら通訳を務めたという。ノーサンブリア各地に教会が造られ、キリスト教への改宗が進んだ。

ベーダアングル人の教会史」(731年)によればノーサンブリアに統一王権を築いたオスワルドはブレトワルダとしてブリテン島に宗主権を確立したという。「四つの言語、すなわち、ブリトン人、ピクト人、スコット人、アングル人のそれぞれの言語に分かれていたブリタニアのすべての国と国民が彼の権威のもとに服従した」(2高橋博(2008)120頁)とベーダは書いているが、史料の限界からその統治の実体や勢力範囲については明らかでない。同じくベーダによればオスワルド死後、遺体はリンジー王国のバードニー修道院に納められたが、オスワルドがリンジー王国を「支配下において王位を継承したため」であるという(3高橋博(2008)132頁)。

また、オスワルド王の影響下でウェセックス王国のキリスト教化が進められている。オスワルド王はウェセックス王キュネギリス(在位611-642年頃)の娘を妃とした上で、635年、キュネギリス王がキリスト教へ改宗しオスワルド王臨席の上で洗礼式が行われ(4高橋博(2008)122頁)、オスワルド王の上級支配権の下ウェセックス王国との同盟が結ばれた。他「アルスター年代記」の638年の条には残されたゴドジン王国の本拠地だったエディンバラが征服されており、これがオスワルドによるものとみられる(5The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts.,Year U638./Grout, James.”Y Gododdin“,Encyclopaedia Romana.)。

ベーダは「アングル人の教会史」でオスワルド王を敬虔な特の高い聖王とし、王にまつわる様々な奇蹟譚とともにその治世をキリスト教への信仰が広がった理想的な時代として描いている。

『それというのも、現世の統治権を保持しているときにも、王は永遠の国を求めて神を信じ、神を祝福するのをつねとしていたからである。王をよく知っていた者たちによれば、彼は早晩祈祷の時から、日中まで祈りを捧げ、倦むことを知らなかったという。そして、この祈りの習慣のためにどこに座しても習慣的に両手を膝の上におき、掌を上方にかざして絶えず神の恩寵を感謝していたという。』(6高橋博(2008)136頁

死とその後

641年または642年、オスワルド王の覇権に対し、マーシア王ペンダがエドウィン王を倒して以来九年ぶりに戦いを挑んだ。ペンダ王が戦端を開くこととなった経緯や理由は不明だが、641年または642年の8月5日、マーシア軍とノーサンブリア軍は現在のシュロップシャー州オスウェストリーと推測されているマーサフェルスで会戦に及び、マーシア軍が勝利を収め、オスワルド王は戦死した。最期の瞬間は敵に囲まれ自身の死を察して味方の軍勢のために祈りを捧げながら殺されたという。その後、遺体はリンジー王国のバードニー修道院に運ばれ、ペンダ王の命で手と腕を切り離して柱にぶら下げて晒された。

オスワルド王死後、バーニシア王にはオスワルドの弟オスウィウが即位し、デイラ王には前のデイラ王オスリックの子オスウィネが即位して統一体制は崩れることとなった。デイラ王国はオスウィネ王の下安定した統治を実現するもののバーニシア王国と対立、651年、デイラ王オスウィネが殺害される。655年、ペンダ王は大軍を率いてバーニシア王国へ侵攻したがオスウィウ王は圧倒的劣勢を跳ね返してペンダ王を倒し(ウィンウェドの戦い)、バーニシア王国デイラ王国を統一して初代ノーサンブリア王に即位、ノーサンブリア王国が建国され、ようやく混乱が鎮められた。

死後、オスワルドは殉教者としてブリテン島で崇拝されるようになり、多くの奇蹟譚が語られ彼の遺物も聖遺物として扱われた。オスワルド王の死の翌年、オスウィウ王は軍勢を率いてリンジー王国に入りバードニー修道院で晒されていたオスワルド王の手と腕を外させ、首はリンディスファーン修道院へ、手と腕はバンバラへ運ばせて丁重に葬られた。また、疫病が蔓延したときにオスワルド王の聖遺物を分けてくれるよう願い出た司教がいた、熱病に罹った少年がバードニー修道院のオスワルド王の墓で休むと病が癒やされた、オスワルドが亡くなった場所で苦しむ馬が恢復した、といった聖遺物や奇蹟にまつわるエピソードも多く語られた。

参考文献

脚注

  • 1
    高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、114頁
  • 2
    高橋博(2008)120頁
  • 3
    高橋博(2008)132頁
  • 4
    高橋博(2008)122頁
  • 5
    The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts.,Year U638./Grout, James.”Y Gododdin“,Encyclopaedia Romana.
  • 6
    高橋博(2008)136頁