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人物

オスウィウ/オズウィ(ノーサンブリア王)

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オスウィウ(Oswiu)またはオズウィ/オスウィ(Oswy)、オスウィグ(Oswig)は七世紀半ば、ノーサンブリア地方一帯を支配した君主。612年頃生-670年2月15日没。バーニシア王(642-655年)、初代ノーサンブリア王(655-670年2月15日)。アイドル川の戦い(616/617年)で父エセルフリスが戦死したため兄オスワルドとともにアイオナ修道院に避難して幼少期を過ごす。エドウィン王体制崩壊後の634年、兄オスワルドがバーニシア王に即位し、642年、兄王死後バーニシア王即位、655年、ウィンウェドの戦いでマーシア王ペンダを倒しノーサンブリア地方を統一、ブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立した。ウィットビー教会会議を主催してブリテン島におけるローマ・カトリック教会の優越を方向づけた。キリスト教の聖人(聖名祝日2月15日)。

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誕生から亡命まで

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより

「700年頃のノーサンブリア王国地図」

「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

オスウィウは612年頃、バーニシア王エセルフリスの子として生まれた。他の兄弟と同じく母はデイラ王エッレの娘アッカと思われ、八人の兄弟姉妹がおりバーニシア王エアンフリス(在位633-634年)、オスワルド(在位634-642年)は兄。

六世紀後半、後のノーサンブリア王国にあたるイングランド北東部は移住してきたアングル人がブリトン人諸王国を駆逐して勢力を拡大、ティーズ川を境にして南にヨークを中心としたデイラ王国、北にバンバラを中心としたバーニシア王国が成立した。エルメット王国、フレゲッド(リージッド)王国、ストラスクライド王国、グウィネズ王国などのブリトン人諸王国、スコットランドのピクト王国ダルリアダ王国などと勢力争いを繰り広げていたがバーニシア王国エセルフリス王が即位すると急速に勢力を拡大して604年頃、デイラ王国を征服してノーサンブリア地方に統一王権を樹立した。

しかしエセルフリス王の覇権は長くは続かず、616年または617年、亡命していたデイラ王国の王子エドウィンを支援したブリテン島南部のイースト・アングリア王国アイドル川の戦いでバーニシア軍を撃破、エセルフリス王も戦死し、イースト・アングリア王レドワルドの支援を受けたエドウィンデイラ王国に帰還して即位しすぐにバーニシア王国を征服した。このとき、オスウィウは兄オスワルドとともにバーニシア王国を脱出、ヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院に逃れた。エドウィン王の体制が崩壊する633年まで同地で過ごし、この間に兄弟ともキリスト教へ改宗したという。

ブレトワルダとして覇権を確立したエドウィン王だったが、633年、ハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ=マーシア連合軍に敗れ、戦死した。勝利の勢いに乗ってグウィネズ王カドワソン(Cadwallon ap Cadfan)はノーサンブリア各地を寇掠、バーニシア王国デイラ王国は分裂、バーニシア王にはオスウィウの兄エアンフリス(Eanfrith)が即位したが、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたエアンフリス王も騙し討ちにあい殺害される。634年、オスウィウの兄オスワルドが少数の兵力を率いてバーニシア王国へ帰国、カドワソンをヘブンフィールドの戦いで倒し、バーニシア王に即位してノーサンブリアを統一しブレトワルダとしてブリテン島に君臨した。

即位以前の二度の結婚

「アイオナ修道院」

「アイオナ修道院」
Credit: DrTorstenHenning, Public domain, via Wikimedia Commons


即位以前のオスウィウの動向はほとんど史料に残っておらず、オスワルドとともに帰還したのか、ヘブンフィールドの戦いに参加したのか、オスワルド王時代の地位や役割はどうであったのか、など不明な点が多い。おそらくオスワルドと行動をともにしてヘブンフィールドの戦いにも参戦し、オスワルド王時代には対外拡張の役割を担っていたのではないかと言われる(1Nash Ford, David.(2003).”Oswiu, King of Northumbria“,Early British Kingdoms.)が定かではない。

即位以前のオスウィウの動向で明らかとなっているのが婚姻関係である。以下Grimmer, Martin.(2006). “The Exogamous Marriages of Oswiu of Northumbria“.A Journal of Early Medieval Northwestern Europe, issue 9. に基づく。オスウィウはわかっているだけでアイルランド北東を支配する北イー・ネールの支族ケネール・ネオガン(Cenél nEógain)出身の女性フィーナ(Fína)、ブリトン人のリージッド(フレゲッド)王国の王族リアンメルト(Rhianmellt/ウェールズ語:フリアンメスト)、エドウィン王の王女エアンフレダ(Eanflæd)の三人の妻がおり、即位後に結婚したエアンフレダを除き即位前に二人の女性を妻にしていた。

フィーナ妃の父または祖父とされるコルマーン・リーミド(Colmán Rímid)はタラ王(アイルランド上王)の一人に数えられる人物で604年頃に亡くなった。フィーナがコルマーンの娘とすると、フィーナは605年頃以前の生まれとみられ、オスウィウより7〜8歳上となる。二人の間には後にノーサンブリア王となるアルドフリス(Aldfrith,?-705年没、在位685-705年)が生まれているが705年に亡くなったアルドフリスの生年は不明であるため、ダルリアダ王国亡命中の633年以前に結婚した可能性が高いがその後の可能性も否定できない。637年まで北イー・ネールとダルリアダ王国は同盟関係にあったことが二人の婚姻の背景にあると考えられている。アルドフリスはおそらくオスウィウの長子だとみられるが、オスウィウ死後王位を継いだのはエアンフレダ妃との間に645年に生まれたエッジフリス(Ecgfrith,645年生-685年没、在位670-685年)で、アルドフリスは当初聖職者の道を進んでおり庶子の待遇であったとみられることから、フィーナは側室であったと考えられている。

リアンメルトは「ブリトン人の歴史」にエアンフレダとともにオスウィウの妻として名前が上がる女性でリージッド(フレゲッド)王イリエーンの子ルム(Rum)の子ロイト(Royth)の子であるという(2ルムとロイトのカナ表記は瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、54頁に従った)。二人の間には後のデイラ王アルフフリス(Alhfrith、664年以降没)が生まれたが、リアンメルト妃はオスウィウ王がエアンフレダと結婚する640年代前半までに亡くなったと考えられている。リージッド王国は現在のスコットランド王国南部ギャロウェイ付近にあったブリトン人王国でイリエーン王とその子オワイン王時代にバーニシア王国と争ったがオワイン王死後衰退した。「ブリトン人の歴史」によればリアンメルトの祖父ルムはオワイン王の弟で司祭としてエドウィン王の洗礼を行った人物という。この結婚はオスワルド王時代初期の体制が不安定だったころに国内のブリトン人を味方につける目的で行われたものとみられる(3Grimmer, Martin.(2006). “The Exogamous Marriages of Oswiu of Northumbria“.A Journal of Early Medieval Northwestern Europe, issue 9. )。

バーニシア王時代

641年または642年、オスワルド王の覇権に対しマーシア王ペンダが戦いを挑みマーサフェルスの戦いでオスワルド王が戦死した。遺体はリンジー王国のバードニー修道院に運ばれ、ペンダ王の命で手と腕を切り離して柱にぶら下げて晒されたという。後を継いでオスウィウがバーニシア王に即位したが、644年頃、前のデイラ王オスリックの子オスウィネ(Oswine,またはオズウィン)がデイラ王に即位して統一体制が崩れることとなった。即位の翌年、オスウィウ王は軍勢を率いてリンジー王国に入りバードニー修道院で晒されていたオスワルド王の手と腕を外させ、首はリンディスファーン修道院へ、手と腕はバンバラへ運ばせて丁重に葬った。

即位後オスウィウはエドウィン王体制崩壊直後にケント王国に亡命していたエドウィン王の娘エアンフレダを妻に迎えた。二人の間の子エッジフリスが645年に誕生しているので結婚したのは即位した642年以降645年以前の間のいずれかの時期と考えられている。デイラ王家の血を引くエアンフレダとの結婚は再独立したデイラ王国に対する牽制とデイラ王位の正統性を主張する意図があったとみられる。また、対マーシア王国の強力な同盟者を必要としていたことからエアンフレダの母エゼルブルフ(父はケント王エセルベルフト)を通じてケント王家との関係を強化、さらにケント王国を通じてフランク王国との繋がりを得ることが可能となる。

オスウィウ王即位時はデイラ王国も彼の統治下に入っていたが、644年頃、前のデイラ王オスリックの子オスウィネが即位した。ベーダアングル人の教会史」(731年)によれば「オスウィネはデイラの国を大いに繁栄させ、七年間統治した。公正で、敬虔で、そのためすべての者に愛された」(4高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、139−140頁)と、善政を行ったがバーニシア王国との対立が深まりついに開戦に至った。オスウィウ王が集めた大軍の前に勝ち目が薄いと判断したオスウィネ王は軍を解散してこの戦いを回避し捲土重来を期すが、651年8月20日、オスウィネ王は少数の供を連れて信頼する重臣の領地を訪れた際、裏切りにあって殺害された。オスウィウ王は兄オスワルドの子アセルワルド(Œthelwald,在位651-655年)をデイラ王に即位させたが、アセルワルド王はマーシア王ペンダと同盟してオスウィウ王と対立するようになる。

バーニシア王国マーシア王国とは度々戦端を開き、651年にはペンダ王率いるマーシア軍がバーニシア王国の中心部バンバラ付近まで迫るなど激しく争っていた。デイラ王オスウィネの死を契機としてマーシア王国との間に和平の機運が高まり、653年、ペンダ王の王子でマーシア王国の下位王国となっていたミドル・アングルの王となっていたペアダ(Peada)とオスウィウ王の娘エアルフフレド(Ealhflæd)との結婚が約束された。結婚の条件としてペアダ王子のキリスト教への改宗が定められペアダはオスウィウ王の元を訪れて洗礼を受け、あわせてペンダ王の王女キュネブルグ(Cyneburh)とオスウィウの王子アルフフリスとの結婚が新たに約束されるなど和平が進んだが、長続きしなかった。

ウィンウェドの戦い

654年、マーシア王ペンダは敵対的だったイースト・アングリア王アンナを攻め滅ぼしアンナの弟エセルヘレを王に擁立、服属させることに成功した。後顧の憂いを断ったことでペンダ王はバーニシア王国へとその矛先を向ける。655年、ペンダ王は周辺諸国からも軍を動員し30人もの将軍を引き連れ大軍勢でバーニシア王国へ侵攻する。

ベーダが記録するところによると、オスウィウ王は「ペンダがその軍勢とともに帰国し、オスウィウの国の領土を根絶するほどの破壊をおこなわないことを条件に、講和の代償として想像以上に膨大な大量の財産や贈り物を提供することを約束」(5高橋博(2008)165頁)し、さらに息子のエッジフリスを人質としてペンダ王の王妃の元に送るなどしたたが、ペンダ王は侵攻を止めなかったため、追い詰められたオスウィウ王は少数の兵で一戦することを決断する。

「オスウィウは野蛮な王とは和平を結べず、神の慈悲を請うことにした。彼はうずくまって誓いを立てた。『異教徒がわたしたちの贈り物を受け取らないからには、それを受け入れてくださる救世主に捧げたいと思います』と。さらに彼は自分に勝利を授けてくださるなら、自分の王女を聖なる処女として主に捧げること、また修道院建設用地として十二の所領地を贈呈することを誓約した。」(6高橋博(2008)165頁

655年11月15日、ウィンウェド(Winwæd)という名の川の近くで両軍が戦いになった。戦地は定かではないが、現在のウェスト・ヨークシャー州リーズ近郊のどこかであったと考えられている。ペンダ王はオスウィウが攻めてくるとは考えておらず、さらに戦いの際、大雨でウインウェド川は氾濫して戦場は水浸しと悪条件が重なっていた。また、前夜、オスウィウから贈られた財宝の分配が行われた後グウィネズ王国軍が無断で撤退していた。少数の精鋭からなるオスウィウ軍による雨中の奇襲で完全に虚を突かれたマーシア連合軍はグウィネズ軍を欠きデイラ王国軍も戦場から距離を置いて様子見に徹したことで一気に総崩れとなり、マーシア王ペンダを始めとしてイースト・アングリア王エセルヘレら30人の将軍がことごとく戦死、壊滅した。

オスウィウ王の覇権

ウィンウェドの戦いに勝利したオスウィウ王は勢いにのってデイラ王国を征服、さらにマーシア王国に侵攻して支配下に置いた。オスウィウ王はウィンウェドの戦いで様子見に徹した甥アセルワルドに変えて息子のアルフフリスをデイラ王に即位させ事実上バーニシア王国の下位王国とした。ハンバー川を南限、フォース川を北限とするイングランド北東部を指すノーサンブリアという地名が使われ始めるのは八世紀始めのことだが、オスウィウ王の直系によりデイラ王位が獲得された655年をもってデイラ王国バーニシア王国と統一されノーサンブリア王国が成立したとみられる。オスウィウ王死後エッジフリス王時代の679年、デイラ王エルフウィネの死でデイラ王位は廃され統合、名実ともにノーサンブリア王国の統一体制が確立した。

ペンダ王死後、ペアダ王が後を継いでオスウィウ王の支配下でマーシア王国を治めたが、656年、一年経たずに王妃の裏切りで殺害されたという。ペアダ王死後、オスウィウ王が直接支配下に置き王の代理として総督が派遣されたが、658年、大規模な反乱が勃発、オスウィウ王配下の総督らは追放された。その後、反乱軍によってペアダ王の兄弟ウルフヘレ(Wulfhere,在位658-675年)がマーシア王に擁立されオスウィウ王によるマーシア王国支配は三年経たず終焉を迎えた。

マーシア王国のオスウィウ王支配体制は短期間で崩れたものの力の差は大きく、マーシア王国に対して引き続き優越的な地位を保った。650年代後半、グウィネズ王国へ侵攻して貢租を課し、オスウィウ王の勧めで洗礼を受けたイースト・アングリア王シグベルフト2世、ピクト王となったオスウィウの長兄エアンフリスの子タロルガン、妻の実家であるケント王国など友好国も多く、オスウィウ王はブレトワルダとして覇権を確立した。ベーダによれば特にマーシア王国を征服下に置いていた655年から658年の最初の三年間は「マーシア人の国およびその他の南部諸国を統治し、ピクト人の大部分をもその支配下に置いた」(7高橋博(2008)168頁)と言い、その覇権はブリテン島全土に及んだ。

ウィットビー教会会議

「ウィットビー修道院の遺構」

「ウィットビー修道院の遺構」
Credit: Wilson44691, CC0, via Wikimedia Commons


ブリテン島へのキリスト教布教は大陸経由とアイルランド経由の2つのルートを辿った。ローマ帝国の属領時代にキリスト教はブリテン島南部に浸透したとみられるが、五世紀初頭のローマ帝国支配の終焉とともに衰退する。五世紀始め頃からパトリキウス(聖パトリック)やパラディウスによってアイルランドへの布教が開始し、六世紀半ば、アイルランド北東部の有力勢力イー・ネールの王族出身の修道士コロンバがヘブリディーズ諸島にアイオナ修道院を創設したことで同修道院が中核となってアイルランド修道制がアイルランドとブリテン島北部へ広がった。一方、ローマ・カトリックのブリテン島への布教は六世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世によって派遣されたベネディクト派修道士アウグスティヌスら宣教団がケント王国へ到着した597年からブリテン島南部のアングロ・サクソン諸王国を中心に拡大した。

アイルランドを中心としてブリテン島北部に拡大したキリスト教を「ケルト式8なお、「『ケルト式』とは研究者の造語であり、『ケルト人』に由来する復活祭慣行ではけっしてない。『ケルト式』自体は、おそらく四世紀に大陸で行われていた算定方式であ」るとされる(常見信代「用語解説」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、375頁)」、大陸経由でブリテン島南部に拡大したキリスト教を「ローマ式」と呼び細部にわたり様々な違いがあるが、両者の違いを巡って七世紀のブリテン島で大きな問題となったのが復活祭の算定方法を巡る対立「復活祭論争」だった。「ローマ式」ではユダヤ暦のニサン14(月齢十四日)の後の最初の日曜日をイエスの復活祭とするが、「ケルト式」では太陰太陽暦の84年周期で復活祭の月齢範囲を14日から20日の間に定めるため、ユダヤ教の過越しの祝日になるおそれがあり、キリスト教会の自立性を損なうおそれがあった(9常見信代(2010)375頁/Thurston, H. (1909). Easter Controversy. In The Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company.)。

オスウィウ王は若い頃アイオナ修道院で育ち洗礼を受け、兄オスワルド時代にアイオナ修道院から聖エイダンをリンディスファーン修道院に招聘していたこともあって「ケルト式」の慣習がノーサンブリア宮廷に広がっていたが、王妃エアンフレダはケント王国で育ったため「ローマ式」での慣習で日々過ごしており、「ある年、王は復活祭の日曜日を喜んで祝っていたが、妻はまだ厳格な四旬節の断食を続け、棕櫚の日曜日(Palm Sunday)を守っていた」(10“One year, the king was happily celebrating Easter Sunday while his wife was still keeping her austere Lenten fast and observing Palm Sunday.”(How The Synod of Whitby Settled the Dates of Easter. English Heritage.))という具合に生活習慣のすれ違いが非常に大きくなっていた。ノーサンブリア王国内の主流派の「ケルト式」に対して改革を促す動きを起こしたのがオスウィウの王子デイラ王アルフフリスである。アルフフリスはリポン修道院長にローマから帰国したばかりの修道士ウィルフリッドを抜擢するなどローマ式採用の動きを強め、国内の聖職者たちの論争に拍車をかけた。

664年、オスウィウ王はウィットビーの聖ヒルダ修道院に聖職者や関係者を招集、ノーサンブリア王国内の教会におけるケルト式とローマ式の採用を巡る論争が戦わされた。ケルト式を主張したのがリンディスファーン司教コルマーン(Colmán)、イースト・サクソン司教ケッド(Cedd)とオスウィウ王。ローマ式を主張したのがリポン修道院長ウィルフリッド(Wilfrid)、前ドーチェスター司教アギルベルト(Agilbert)と王子アルフフリスらである。論争を経てオスウィウ王は復活祭期日の算定方法や剃髪についてローマ式の採用を決定した。ウィットビー教会会議はノーサンブリア国内の紛争解決を目的としたものだったが、この決定を契機にイングランド全体でローマ式が受け入れられ、八世紀までにアイルランドやウェールズもこれに倣いブリテン諸島の教会制度がローマ教皇の権威を受け入れて西ヨーロッパのローマ・カトリック秩序に組み込まれることとなった。

ウィットビー教会会議後、ノーサンブリア国内では「ケルト式」で論陣を張った人物のうちケッド司教はローマ式を受け入れ、リンディスファーン司教コルマーンは退任してアイオナ修道院へ帰還、ノーサンブリア司教座がリンディスファーンからヨークに移りウィルフリッドがノーサンブリア司教に任じられた。一方、オスウィウ王はデイラ王位をアルフフリス王子からエッジフリス王子に変え、アルフフリスは以後史料に姿が見えなくなる。また開催場所の聖ヒルダ修道院はウィットビー修道院と名を変えた。

死とその後

670年2月15日、オスウィウ王は58歳で亡くなり、遺体はウィトビー修道院に葬られ、未亡人となった王妃エアンフレダと娘のエルフレダ(Ælfflæd)がウィットビー修道院の共同修道院長となった。王位はエアンフレダとの間の子でデイラ王だったエッジフリスが後を継ぎ、エッジフリスの弟エルフウィネ(Ælfwine)がデイラ王として兄を補佐する体制が築かれた。679年、トレントの戦いでマーシア軍に敗れたエルフウィネが戦死するとデイラ王位は廃され名実ともに一人の王が君臨するノーサンブリア王国が確立する。

685年、エッジフリス王がピクト人との戦いで戦死するとオスウィウ王と側室フィーナ妃の間の子でアイオナ修道院で神学の研究を行っていたアルドフリスが王位を継承し、ノーサンブリア・ルネサンスと呼ばれる文化・芸術活動の隆盛期が始まった。ノーサンブリア・ルネサンスはケオルウルフ王(Ceolwulf,在位729-737)の治世が終わる730年代末まで続き、「ダロウの書」、「リンディスファーンの福音書」などの装飾写本やベーダに代表される学術・文学の著作が多く世に送り出され、ノーサンブリア王国は中世前半期のブリテン島におけるキリスト教文化の中心として栄えることとなった。

参考文献

脚注

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