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人物

エセルフレド(マーシア女王)

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エセルフレド(Æthelflæd1名前のカナ表記はエセルフレード、エセルフリーダ、エセルフレアド、アゼルヴラッドなど様々で定訳はない。ここでは原語の発音に近い鶴島博和訳(デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会)および魚住昌良ら訳(ロイン、ヘンリー・R.(1999)『西洋中世史事典』東洋書林)を参照してエセルフレドを採用した、870年頃生-918年6月12日没)はウェセックス王アルフレッドの第一子で長女。886年頃、アルフレッド王に臣従した旧マーシア王のマーシア太守(エアルドールマン)エセルレッドと結婚。父王死後、弟のウェセックス王エドワード古王と協力してヴァイキング征服地奪還や都市建設に貢献した。夫死後、単独のマーシア王国の女王として執政(在位911年頃-918年6月12日)。「レディ・オブ・マーシア(”Lady of the Mercians”、マーシアの貴婦人または女主人)」の異名を持つ。

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時代背景

大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図

大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「九世紀のウェセックス王国とデーンロー」

「九世紀のウェセックス王国とデーンロー」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

ブリテン島中部・南部に割拠したアングロ・サクソン人の諸王国は八世紀後半、ミドランズ地域に栄えたマーシア王国のオファ王が支配的な地位を確立して統一への道を歩み始めた。オファ王死後、ブリテン島南部のウェセックス王国エグバート王の治世下で勢力を盛り返し、825年、エレンダンの戦いエグバート王率いるウェセックス王国軍がマーシア王国軍を撃破、以後アングロ・サクソン諸王国はウェセックス王国の下で統一されていく。

九世紀半ばから本格化したヴァイキングと呼ばれるスカンディナヴィア半島出身者(ノース人)たちの活動は武力による征服戦争へと発展、865年、ヴァイキングは「大軍勢(大異教徒軍)」と呼ばれる統一された軍団を形成してブリテン島へ侵攻した。ブリテン島では彼らヴァイキングは出身地の名を取ってデーン人と呼ばれた。ノーサンブリア王国イースト・アングリア王国など残されたアングロ・サクソン諸王国がデーン人の「大軍勢」の攻撃で相次いで滅亡する中で対ヴァイキング戦争の中核となったのがアルフレッド大王率いるウェセックス王国である。

878年、アルフレッド大王エディントンの戦いに勝利してデーン人の王グスルムと和平条約を結び、ハンバー川以南のブリテン島はノース人の居住する東部とアングロ・サクソン人勢力下の西部に二分されることとなった。領土の東側をヴァイキング領に併合され大きく弱体化したマーシア王国の王エセルレッド2世は883年頃アルフレッド大王に臣従、アングロ・サクソン人勢力はウェセックス王国に統合されることとなった。

生涯

「タムワース駅前のエセルフレド女王像」

「タムワース駅前のエセルフレド女王像」
Credit: Annatoone, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

エセルフレドはウェセックス王アルフレッドと王妃エアルフスウィスの間の最初の子として870年頃に誕生した。ウェセックス王家とマーシア王家の関係強化のため886年頃にマーシアの太守(エアルドールマン)エセルレッドと結婚した。夫のエセルレッドはエセルフレドよりかなりの年長であったとみられる。二人の間にはエルフウィン(Ælfwynn)という娘が生まれた。

899年、父アルフレッド大王が亡くなりウェセックス王位はエセルフレドの弟エドワードが継いだ。その後間もない902年頃から夫のエセルレッドが病で臥せるようになり、マーシア統治はエセルフレドが担うようになる。この頃にはエセルレッドは病床から助言を与えることしか出来なくなったという(2Klimek, Kim (2013) “Aethelflaed: History and Legend,” Quidditas: Vol. 34, Article 2.,p.18.)。911年、エセルレッドが亡くなり、エセルフレドはマーシアの事実上の女王として単独統治を開始した。「アングロ・サクソン年代記」では彼女をマーシアの女性領主を意味する”Myrcna hlæfdige”(英語”Lady of the Mercians”マーシアの貴婦人または女主人)と呼んでいる(3Hudson,Alison .(2018).Independent woman: Æthelflaed, Lady of the Mercians.,Medieval manuscripts blog,British Library.)。’hlæfdige’はラテン語で女性領主・女性支配者を意味するdominaに対応する語であるとされる(4Winkler, Emily (2022). “Æthelflaed and Other Rulers in English Histories, c.900–1150”. English Historical Review. 137 (587): 969–1002. doi:10.1093/ehr/ceac178.p.972-973)

899年、アルフレッド大王の後を継いだエドワード古王(Edward the Elder,在位899年-924年)に対しアルフレッド大王の兄エセルレッド1世(在位865-871年)の子エセルウォルドが王位継承に異を唱えて反乱を起こした。902年、エセルウォルドはイースト・アングリアのデーン人と同盟して介入を促し、デーン軍がマーシア王国へ侵攻して各地を劫掠した。同年、エドワード古王率いるウェセックス軍がエセルウォルドとデーン人の連合軍を撃破、エセルウォルドを戦死させて鎮圧したが、デーン人との対決姿勢は明確となった。910年、ウェセックス=マーシア連合軍がテッテンホールの戦いでノーサンブリアを支配していたヴァイキングのヨーク王国(ヨールヴィーク)軍を撃破、911年にはヨールヴィーク軍が和平を破ってマーシア王国へ侵攻、ウェセックス=マーシア連合軍によって撃退されるなど戦線は拡大しつつあった。このような情勢を背景にエセルフレド女王は父王アルフレッドの政策を引き継いでマーシア王国内の要衝に次々と城塞を築いた。同時期、エドワード古王ウェセックス王国領内のデーンローとの境界沿いとなるミドランズ南東部を中心に城塞を相次いで築いており、姉弟で協力して行われた施策であったとみられている。

アングロ・サクソン年代記」によれば、エセルフレドが女王として単独支配を確立した910年前後から915年頃にかけてデーン人の勢力圏であるデーンローとの境界沿いを中心に10の城塞を築いている(5Blake, Matthew; Sargent, Andrew (2018). “‘For the Protection of All the People’: Æthelflæd and Her Burhs in Northwest Mercia”. Midland History. 43 (2): 120–54.)。 順に910年にヘレフォードシャーのブレメズバラ(Bremesburh)、912年にシュロップシャーのシェルイェアト(Scergeat)とブリッジノース(Bricge)、913年に古くからのマーシア王国の首都だったスタッフォードシャーのタムワース(Tamworth)とスタッフォード(Stafford)、914年にチェシャーのエディスベリー(Eddisbury)とウォリックシャーのウォリック(Warwick)、915年にシュロップシャーのチャーベリー(Chirbury)とノッティンガムシャー(6所在地についてはBlake and Sargent.(2018)および’Weardburh‘Historic England Research Recordsを参照)のウィードバラ(Weardburh)さらに同年クリスマスにチェシャーのマージー川河口付近と考えられているランコーン(Runcorn)に城が築かれたという(7Blake and Sargent.(2018)p56に位置を示した地図がある)。

姉弟の協力で城塞網を築いて対ヴァイキング戦争の準備を整えたウェセックス=マーシア連合は大規模な攻勢に出た。デーンローはブリテン島南東部の旧イースト・アングリア王国を勢力圏としたデーン人王国、旧ノーサンブリア王国南部を勢力圏としたヨーク王国(ヨールヴィーク)、その間の旧マーシア王国東部地域に誕生したダービー、レスター、リンカーン、ノッティンガム、スタンフォードの5つのヴァイキングによる植民都市(ファイブ・バラ)の勢力圏からなる。917年、エセルフレド女王はマーシア軍を率いて四人の重臣の犠牲を払いつつもファイブ・バラの一つダービー市とそれに属する領域の征服に成功した。同年、エドワード古王がイースト・アングリアのデーン人王国を征服する。918年、エセルフレド女王はダービー市に続いてレスター市を平和的手段で服従させ支配下に置いた。さらにヨーク王国の首都ヨーク市の住民もエセルフレドの支配下に入ることを約束したが、これが履行される直前の918年6月12日、エセルフレド女王はタムワースで死去した。遺骸はグロスターのセント・ピーター教会の東礼拝堂に埋葬された。

エセルフレド死後、娘のエルフウィンがマーシアの女王に即位したが、エドワード古王マーシア王国へ侵攻、918年12月、エルフウィン女王を廃位してウェセックス王国へ連れ去り、マーシア王国ウェセックス王国へ完全に併合された。

死後の評価の高まり

「1220年頃描かれたエセルフレドのミニアチュール」(大英図書館収蔵、パブリックドメイン)

「1220年頃描かれたエセルフレドのミニアチュール」(大英図書館収蔵、パブリックドメイン)
Credit: ‘Queens Aethelswitha and Aethelflaed, In The Cartulary And Customs Of Abingdon Abbey’.British Library MS Cotton Claudius B VI.
Public domain, via Wikimedia Commons

エセルフレドに関する記述がある同時代史料として、まずはアルフレッド大王存命中に王に仕えた司祭アッサーが書いた「アルフレッド王の生涯」があるが、アルフレッドの長女として名前が挙げられているのみである。事績についての記述は主に「アングロ・サクソン年代記」だが、同書を構成する稿本のうちマーシアで書かれた写本群にのみ登場しており、これらは特に「マーシアの記録(Mercian Register)」と呼ばれている。記述自体非常に少なく即位、死、城塞網の築城と戦いの記録に留まり人柄や政治手腕などは謎に包まれている。

記録が少なく忘れられた存在だったエセルフレドは十二世紀にイングランドの歴史家たちによって再発見される過程で大きく評価が高まった。マームズベリーのウィリアムは「歴代イングランド王の事績(Gesta Regum Anglorum)」(1125年)でエセルフレドを取り上げ、王国民から人気があり敵からは恐れられる豊かな魂の持ち主で弟王の覇業を助けて都市建設にも貢献したと高い評価を与えている(8“And here indeed Ethelfled, sister of the king and relict of Ethered, ought not to be forgotten, as she was a powerful accession to his party, the delight of his subjects, the dread of his enemies, a woman of an enlarged soul, who, from the difficulty experienced in her first labour, ever after refused the embraces of her husband; protesting that it was unbecoming the daughter of a king to give way to a delight which, after a time, produced such painful consequences. This spirited heroine assisted her brother greatly with her advice, was of equal service in building cities, nor could you easily discern, whether it was more owing to fortune or her own exertions, that a woman should be able to protect men at home, and to intimidate them abroad. “Giles, J. A.(1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,LONDON:HENRY G. BOHN, YORK STREET, COVENT GARDEN.M.DCCC.XLVII.p.123-124.)。ハンティンドンのヘンリは「アングル人の歴史(Historia Anglorum)」(1133年頃)の中でエセルフレドを非常に高く評価してローマのユリウス・カエサルを超える偉大な人物としてウィリアム1世とエセルフレドの名を挙げて称揚した。ハンティンドンのヘンリは彼女の事績を挙げた後、短い詩を捧げ、「カエサルの勝利よりも多くの戦利品を得た、カエサルよりも偉大な強き処女王」として最大の賛辞を贈っている(9Winkler (2022)p.988)。ヘンリにとってエセルフレダは処女のまま(とヘンリは信じた)、戦いに勝利し、王国を統治して肉体的な欲望と生まれつきの女性であるという条件に打ち勝った人物と捉えられていた(10Winkler (2022)p.991)。「アングロ・サクソン年代記」に注釈を加え「年代記抜粋(Chronicon ex chronicis)」(1141年以前)を編纂したウスターのジョンはさらにエセルフレドの功績を拡大して高い軍事的リーダーシップを発揮した女王であるとして同時代の他の支配者に君臨する女王として権威づけた(11Winkler (2022)p.995)。

彼らがエセルフレドを再評価して史上屈指の女王に位置づけようとした背景として、当時のイングランド王位を巡る対立があった。ノルマン・コンクエストを経てノルマンディー公国とイングランド王国が統合されたアングロ・ノルマン王国はヘンリ1世(在位1100-1135年)時代に安定した体制が築かれた。しかし、ヘンリ1世の晩年、王太子ウィリアムが事故死したことで王は娘のマティルダを後継者に指名して亡くなったが、死後の王位を巡ってマティルダの女王継承を快く思わない者たちが王族のモルタン=ブーローニュ伯エティエンヌをイングランド王スティーヴン(在位1135-1154年)として擁立、マティルダ派とスティーヴン派で激しい内乱となった(無秩序時代)。マームズベリーのウィリアム、ハンティンドンのヘンリ、ウスターのジョンらはいずれもマティルダ支持派であり、君主としての性別を問題視しない立場であった。彼らは「統治者の優先事項は導くこと、管理すること、提供すること、卓越することであり、指導者の対応こそがその成功の尺度であると考え、それに従って物語を構成した」(12‘Writers thought a ruler’s priorities were to lead, to manage, to provide, to excel; a leader’s response made the measure of her, or his, success, and they framed their narratives accordingly.’Winkler (2022)p.1001)。その後も中世のイングランドでエセルフレドは偉大な女性君主の一人として強い人気を維持することとなった。

参考文献

脚注

  • 1
    名前のカナ表記はエセルフレード、エセルフリーダ、エセルフレアド、アゼルヴラッドなど様々で定訳はない。ここでは原語の発音に近い鶴島博和訳(デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会)および魚住昌良ら訳(ロイン、ヘンリー・R.(1999)『西洋中世史事典』東洋書林)を参照してエセルフレドを採用した
  • 2
    Klimek, Kim (2013) “Aethelflaed: History and Legend,” Quidditas: Vol. 34, Article 2.,p.18.
  • 3
    Hudson,Alison .(2018).Independent woman: Æthelflaed, Lady of the Mercians.,Medieval manuscripts blog,British Library.
  • 4
    Winkler, Emily (2022). “Æthelflaed and Other Rulers in English Histories, c.900–1150”. English Historical Review. 137 (587): 969–1002. doi:10.1093/ehr/ceac178.p.972-973
  • 5
    Blake, Matthew; Sargent, Andrew (2018). “‘For the Protection of All the People’: Æthelflæd and Her Burhs in Northwest Mercia”. Midland History. 43 (2): 120–54.
  • 6
    所在地についてはBlake and Sargent.(2018)および’Weardburh‘Historic England Research Recordsを参照
  • 7
    Blake and Sargent.(2018)p56に位置を示した地図がある
  • 8
    “And here indeed Ethelfled, sister of the king and relict of Ethered, ought not to be forgotten, as she was a powerful accession to his party, the delight of his subjects, the dread of his enemies, a woman of an enlarged soul, who, from the difficulty experienced in her first labour, ever after refused the embraces of her husband; protesting that it was unbecoming the daughter of a king to give way to a delight which, after a time, produced such painful consequences. This spirited heroine assisted her brother greatly with her advice, was of equal service in building cities, nor could you easily discern, whether it was more owing to fortune or her own exertions, that a woman should be able to protect men at home, and to intimidate them abroad. “Giles, J. A.(1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,LONDON:HENRY G. BOHN, YORK STREET, COVENT GARDEN.M.DCCC.XLVII.p.123-124.
  • 9
    Winkler (2022)p.988
  • 10
    Winkler (2022)p.991
  • 11
    Winkler (2022)p.995
  • 12
    ‘Writers thought a ruler’s priorities were to lead, to manage, to provide, to excel; a leader’s response made the measure of her, or his, success, and they framed their narratives accordingly.’Winkler (2022)p.1001

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