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ペンダ(マーシア王)

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ペンダ(Penda)は七世紀、ブリテン島中部ミッドランズ地方を支配したマーシア王国の王。即位時期については議論がある。655年11月15日没。633年、グウィネズ王カドワソンと同盟を結びハットフィールド・チェイスの戦いノーサンブリアのエドウィン王を戦死させた。636年頃から640年頃の間にイースト・アングリア王エグリックと前王シグベルフトを殺害して後顧の憂いを絶ち、642年、マーサフェルスの戦いでノーサンブリアのオスワルド王を殺害して事実上イングランドに覇権を築いた。654年にはイースト・アングリア王アンナを殺害、655年、周辺諸国から軍を動員してバーニシア王国へ侵攻するが、ウィンウェドの戦いでバーニシア王オスウィウに敗れ戦死した。

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マーシア王国の成立

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


マーシア(Mercia)は古英語で「辺境の人びと」「国境の民」を意味する「ミェルチェ(Merce)」に由来していることから、アングロ・サクソン人とブリトン人の境界に位置する人々あるいはノーサンブリアとサウサンブリアの境界に位置する人々を指したと考えられ(1青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社98-99頁)、これらの地域のどこかで成立したとみられている。七世紀半ばから八世紀半ば頃に作成された諸部族の配置と広さが記された行政文書「トライバル・ハイデジ(Tribal Hidage)」(2「トライバル・ハイデジ(Tribal Hidage)」は『マーシア王が自国と宗主権下の諸国に、貢税のみならず軍役、築城、架橋などの軍事的負担(「トゥリノダ・ネケシタス」)の公的な賦課を意図して、徴税、賦課の単位たるハイド数をそれぞれに割り当て明記した文書』(青山吉信(1991)101頁))からは初期のマーシア王国の領土が現在のイースト・ミドランズ地方からウェスト・ミドランズ地方北部・東部にかけて広がっていることがわかっている。

史料で言及される初めてのマーシア王はクレオダ王(Creoda,在位?-593年)だが、伝承では彼の曽祖父イーチェル(Icel)が最初のマーシア王であるという。イーチェル王は北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔とされ、ベーオウルフ伝承にも登場する伝説のアングル王エオメルの子であるといい、マーシア王家はイーチェルの名を取ってイクリンガス(Iclingas)と呼ばれた。このことからマーシア王家の直系の王統はイクリンガス朝(六世紀-796年)と呼ばれる。

生涯

即位時期

ペンダ王が初めて史料に言及される633年以前の事績はほとんどわかっていない。「アングロ・サクソン年代記」626年の条にある系譜によればペンダはピッバ(Pybba)王の子で始祖イーチェルから数えて六代目の王にあたる。一方、ベーダアングル人の教会史」によると、ノーサンブリアのエドウィン王が亡命中(604年-616年)の間に当時のマーシア王チェオルル(Ceorl)の娘と結婚したといい(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、102頁)、「アングロ・サクソン年代記」には記述がないチェオルル王がペンダ王以前から王位に就いていたとされる。ペンダの父ピッバ王、ピッバ王の近親であるチェオルル王、ペンダ王の順に即位したと考えられているがチェオルル王とペンダ王が同時期に並立していた可能性もあり、この時期のマーシア王権のありようは諸説あって定かではない。

アングロ・サクソン年代記」はペンダが626年に50歳でマーシア王に即位し30年在位したとするが、この記述は年齢が高すぎるとして疑問視されている。一方、829年頃に書かれた「ブリトン人の歴史」ではペンダ王が王位にあったのは10年であったといい(4瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、59頁)、これに従うなら即位は645年頃のこととなる。また、「アングル人の教会史」によれば、633年、ペンダがグウィネズ王カドワソンと協力してエドウィン王を滅ぼした後、マーシア王に即位して22年間王位にあったという(5Ecclesiastical History of the English Nation, Book II.Fordham University./高橋博 訳(2008)108頁)。これらの食い違いのなかで、633年、ハットフィールド・チェイスの戦い前後の即位とするのが有力視されてはいるが定説とはなっていない。

アングロ・サクソン年代記」によれば628年、ウェセックス王キュネギリスとサイレンセスターで戦い勝利した。この勝利でセヴァーン川流域のウィッチェ族領土を併合、また、このときの講和条件としてキュネギリス王の娘キュネウィズ(Cynewise,Kyneswithaなど)を妻に迎えたとみられる。二人の間には五人の息子と二人の娘が生まれた。

対エドウィン王同盟

「700年頃のノーサンブリア王国地図」

「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons


マーシア王国の北の境界にあたるハンバー川を挟んで後にノーサンブリア地方と呼ばれる地域はバーニシア王国とデイラ王国というアングル人の2つの王国が既存のブリトン人勢力を駆逐しつつ勢力争いを繰り広げていたが、616年、デイラ王国がバーニシア王国を併合、ノーサンブリア地方が統一された。これを実現したノーサンブリアのエドウィン王は626年頃から積極的に外征を行い、ブリテン島全土に覇権を確立する。マーシア王国エドウィン王の覇権に従属を余儀なくされていたとみられる。

ウェールズ地方北部のグウィネズ王国はエドウィン王によってアングルシー島を奪われ、カドワソン・アプ・カドヴァン王は一時アイルランドへ亡命を余儀なくされるなどエドウィン王への遺恨が深く、捲土重来の機会を伺っていた。633年、エドウィン王に戦いを挑むことを決意したカドワソン王はペンダへ助力を求め、ペンダもこれを受諾して対エドウィン同盟が成立する。633年10月12日、グウィネズとマーシアの連合軍は迎え撃つエドウィン王率いるノーサンブリア軍とハットフィールドという平原で激突した。激しい戦いの中でエドウィン王が戦死してノーサンブリア軍は敗走、グウィネズ=マーシア連合軍の勝利で終わった。ペンダの即位を633年とする説ではこの戦勝を受け、軍事的成功の大きさでマーシア王国内で屈指の存在となり即位に至ったと考えられている。

戦勝後、グウィネズ王カドワソンはノーサンブリア地方を寇掠してまわるが、ペンダ王がどこまで行動をともにしていたかは不明である。634年、カドワソン王はバーニシア王オスワルドとの戦いに敗れて戦死し、オスワルド王はデイラ王を兼ねてノーサンブリア地方を再統一、再びノーサンブリア地方に統一王権が誕生した。オスワルド王はウェセックス王キュネギリスを従属させるなどブリテン島全土に上級支配権を確立、その覇権はエドウィン王時代にもまして強力で、ペンダ王は北からの圧力をより強く受けることとなった。

マーサフェルスの戦いまで

「英国イーストボーンの聖救世主教会のオスワルド王のステンドグラス」

「英国イーストボーンの聖救世主教会のオスワルド王のステンドグラス」
Credit: Fr James Bradley from Southampton, UK, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons


オスワルド王がマーシア王国の宗主権下にあったリンジー王国を征服すると、ペンダ王はオスワルド王と折り合いをつける必要に駆られ、ハットフィールド・チェイスの戦いで捕虜にしていたエドウィン王の遺児エアドフリスを殺害したとみられている。エドウィン王はオスワルド王の父バーニシア王エセルフリスを倒して覇権を確立しており、オスワルド王にとってエドウィン王の遺児は自身の政権を脅かす政敵であった。

635年頃から640年頃にかけてのいずれかの時期にペンダ王はイースト・アングリア王国に侵攻した。イースト・アングリア王エグリックは先王シグベルフトとともに兵士を鼓舞して立ち向かったが兵数で勝るマーシア軍がイースト・アングリア軍を撃破、エグリック王とシグベルフト前王を殺害した。これによってペンダ王は後顧の憂いを絶ちオスワルド王の覇権に対峙することが出来るようになり、オスワルド王もペンダ王が自身の覇権を脅かす最大の脅威と認識するようになったとみられる。

641年または642年の8月5日、マーシア軍とノーサンブリア軍は現在のシュロップシャー州オスウェストリーと推測されているマーサフェルスで会戦に及び、マーシア軍が勝利を収め、オスワルド王は戦死した。最期の瞬間は敵に囲まれ自身の死を察して味方の軍勢のために祈りを捧げながら殺されたという。その後、遺体はリンジー王国のバードニー修道院に運ばれ、ペンダ王の命で手と腕を切り離して柱にぶら下げて晒された。オスワルド王の覇権は崩壊し、ペンダ王がブリテン島随一の強力な君主として台頭することとなった。

ブリトン人の歴史」にはこの戦いでペンダ王がオスワルド王とマーシア王エオワ(Eowa)を殺害したとの記録があり(6「ブリトン人の歴史」65章(瀬谷幸男訳(2019)59頁))、同様の記録がカンブリア年代記にもある(7“644 The battle of Cogfry in which Oswald king of the Northmen and Eawa king of the Mercians fell.”(Ingram, James,(1912).Medieval Sourcebook: The Annales Cambriae (Annals of Wales).Fordham University.))。「アングロ・サクソン年代記」の756年の条によれば、エオワ王はピッバ王の子でペンダ王の兄弟にあたり、ペンダ王の子孫の王統が絶えた後はエオワ王の子孫がマーシア王位を継承した。これらの記述から、この戦いまでの期間ペンダ王の政権は兄弟のエオワ王との共同統治体制であった可能性が指摘されている。マーサフェルスの戦いではオスワルド王に付いた兄弟王エオワもあわせて打倒することとなり、国内外を問わずペンダ王が第一人者として君臨する契機となった。

ペンダ王の覇権

ウェセックス王チェンワルフ(在位641/643-645年,648-672年)はペンダ王の妹を妃としていたが、彼女と離婚して別の女性(8ベーダは名前を挙げていないが「アングロ・サクソン年代記」にあるチェンワルフ王死後に即位したサクスブルフ女王のことと考えられている(Foerster, Anne (2018). “Female Rulership: The Case of Seaxburh, Queen of Wessex“. Hypotheses.org.))と再婚した。これに対してペンダ王はウェセックス王国へ侵攻、チェンワルフ王を追放して、同王が復帰する648年まで三年間直接支配下に置いた。

ウェセックス王国を支配下に置いたペンダ王は東はイースト・アングリア王国、北はノーサンブリア地方への侵攻を本格的に開始する。当時のイースト・アングリア王アンナは追放されたウェセックス王チェンワルフの亡命を受け入れてペンダ王と対立した。この頃、ペンダ王は長子のペアダをミドル・アングルの王に据え、子供の一人メレワルフ(またはメレワルド)をマーシア王国西部のマゴンサエテ王とするなど国内の体制を整えていた。特にペアダをミドル・アングル王としたことはイースト・アングリア王国への圧力を強める意図があったとみられる。653年頃にイースト・アングリア王国へ侵攻、アンナ王は一時マゴンサエテ王国へ追放されたが、654年、アンナ王が復帰すると、マーシア王国イースト・アングリア王国を攻めアンナ王を殺害した。新たにイースト・アングリア王に即位したエセルヘレ王はペンダ王に忠実な人物であった。

オスワルド王死後、ノーサンブリア地方は再びバーニシア王国とデイラ王国に分裂した。オスワルド王の後を継いでバーニシア王に即位したのはオスワルドの弟オスウィウ(オズウィ、オスウィとも)である。一方、デイラ王国では、前のデイラ王オスリックの子オスウィネがデイラ王に即位した。ベーダアングル人の教会史」(731年)によれば「オスウィネはデイラの国を大いに繁栄させ、七年間統治した。公正で、敬虔で、そのためすべての者に愛された」(9高橋博(2008)139−140頁)と、善政を行ったがバーニシア王国との対立が深まりついに開戦に至った。オスウィウ王が集めた大軍の前に勝ち目が薄いと判断したオスウィネ王は軍を解散してこの戦いを回避し捲土重来を期すが、651年8月20日、オスウィネ王は少数の供を連れて信頼する重臣の領地を訪れた際、裏切りにあって殺害された。

ペンダ王はノーサンブリアの分裂に対し、基本的にバーニシア王国を主敵とし、その敵たちと結んで対バーニシア包囲網を築く方策をとった。オスウィネ王死後、オスウィウ王は兄オスワルドの子アセルワルド(Œthelwald,在位651-655年)をデイラ王に即位させたが、アセルワルド王はマーシア王ペンダと同盟してオスウィウ王と対立するようになる。バーニシア王国マーシア王国とは度々戦端を開き、651年にはペンダ王率いるマーシア軍がバーニシア王国の中心部バンバラ付近まで迫るなど激しく争っていた。

デイラ王オスウィネの死を契機としてバーニシア王国との間に和平の機運が高まり、653年、ペンダ王の王子ペアダとオスウィウ王の娘エアルフフレド(Ealhflæd)との結婚が約束された。結婚の条件としてペアダ王子のキリスト教への改宗が定められペアダはオスウィウ王の元を訪れて洗礼を受け、あわせてペンダ王の王女キュネブルグ(Cyneburh)とオスウィウの王子アルフフリスとの結婚が新たに約束されるなど和平が進んだが、長続きしなかった。

ウィンウェドの戦いと死

「ウィンウェドの戦い」(アルフレッド・ピアース作、1922年、from "Hutchinson's Story of the British Nation")

「ウィンウェドの戦い」(アルフレッド・ピアース作、1922年、from “Hutchinson’s Story of the British Nation”)
Credit: Alfred Pearse, Public domain, via Wikimedia Commons


654年、ペンダ王は敵対的だったイースト・アングリア王アンナを攻め滅ぼしアンナの弟エセルヘレを王に擁立、服属させることに成功した。後顧の憂いを断ったことでペンダ王はバーニシア王国へとその矛先を向ける。655年、ペンダ王は周辺諸国からも軍を動員し30人もの将軍を引き連れ大軍勢でバーニシア王国へ侵攻する。

ベーダが記録するところによると、オスウィウ王は「ペンダがその軍勢とともに帰国し、オスウィウの国の領土を根絶するほどの破壊をおこなわないことを条件に、講和の代償として想像以上に膨大な大量の財産や贈り物を提供することを約束」(10高橋博(2008)165頁)し、さらに息子のエッジフリスを人質としてペンダ王の王妃の元に送るなどしたたが、ペンダ王は侵攻を止めなかったため、追い詰められたオスウィウ王は少数の兵で一戦することを決断する。

「オスウィウは野蛮な王とは和平を結べず、神の慈悲を請うことにした。彼はうずくまって誓いを立てた。『異教徒がわたしたちの贈り物を受け取らないからには、それを受け入れてくださる救世主に捧げたいと思います』と。さらに彼は自分に勝利を授けてくださるなら、自分の王女を聖なる処女として主に捧げること、また修道院建設用地として十二の所領地を贈呈することを誓約した。」(11高橋博(2008)165頁

655年11月15日、ウィンウェド(Winwæd)という名の川の近くで両軍が戦いになった。戦地は定かではないが、現在のウェスト・ヨークシャー州リーズ近郊のどこかであったと考えられている。ペンダ王はオスウィウが攻めてくるとは考えておらず、さらに戦いの際、大雨でウインウェド川は氾濫して戦場は水浸しと悪条件が重なっていた。また、前夜、オスウィウから贈られた財宝の分配が行われた後グウィネズ王国軍が無断で撤退していた。少数の精鋭からなるオスウィウ軍による雨中の奇襲で完全に虚を突かれたマーシア連合軍はグウィネズ軍を欠きデイラ王国軍も戦場から距離を置いて様子見に徹したことで一気に総崩れとなり、マーシア王ペンダを始めとしてイースト・アングリア王エセルヘレら30人の将軍がことごとく戦死、壊滅した。

死後と評価

ウィンウェドの戦いに勝利したオスウィウ王は勢いにのってデイラ王国を征服、さらにマーシア王国に侵攻して支配下に置いた。長子のペアダが後を継いでオスウィウ王の支配下でマーシア王国を治めたが、656年、一年経たずに王妃の裏切りで殺害されたという。ペアダ王死後、オスウィウ王が直接支配下に置き王の代理として総督が派遣されたが、658年、大規模な反乱が勃発、オスウィウ王配下の総督らは追放された。その後、反乱軍によってペアダ王の兄弟ウルフヘレ(Wulfhere,在位658-675年)がマーシア王に擁立されオスウィウ王によるマーシア王国支配は三年経たず終焉を迎えた。

ペンダ王死後、ノーサンブリア王国の優勢は揺るがず、七世紀後半マーシア王国は衰退していく。マーシア王国が勢威を取り戻すのは八世紀のことで、ペンダ王の直系が絶えてエオワの王統から出たエセルバルド王(Æthelbald,在位716-757年)時代を経てオファ王(在位757-796年)の治世下でマーシア王国はイングランド全土を事実上支配下に置き覇権を確立する。

アングロ・サクソン系の諸王国が割拠していた六世紀から九世紀にかけての時期、政治的軍事的に優越した力を持ち諸国に上級支配権を行使した君主はブレトワルダと呼ばれた。ベーダは「アングル人の教会史」でサセックス王アェラ(Ælle 在位:488–514頃)、ウェセックス王チェウリン(Ceawlin 在位:560–591/592)、ケント王エゼルベルフト(Æthelberht 在位:580頃–616)、イースト・アングリア王レドワルド(Rædwald 在位:599頃–624頃)、ノーサンブリアのエドウィン(Edwin 在位:616/617–633)、ノーサンブリアのオスワルド(Oswald 在位:634–642)、ノーサンブリア王オスウィウ(Oswiu 在位:642–670)の七人を挙げ、「アングロ・サクソン年代記」はこれに加えてウェセックス王エグバート(Egbert 在位:802–839)を八人目のブレトワルダとした。

ペンダ王も名前が挙げられるブレトワルダたちと比肩しうる広い範囲の上級支配権を確立したが、「アングロ・サクソン年代記」はウェセックス王国で編纂され、ベーダノーサンブリア王国の人であったため、マーシア王国には敵対的でありペンダ王やオファ王などのマーシア王国の君主たちは軽視されリストからは排除されている。

ベーダはペンダ王について残虐な異教徒である点を強調する描き方をしているが、同時にキリスト教信仰への寛容さを示す逸話も紹介している。

「ペンダ王は自分の民であるマーシア人の間で神の言葉を聞きたいという者がいれば、それを禁じなかった。それどころか、キリスト教信仰を一度受け入れたにもかかわらず、信仰の務めを果たしていないと見なした人々がいれば、王は憎み、軽蔑し、自分たちが信じている神に従うことを軽んじる、哀れな者たちだと言った。」(12“Nor did King Penda forbid the preaching of the Word even among his people, the Mercians, if any were willing to hear it; but, on the contrary, he hated and despised those whom he perceived to be without the works of faith, when they had once received the faith of Christ, saying, that they were contemptible and wretched who scorned to obey their God, in whom they believed. “(Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library, CHAP. XXI./ 高橋博(2008)157頁参照/なお、高橋訳ではペンダ王をペアダ王と誤っている

このエピソードからはキリスト教への寛容さとともに信仰への不徹底な態度を軽蔑する実直な人柄が伺える。ペンダ王は生涯キリスト教へ改宗しなかったが彼の子供たちはみな、キリスト教信仰を受け入れ、アングロ・サクソン社会のキリスト教化が実現することとなった。また、自ら先頭に立って戦いを繰り返す姿はゲルマン社会では尊ばれるものであり、戦いに生き戦いに死んだその生涯はサガに語られるような偉大な、尊敬される戦士王そのものであった。

参考文献

脚注

  • 1
    青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社98-99頁
  • 2
    「トライバル・ハイデジ(Tribal Hidage)」は『マーシア王が自国と宗主権下の諸国に、貢税のみならず軍役、築城、架橋などの軍事的負担(「トゥリノダ・ネケシタス」)の公的な賦課を意図して、徴税、賦課の単位たるハイド数をそれぞれに割り当て明記した文書』(青山吉信(1991)101頁)
  • 3
    高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、102頁
  • 4
    瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、59頁
  • 5
    Ecclesiastical History of the English Nation, Book II.Fordham University./高橋博 訳(2008)108頁
  • 6
    「ブリトン人の歴史」65章(瀬谷幸男訳(2019)59頁)
  • 7
    “644 The battle of Cogfry in which Oswald king of the Northmen and Eawa king of the Mercians fell.”(Ingram, James,(1912).Medieval Sourcebook: The Annales Cambriae (Annals of Wales).Fordham University.)
  • 8
    ベーダは名前を挙げていないが「アングロ・サクソン年代記」にあるチェンワルフ王死後に即位したサクスブルフ女王のことと考えられている(Foerster, Anne (2018). “Female Rulership: The Case of Seaxburh, Queen of Wessex“. Hypotheses.org.)
  • 9
    高橋博(2008)139−140頁
  • 10
    高橋博(2008)165頁
  • 11
    高橋博(2008)165頁
  • 12
    “Nor did King Penda forbid the preaching of the Word even among his people, the Mercians, if any were willing to hear it; but, on the contrary, he hated and despised those whom he perceived to be without the works of faith, when they had once received the faith of Christ, saying, that they were contemptible and wretched who scorned to obey their God, in whom they believed. “(Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library, CHAP. XXI./ 高橋博(2008)157頁参照/なお、高橋訳ではペンダ王をペアダ王と誤っている