イースト・アングリア王国

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イースト・アングリア王国(Kingdom of East Anglia)はブリテン島東部、現在のノーフォーク州とサフォーク州を併せた領域に六世紀から九世紀にかけて存在した七王国時代のアングル人の王国。初期の歴史は不明だが四代目の王とされるレドワルド王(在位599年頃-624年頃)の頃に強盛となった。八世紀に入ると台頭したマーシア王国に服属、794年、王統が絶えてマーシア王の直接統治下となり、825年、ウェセックス王国の従属国として復興したが、870年代、デーン人の侵攻で滅亡した。七世紀前半の「サットン・フーの船葬墓」が著名。王宮が置かれたレンドルシャム(Rendlæsham)や交易で栄えたイプスウィッチ(Ipswich)などが中心の都市となった。

「イースト・アングリア王国」

「イースト・アングリア王国」
Credit: Amitchell125., CC BY-SA 1.0 , via Wikimedia Commons

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歴史

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

ベーダは著作「アングル人の教会史」でサクソン人、ジュート人とともにユトランド半島の付け根にあたるアンゲルン(現在のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン)から来た集団であるとしてアングル人の名を挙げた(1高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫、39頁)。アングル人はノーサンブリア王国、マーシア王国、イースト・アングリア王国などを建てたという。イースト・アングリア王国があったブリテン島東部への大陸からの移住は五世紀半ばから始まり七世紀頃まで続いた。これは同時期にブリテン島東部・東南部一帯にアングロ・サクソン系墓地が広く分布していることや発掘された品々から明らかで、例えば「イングランドにおけるアングル人の領域では、スカンディナヴィア的要素やザクセン的要素が、アングル的な『小ぶりで細長い』ブローチや陶器の様式と同じように重要だったことが判明して」(2ハインズ、ジョン「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、115頁))いる。

イースト・アングリア王国の六世紀末までの歴史は不明で、ベーダ「アングル人の教会史」他複数の記録によると、ウォーデン(北欧神話の主神オーディン)の末裔ウェッハ(Wehha)がイースト・アングリア王国の最初の王であったといい、二代目とされるウッファ(Wuffa)王の名にちなみ、イースト・アングリアの王のことはウッフィンガス(Wuffingas)と呼ばれていたという(3ベーダ「アングル人の教会史」(高橋博 訳(2008)104頁)、ネンニウス「ブリトン人の歴史」59章(伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、54-55頁)など)。ここからイースト・アングリア王国の初期王朝はウッフィンガス朝(六世紀-749年)と呼ばれる。

ケント王国に従属したがケント王エゼルベルフト死後に独立したレドワルド王(Rædwald 在位599頃–624頃)の治世下で強盛となった。その契機となったのがバーニシア王国の侵攻から逃れたディアラ王国の王族エドウィン(後の初代ノーサンブリア王)を庇護して、616または617年、アイドル河畔の戦いでバーニシア軍を撃破、エドウィンの復権を助けたことである。以後、レドワルド王はブレトワルダとしてイングランドに覇権を確立した。

レドワルド王死後、七世紀半ばになるとイングランド北部にノーサンブリア王国、イングランド中部にマーシア王国、イングランド南西部にウェセックス王国が相次いで台頭し、イースト・アングリア王国は衰退を余儀なくされた。特にイースト・アングリア王国の西部に出現したマーシア王国の侵攻は激しく、歴代の王の多くがマーシアとの戦いあるいはマーシアが関わる戦闘の中で戦死している。749年、ウッフィンガス朝最後の王エルフワルド王死後三人の王に分割相続されたと言われるが794年に出自不明のイースト・アングリア王エゼルベルフト2世(Æthelberht II、在位779?-794年)がマーシア王オファに殺害されるまで記録がほぼ途絶えているため詳細がわからない。

794年、エゼルベルフト2世がマーシア王オファによって殺害されると、マーシア王家による直接統治時代が始まる。825年、ウェセックス王エグバートがエランドンの戦いでマーシア王国を撃破したのと同じ年、イースト・アングリア王国でマーシア王国の支配に対して反乱が勃発し、マーシア王家に変わり、出自は不明だがアゼルスタンという名の新たなイースト・アングリア王が立てられた。以後、イースト・アングリア王国は独立を維持するためウェセックス王国に従属したとみられる。

八世紀末から始まるヴァイキングの活動は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、ヴァイキング勢力はハーフダン・ラグナルソンら複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、通称「大軍勢(4“The Great Army”古英語”micel here”/または大異教徒軍”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」として活動を開始する。865年、「大軍勢」はイースト・アングリア王国へ大規模な襲撃を行い、その後北上してヨークを占領、869年から再びイースト・アングリア王国へ侵攻し、869年冬から870年にかけての時期にホクスンの戦いでイースト・アングリア王エドマンド(5エドマンド殉教王、後に列聖され中世イングランド王家の守護聖人の一人となった)は戦死し、イースト・アングリア王国全土がデーン人の支配下となった。879年、ウェセックス王アルフレッドとデーン人指導者ガスルムの間で結ばれた和平条約で旧イースト・アングリア王国全土を含む広い領域がデーンローに統合されたことでイースト・アングリア王国は終焉を迎えた。

「879年、デーンロー成立時のイングランド」

「879年、デーンロー成立時のイングランド」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

 「ウィルトンの二連祭壇画(左)」(1395年、 National Gallery, London. )

「ウィルトンの二連祭壇画(左)」(1395年、 National Gallery, London. )
手前がリチャード2世、奥左がエドマンド殉教王、中央がエドワード証聖王、右が聖ヨハネ
Credit:National Gallery, Public domain, via Wikimedia Commons

サットン・フーの船葬墓

「1939年、サットン・フー船葬墓遺跡発掘中の様子」

「1939年、サットン・フー船葬墓遺跡発掘中の様子」(サットン・フーを発掘した考古学者の一人チャールズ・フィリップスの兄弟H.J.フィリップスが撮影した動画からのキャプチャ画像)
Credit: Harold John Phillips, Public domain, via Wikimedia Commons

サットン・フーは1939年に発見された櫂船型の墓で全長二十九メートル、最大幅四・二五メートルに及び、金で装飾された剣や盾、銀をはめ込んだフルフェイスの兜といった副葬品など多数の出土品で知られ、遺体は発見されていないがイースト・アングリア王レドワルドの墓とするのが有力で、アンナ(在位?~654)またはエゼルヘレ(在位654~655)ともいわれる。出土品からフランク王国やスカンディナヴィア半島、地中海地域など広く交流があったことが判明している(6青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、92頁/桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、80-85頁)。

サットン・フーの遺跡で発見された兜のレプリカ(大英博物館収蔵)

サットン・フーの遺跡で発見された兜のレプリカ(大英博物館収蔵)
Public domain, via Wikimedia Commons

サットン・フーの出土品で有名なのが「サットン・フーのヘルメット」の名で知られるアングロ・サクソン時代の兜である。鉄と錫引き銅の合金製のヘルメットで、合金の板には動物のインターレースや、2枚の板に描かれた「踊る戦士」と「倒れる戦士」と呼ばれる戦士のモチーフなど、さまざまな模様が刻印されている。1939年に発見され1970年代の修復で現在の形になった(7The Sutton Hoo Helmet, British Museum.)。

参考文献

脚注

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