バーニシア王国(Kingdom of Bernicia)は六世紀後半に誕生した、現在のイングランド北東部のノーサンバーランド州・ダラム州・ベリックシャー州とスコットランド南東部イースト・ロージアンにあたるフォース川からティーズ川にかけての一帯を領土としたアングル人の王国。エセルフリス王(在位593-616/617年)の頃に急成長してブリトン人諸王国を次々服従させ、ティーズ川の南に隣接する同じアングル人のデイラ王国を征服するが、アイドル川の戦いでエセルフリス王が死ぬとデイラ王エドウィンに征服される。エセルフリス王の子オスワルド王、オスウィウ王の頃に再度デイラ王国を支配下に置いてノーサンブリア地方を統一、七世紀後半、ノーサンブリア王国へ発展した。
バーニシア王国の建国
バーニシア(Bernicia)の名前はローマ帝国の支配が終了した直後の五世紀から六世紀にかけての時期に存在したとみられるブリトン人の王国”Bernaccia”に由来すると見られ(1Kingdoms of the Anglo-Saxons – Bernicia. The History Files.)、ペナイン山脈北部とチェヴィオット(Cheviot)丘陵を横切る渓谷地帯を指す「峠の地」を意味すると考えられている(2Henson, Donald.(2008).The early kings of Bernicia. Academia.Edu.)。周辺に入植したアングル人がこの名前を受け継いでバーニシアと称するようになったのではないかと考えられているが、語源についてはまだ諸説があり定まっていない。
ローマ軍撤退後、この地域にはゴドジン(Gododdin)王国、フレゲッド(リージッド”Rheged”)王国などのブリトン人王国が登場したが、入植してきたアングル人によって六世紀後半から七世紀始めにかけての時期にバンバラ(Bamburgh)やリンディスファーン島を中心としてバーニシア王国が成立したとみられている。「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」によればバドン山(モンス・バドニクス)の戦いでブリトン人に敗北したサクソン人はゲルマニアへ援軍を求め、イーダ王がバーニシア王国の初代王となるまで移住が続いたという(3瀬谷幸男(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、52頁)。「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」の歴史観ではバーニシア王国の建国が「ギルダスの平和」と呼ばれるブリトン人の優位時代の終焉とアングロ・サクソン時代の幕開けとして位置づけられている。
バーニシア王国の建国時期について、九世紀末に編纂された「アングロ・サクソン年代記」はイーダ王の即位を547年としてこれが現在でも通説となっているが、イーダ王の孫エセルフリス王がイースト・アングリア王国と戦い戦死したアイドル川の戦いが行われた616年を基準に歴代バーニシア王の在位期間を遡って当てはめていく方法で導き出されている。これに対し近年では558年とする説(4Kirby, D. P. (1963).’Bede and Northumbrian chronology’, English Historical Review 78, 514-27.(Henson(2008)))が出されるなど「アングロ・サクソン年代記」にある年代は批判的に見られており、Henson(2008)は初期のバーニシア王家について再考し、イーダ王の即位は通説より遅く575年頃でイーダ王死後三人の子供たちが順に即位したのではなくバーニシア王国を三分割し、エセルフリスはそれぞれの王国を603年頃までに再統一したとした(5Henson(2008))。
五世紀半ばから六世紀後半の時期のアングロ・サクソン系の人々の移住を示す墓地の遺跡の分布はイングランド南部・南東部に偏っておりイングランド北東部にはほとんど残されておらず(6ハインズ、ジョン(2010)「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、117頁))、考古学的記録に残るアングル人の埋葬が発見されるのは七世紀前半のこととなるため(7Henson(2008))、バーニシア王国の成立について考古学的な裏付けを取ることは難しく、七世紀前半からアングル人の墓地遺跡が多く見られるようになる点で六世紀後半、570年代半ばより以前には遡らないと見られている(8“It seems at least reasonable to suggest that the traditional date of 547 for Ida’s arrival as king cannot be sustained. The beginning of Anglian rule in Bernicia should belong to 575, or very near that date.”,”Archaeologists have recognised rich burials appearing in the late sixth and early seventh centuries as representing the emergence of kingly lineages and kingdoms; something quite new and separate from original Anglo-Saxon settlement, or Germanic acculturation of Britons. Evidence for pagan Germanic settlement or culture before kingdom foundation is somewhat scarce in the area that would become Bernicia.”(Henson(2008)))。
勢力の拡大と周辺諸国との対立
「ブリトン人の歴史」63章によれば、バーニシア王フッサ(9フッサ王ではなくセオドリック王の可能性がある(Henson(2008)))とフレゲッド王イリエーン、ストラスクライド王フラゼルヒ・ハウェル(Rhydderch Hael)、エルメット王グワソグ・アプ・スリイノグ(Gwallog ap Lleenog)、ブリトン人の王モルカント・ビルク(Morcant Bulc)ら四人のブリトン人の王が戦ったという。またフレゲッド王国のイリエーン王とオワイン王の二代に仕えた詩人タリエシンが詠んだ詩篇と言われる作品群には「フラムズィン(Fflamddwyn,火炎運び人)」の異名で呼ばれる指揮官率いるバーニシア王国軍とオワイン王率いるフレゲッド王国軍が戦い、フラムズィンを倒してフレゲッド軍が勝利し一時の平和をもたらした逸話が詠われている。
バーニシア王国はイーダ王の孫エセルフリス王によって大きく勢力を拡大することに成功した。593年頃に即位したエセルフリス王は600年頃、カトラエスの戦いでブリトン人のゴドジン王国の戦士300人を壊滅させてゴドジン王国の領土の大半を併合、六世紀末までにフレゲッド王国も併合したとみられ、バーニシア王国の地盤を固めた。603年頃、エセルフリス王に対し、ダルリアダ王国のアイダーン王(在位574-608年、ガブラーンの子アイダーン”Áedán mac Gabráin”)が強力な大軍を率いて戦いを挑み、バーニシア軍は王弟セオドバルドが戦死するなど大きな損害を受けつつもダルリアダ軍に勝利し、アイダーン王は少数の生き残った配下とともに敗走を余儀なくされた(デグサスタンの戦い(Battle of Degsastan))。
ティーズ川の南には六世紀後半にバーニシア王国から分かれて独立したアングル人のデイラ王国が建てられていたが、エセルフリス王は590年以前にデイラ王エッレ(Ælle、またはエッラ”Ælla”)の娘アッカ(Acha)を王妃に迎えて関係強化に努め、604年または605年頃、デイラ王位の獲得に成功する。この経緯は明らかではないが、エセルフリス王によるデイラ王権の掌握にともない、エッレ王の子エドウィンら王族が国外に逃れており、力による征服であったとみられる。これによって後のノーサンブリア王国にあたるイングランド北東部を初めて支配下に置くこととなった。
エセルフリス王によるバーニシア王国のイングランド北東部支配は616年または617年、アイドル川の戦いでエセルフリス王が戦死することで終焉した。亡命していたデイラの王子エドウィンは616年頃イースト・アングリア王国のレドワルド王(在位599頃–624頃)に保護を求め、これを知ったエセルフリス王はエドウィンの殺害または引き渡しを求めるがレドワルド王は従う振りをして迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、激しい戦いの末に戦死し、彼の死にともないバーニシア王国の支配体制も崩壊した。
復権したエドウィンはデイラ王に即位するとともにバーニシア王国も征服、周辺諸国も相次いで支配下に置き、ブレトワルダとしてブリテン島の広い範囲に覇権を確立した。しかし、633年、エドウィン王はハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ王国とマーシア王国の連合軍に敗れ戦死、デイラ王国によるバーニシア王国支配も終焉を迎えた。
バーニシア王国からノーサンブリア王国へ
エドウィン王を滅ぼした勢いのままにグウィネズ王カドワソンはバーニシア王国を寇掠してまわった。ピクト王国へ亡命していたエセルフリス王の長男エアンフリスが新たにバーニシア王に即位し、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位したことで両国の統一体制は崩れたが、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちにあって殺害された。ダルリアダ王国へ亡命していたエセルフリス王の次男オスワルドが少数の軍で帰国、ヘブンフィールドの戦いでカドワソンを倒しバーニシア王に即位するとともにデイラ王国も支配下に置きノーサンブリア地方を再統一して秩序の回復に努めた。
王弟オスワルドは弟オスウィウとフレゲッド王国の王族リアンメルト(Rhianmellt/ウェールズ語:フリアンメスト)を結婚させてブリトン人の支持を取り付けたり、ダルリアダ王国のアイオナ修道院から高名な司祭エイダンを招聘してキリスト教化を進めつつ、638年、残されたゴドジン王国の本拠地だったエディンバラを征服してノーサンブリア地方の平定に努めた。ノーサンブリアに統一王権を築いたオスワルドはブレトワルダとしてブリテン島に宗主権を確立した。エドウィン王に続きオスワルド王もブレトワルダとなったことで、ノーサンブリア地方に統一王権を築くことがブリテン島全体の覇権に直結するようになった。
641年または642年、オスワルド王の覇権に対しマーシア王ペンダが戦いを挑み、8月5日、マーサフェルスの戦いでオスワルド王が戦死、後を継いで弟オスウィウがバーニシア王に即位したが、644年頃、前のデイラ王オスリックの子オスウィネ(Oswine,またはオズウィン)がデイラ王に即位して統一体制が崩れることとなった。即位後オスウィウはエドウィン王の娘エアンフレダを妻に迎え、再独立したデイラ王国を牽制しつつ、ケント王国など諸外国との関係強化に努めた。
651年、マーシア王ペンダがバーニシア王国領土の奥深くまで侵攻、同年、オスウィウ王はデイラ王オスウィネに対して大軍を準備して戦端を開くが、オスウィネ王が戦いを回避し、のちに家臣の裏切りで暗殺されたことでマーシア王国との間で和平の機運が高まり、ペンダ王の子ペアダとオスウィウ王の娘との結婚が約束されるなど関係改善が進むかに見えた。オスウィウ王はデイラ王オスウィネ死後、デイラ王に兄オスワルドの子アセルワルド(Œthelwald,在位651-655年)を即位させた。オスウィネ王の死によってデイラ王家の直系は絶え、バーニシア王家がデイラ王位を継ぐようになる。しかし、アセルワルド王はマーシア王ペンダと同盟してオスウィウ王と対立した。
655年、ペンダ王は周辺諸国からも軍を動員しグウィネズ王国やイースト・アングリア王国などの同盟軍を含む30人もの将軍を引き連れた大軍勢でバーニシア王国へ侵攻する。勝ち目が薄いと考えたオスウィウ王は多額の貢物や財産と息子エッジフリスを人質として送るなど恭順の意思を示したが、ペンダ王は侵攻を止めなかったため、追い詰められたオスウィウ王は少数の兵で一戦することを決断する。655年11月15日、ウィンウェド(Winwæd)という名の川の近くで移動中のマーシア連合軍に少数のバーニシア軍が奇襲攻撃をかけた。折しも大雨でウインウェド川は氾濫して戦場は水浸しであり、マーシア軍はバーニシア軍が奇襲攻撃を仕掛けてくるとは想定しておらず、総崩れとなり、マーシア王ペンダを始めとしてイースト・アングリア王エセルヘレら30人の将軍がことごとく戦死、壊滅した。
ウィンウェドの戦いに勝利したオスウィウ王は勢いにのってデイラ王国を征服、さらにマーシア王国に侵攻して支配下に置いた。オスウィウ王はウィンウェドの戦いで様子見に徹した甥アセルワルドに変えて息子のアルフフリスをデイラ王に即位させ事実上バーニシア王国の下位王国とした。ハンバー川を南限、フォース川を北限とするイングランド北東部を指すノーサンブリアという地名が使われ始めるのは八世紀始めのことだが、オスウィウ王の直系によりデイラ王位が獲得された655年をもってデイラ王国はバーニシア王国と統一されノーサンブリア王国が成立したとみられる。オスウィウ王死後エッジフリス王時代の679年、デイラ王エルフウィネの死でデイラ王位は廃され統合、名実ともにノーサンブリア王国の統一体制が確立した。
バーニシア王国年表
年代 | できごと |
---|---|
547年 or558年 or575年 |
バーニシア王イーダ即位(12年間在位?) |
六世紀後半 | イーダ王との関係不明なグラッパまたはクラッパ、イーダ王の子アッダ、同エセルリック、同セオドリック、続いて関係不明のフリスワルド、フッサらが王となる(諸説あり) |
バーニシア王フッサまたはセオドリックとフレゲッド王イリエーンら四人のブリトン人の王が戦う | |
「フラムズィン(Fflamddwyn,火炎運び人)」の異名で呼ばれる指揮官率いるバーニシア軍とイリエーン王・オワイン王率いるフレゲッド王国軍が幾度か戦い、アルゴッド・スウィヴァイン”Argoed Llwyfain”の戦いで「フラムズィン」がオワイン王によって殺される | |
バーニシア王国からデイラ王国が分離独立か? | |
593年頃 | エセルフリス王即位 |
600年頃 | カトラエスの戦いでブリトン人のゴドジン王国軍300人を壊滅させゴドジン王国領土のうちエディンバラ周辺を残して支配下に置く |
603年頃 | デグサスタンの戦いでアイダーン王率いるダルリアダ王国軍に勝利 |
604年頃 | デイラ王国を征服、ノーサンブリア地方を支配下に置く |
616年 or617年 |
アイドル川の戦いでイースト・アングリア王レドワルド率いるイースト・アングリア王国軍に敗北、エセルフリス戦死 |
デイラ王国の王子エドウィンが帰国してデイラ王に即位し、バーニシア王国もエドウィン王の支配下となる | |
627年 | エドウィン王、キリスト教へ改宗 |
633年 | 10月12日、ハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ王国とマーシア王国の連合軍に敗れエドウィン王が戦死 |
バーニシア王に前王エセルフリスの子エアンフリスが即位、デイラ王はエドウィン王の従兄弟オスリックが即位 | |
634年 | バーニシア王エアンフリス、デイラ王オスリックともにグウィネズ王カドワソンにより殺害される |
エセルフリス王の次男オスワルドがヘブンフィールドの戦いでグウィネズ軍を撃破、カドワソンを殺害して混乱を収め、バーニシア王に即位しデイラ王国も支配下に置く | |
634年以降 | オスワルド王が聖エイダンを招聘しリンディスファーン司教に任じる |
638年 | エディンバラを攻略しゴドジン王国を征服 |
641年 or642年 |
8月5日、マーサフェルスの戦いでペンダ王率いるマーシア王国軍と戦い、オスワルド王が戦死 |
オスワルド王の弟オスウィウがバーニシア王に即位 | |
644年 | 前のデイラ王オスリックの子オスウィネ(Oswine,またはオズウィン)がデイラ王に即位して統一体制が崩壊 |
651年 | マーシア軍、バンバラ周辺まで侵攻 |
デイラ王オスウィネ死亡してデイラ王家の直系が絶え、デイラ王にオスワルド王の子アセルワルドが即位 | |
653年 | マーシア王ペンダの王子ペアダとオスウィウ王の娘エアルフフレドが結婚 |
655年 | 11月15日、ウィンウェドの戦いでマーシア軍を撃破、ペンダ王を殺害する |
デイラ王アセルワルドを廃しオスウィウ王の王子アルドフリスをデイラ王に即位させる | |
ノーサンブリア王国の成立 |
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- 森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房
- 伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- Grimmer, Martin.(2006). “The Exogamous Marriages of Oswiu of Northumbria“.A Journal of Early Medieval Northwestern Europe, issue 9.
- Henson, Donald.(2008).The early kings of Bernicia. Academia.Edu.
- Nayland, Carla.”Origins of Northumbria: Dating Aethelferth’s annexation of Deira“
- Ziegler, Michelle.(1999).The Politics of Exile in Early Northumbria. The Heroic Age, Issue 2, Autumn/Winter 1999
- Kingdoms of the Anglo-Saxons – Bernicia. The History Files.