ハットフィールド・チェイスの戦い(633年)

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ハットフィールド・チェイスの戦い(Battle of Hatfield Chase)は633年10月12日、サウスヨークシャーのドンカスター近郊のハットフィールド村あるいはノッティンガムシャーのカックニー近郊でノーサンブリアのエドウィン王がグウィネズ王カドワソンとマーシア王ペンダの連合軍に破れた戦い。エドウィン王が戦死して彼の覇権が崩壊した後、エドウィン王によって追放されていたバーニシア王エセルフリスの子オスワルドがグウィネズ王カドワソンを倒しノーサンブリア地方を再統一した。

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背景

ノーサンブリアのエドウィン王の覇権

ノーサンブリアのエドウィン

「イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのスレッドミア村のセント・メアリー教会にあるエドウィン王のステンドグラス」
Credit:DaveWebster14, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons


ローマ帝国撤退後、後にノーサンブリア王国が成立するハンバー川からフォース川にかけての地域にはゴドジン(Gododdin)王国、フレゲッド(リージッド”Rheged”)王国、エルメット(Elmet)王国などブリトン人の諸王国が栄えたが、六世紀後半からティーズ川を境界として北部にバーニシア王国、南部にデイラ王国というアングル人王国が登場、周辺のブリトン人諸王国を駆逐して勢力を拡大し、互いに争うようになった。

やがて、バーニシア王エセルフリスが勢力を拡大、604年、デイラ王国を征服したためデイラ王国の王子エドウィンは亡命を余儀なくされた。各地を放浪の後、エドウィンはイースト・アングリア王レドワルドに助けを求め、616年、アイドル川の戦いでイースト・アングリア軍がエセルフリス王を殺害、イースト・アングリア王国に支援されたエドウィンは帰国してデイラ王に即位し、バーニシア王国を併合、レドワルド王死後の626年頃以降、ブリテン島に上級支配権を行使するブレトワルダとして覇権を確立した。

マーシア王国とグウィネズ王国

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

マーシア王国はイングランド中央部、現在のミドランズ地方に六世紀末ごろまでに成立したアングル人の王国で、史料で言及される初めてのマーシア王はクレオダ王(Creoda,在位?-593年)だが、成立初期の歴史は定かではなく、イクリンガス朝(六世紀-796年)と呼ばれたマーシア王家がこの地に存在したアングロ・サクソン系の小王国・部族を糾合することで成立したとみられる。クレオダ王の孫ペンダ王(Penda,在位626年頃または633年頃-655年)の治世下でイングランド中部・南部に支配的な地位を築いてブリテン島屈指の勢力に急成長することになるが、治世初期あるいは即位前にあたるこの時期はエドウィン王の覇権に従属していた。

グウィネズ王国は五世紀半ば頃、スコットランド南部のフォース湾付近を勢力下においていたブリトン人のウォタディニ族(後のゴドジン王国)の指導的地位にあったキネザ・ウレディクがウェールズ北部のスコット人を撃退して建国したと言われるウェールズ地方北部のブリトン人王国。六世紀を通してノーサンブリア地方のブリトン人諸国と連携してバーニシア王国デイラ王国などのアングロ・サクソン勢力と対抗していたが、七世紀、デイラ王国を併合してノーサンブリア地方に統一王権を築いたバーニシア王エセルフリスにチェスターの戦い(613年頃)で大敗を喫する。以後、ノーサンブリア地方のブリトン人諸王国に救援を送ることが出来なくなり、エセルフリスに代わってエドウィン王がノーサンブリアを統一してからはアングルシー島を奪われるなどエドウィン王の覇権に屈していた。

戦い

ハットフィールド・チェイスの戦いに関する文献は八世紀のノーサンブリア王国の聖職者ベーダが著した「アングル人の教会史」(731年)の第二巻の描写によるが、同書によれば、ブリトン人の王カドワソンとマーシアの王族ペンダエドウィンに反旗を翻し、西暦633年10月12日、ヘースフェルス(Haethfelth)と呼ばれる平原でカドワソン=ペンダ連合軍とノーサンブリア軍が激突、激しい戦いでエドウィン王と王子のオスフリスが戦死、もう一人の王子エアドフリスが捕虜となり、ノーサンブリア軍は多くの死者を出して散り散りになったという(1“EDWIN reigned most gloriously seventeen years over the nations of the English and the Britons, six whereof, as has been said, he also was a soldier in the kingdom of Christ. Caedwalla, king of the Britons, rebelled against him, being supported by the vigorous Penda, of the royal race of the Mercians, who from that time governed that nation for twenty-two years with varying success.

A great battle being fought in the plain that is called Haethfelth, Edwin was killed on the 12th of October, in the year of our Lord 633, being then forty-eight years of age, and all his army was either slain or dispersed. In the same war also, Osfrid, one of his sons, a warlike youth, fell before him; Eadfrid, another of them, compelled by necessity, went over to King Penda, and was by him afterwards slain in the reign of Oswald, contrary to his oath. “(Bede, Bede’s Ecclesiastical History of England, A.M. Sellar’s 1907 Translation. From the Christian Classics Ethereal Library. Also from Project Gutenberg)
)。また、九世紀にウェセックス王国で編纂された「アングロ・サクソン年代記」でも633年の条に同様の記述があるが、こちらは戦いの日を10月14日としている(2大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、37頁)。

戦地となったヘースフェルス(Haethfelth)、現代英語でハットフィールド(Hatfield)と呼ばれる平原の場所について、十六〜十七世紀イングランドの歴史家ウィリアム・キャムデン(1551-1623年)がサウスヨークシャー州ドンカスター近郊のハットフィールド村であったとして以降伝統的にドンカスター説が通説となっている。戦地とされる場所の近くにはスレイ=バー・ヒル(Sley-Burr Hill)という丘があり、ここに戦死者が埋葬されたと言われているが遺骨を始め戦いの痕跡を示す証拠は全く発見されていない。ドンカスター説に対してノッティンガムシャーのカックニー近郊ではないかとする説もあり、こちらの説では当時ノッティンガム方面に広がる地域がヘースフェルス(Haethfelth)と呼ばれていたこと、マーシア軍がローマ街道を使ってノーサンブリア方面へ行軍する場合の想定経路上に位置すること、1951年にカックニーの教会の地下から200体以上の遺骨が発掘されたこと、エドウィン王に関する遺跡や伝承の存在、ハットフィールドを冠した地名が多数残ることなどが理由とされているが、発見された遺骨は詳細な調査がされていなかったため当時のものかどうかは不明で、こちらの説も証拠となるような発見はされていない(3Where did the Battle of Hatfield really take place? Battle of Hatfield Investigation Society.)。

戦後

勝利の勢いに乗ってカドワソン王はノーサンブリア各地を寇掠、王族や聖職者はケント王国へ避難し、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位したが、バーニシア王には前王エセルフリスの子エアンフリスが即位してノーサンブリアの統一体制は崩壊した。さらに、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちにあって殺害される。

同年、ヘブンフィールドの戦いでエアンフリスの弟オスワルドがグウィネズ王国軍に勝利してカドワソンを戦死させ、改めてバーニシアとデイラ両国の統一に成功した。しかし平和は続かず、マーシア王国との戦いは繰り返され、642年、マーサフェルスの戦いでオスワルド王はペンダ王に敗れて戦死、再び分裂と抗争の時代を経て、655年、オスワルドの弟バーニシア王オスウィウがウィンウェドの戦いでペンダ王を倒し、バーニシア王国デイラ王国を統一して初代ノーサンブリア王に即位、ノーサンブリア王国が建国され、ようやく混乱が鎮められた。

この戦いはノーサンブリア王国マーシア王国という二大国の台頭と抗争の口火を切る戦いとなり、両国の争いの中で、七世紀半ばから八世紀前半まではノーサンブリア王国が、八世紀半ばから九世紀前半まではマーシア王国がイングランドの覇権を握った。また、グウィネズ王国は以後イングランド方面への介入が困難となり、ウェールズ地方での勢力争いに注力することとなった。

参考文献

脚注

  • 1
    “EDWIN reigned most gloriously seventeen years over the nations of the English and the Britons, six whereof, as has been said, he also was a soldier in the kingdom of Christ. Caedwalla, king of the Britons, rebelled against him, being supported by the vigorous Penda, of the royal race of the Mercians, who from that time governed that nation for twenty-two years with varying success.

    A great battle being fought in the plain that is called Haethfelth, Edwin was killed on the 12th of October, in the year of our Lord 633, being then forty-eight years of age, and all his army was either slain or dispersed. In the same war also, Osfrid, one of his sons, a warlike youth, fell before him; Eadfrid, another of them, compelled by necessity, went over to King Penda, and was by him afterwards slain in the reign of Oswald, contrary to his oath. “(Bede, Bede’s Ecclesiastical History of England, A.M. Sellar’s 1907 Translation. From the Christian Classics Ethereal Library. Also from Project Gutenberg)
  • 2
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、37頁
  • 3
    Where did the Battle of Hatfield really take place? Battle of Hatfield Investigation Society.