カンタベリーの聖アウグスティヌス

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カンタベリーの聖アウグスティヌス(ラテン語Augustinus,英語Saint Augustine of Canterbury)は六世紀、ローマ教会に所属していた修道士。597年、ローマ教皇グレゴリウス1世の命でアングロ・サクソン人へキリスト教を布教すべく40名の宣教師団を率いてブリテン島へ上陸、ケント王エゼルベルフトを改宗させケント王国を中心としたイングランド南東部に布教した。597年から初代カンタベリー大司教を務め、604年5月26日、在任のまま死去。キリスト教の聖人(カトリック教会、東方正教会、聖公会)。

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ブリテン諸島へのキリスト教布教

ローマ帝国支配下の三世紀頃までにはブリテン諸島でキリスト教が伝わり、以来ブリテン島の先住民ブリトン人のキリスト教化が進んだとみられ、彼らの中から多くのキリスト教伝道者が誕生した。五世紀、ブリテン島出身の聖パトリックがアイルランドで布教を開始、聖パトリックに師事した聖ブリジットがキルデア修道院を創設、以後アイルランド北東部を中心に修道院が多く作られた。アイルランド北東部の有力勢力北イー・ネールの王族だった聖コルンバ(コルム・キレ)はヘブリディーズ諸島のアイオナ島にアイオナ修道院を設立して、アイルランド北部からブリテン島北部にかけてキリスト教の布教が進んだ。アイルランド修道制はローマ教会から孤立して発展したため様々な慣習で大きな違いがみられた。

ローマ帝国がブリテン島から撤退したあとの五世紀半ばから六世紀初頭にかけてアングロ・サクソン人のブリテン島への移住が始まりブリテン島南東部・東部一帯でブリトン人の勢力を駆逐してアングロ・サクソン人の勢力が拡大した。「アングル人の教会史」(731年)や「アングロ・サクソン年代記」(九世紀末)などの文献ではピクト人やスコット人の侵攻に対抗してブリトン人の王ヴォルティゲルンがヘンギストとホルサの兄弟を傭兵として招聘、後に兄弟は自立してブリトン人を駆逐してヘンギストが初代ケント王に即位し、彼らの成功に続いてアングロ・サクソン人の進出が本格化したというが、これらの記述を裏付ける史料を欠くため歴史的事実とは考えられてはいない。

六世紀半ば頃、ブリテン島南東部ケント地方を支配したのがケント王国である。六世紀後半、ケント王エゼルベルフト(在位580頃?-616年)がケント地方を統一、ブリテン島南部の広い地域を勢力下に置き覇権を確立した。エゼルベルフトは即位以前の574年頃(1「第三章 キリスト教への改宗」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、164頁))、メロヴィング朝パリ王カリベルト1世(Charibert I, 在位561-567年2メロヴィング朝フランク王国は建国者クローヴィス1世を継いだクロタール1世死後、子どもたちの間で四分割された。カリベルト1世はクロタール1世の三男でパリ周辺を支配する分王国の一つパリ王国の王。)の娘ベルタを妻に迎えてフランク王国と親密な関係を築き、大陸との独占的な交易関係を通じて富を蓄え繁栄したと考えられている。婚姻に際して王妃の信仰を保護する目的でフランク人司教リウドハルト(Liudhard)を伴う条件を受け入れつつも改宗には至らなかったが、聖マーティン教会を設立するなどキリスト教に対しては寛容な態度であった。

「ケント王国地図」

「ケント王国地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

生涯

「カンタベリー大聖堂のカンタベリーの聖アウグスティヌス像」

「カンタベリー大聖堂のカンタベリーの聖アウグスティヌス像」
Credit: User:Saforrest, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

アウグスティヌスの生い立ちはほとんど何も知られていない。ローマの聖アンデレ修道院で修道士として暮らしていたアウグスティヌスは、595年、ローマ教皇グレゴリウス1世の命でブリテン島のアングロ・サクソン人をキリスト教に改宗させるための宣教団約40名を率いる人物として選ばれた。

596年6月、アウグスティヌス率いる宣教団は出発したが、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに到着したころ異教徒への恐れなどから任務を遂行することは難しく帰国したほうがいいとする意見が大勢を占めたため、任務の断念を申し出る使者としてアウグスティヌスがローマに送り返された。グレゴリウス1世は、アウグスティヌスを激励して任務の遂行を求める書簡を送り、あらためて宣教団はブリテン島へ向かうこととなった。

597年春、アウグスティヌス率いる宣教団はブリテン島南東部のサネット島に上陸した。エゼルベルフト王に書簡を送って滞在の許可を受け、数日後、王がサネット島を訪れ、野外でアウグスティヌスらと会談が行われた。屋外での会談となった理由は王が「どこかの家の同じ屋根の下に外来者を招き入れた場合、彼らが何かの魔術によって自分を欺いたり、打倒することがないように警戒していた」(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、44頁)からであったという。会談を経て王はケント王国での宣教団の布教活動を認め、カンタベリーに居住地と食料、生活必需品の提供を約束した。カンタベリーの司教座はこの597年を設立年としている。

598年、王妃ベルタが日々礼拝していた聖マーティン教会でアウグスティヌスらがミサや説教、布教活動を行うようになると、その姿に感銘を受けたエゼルベルフト王も改宗を決意した。

『布教者たちがこの教会で讃美歌を歌い、祈り、ミサを捧げ、説教し、洗礼を施し始めると、ついに王自身もこの信仰に回収する決意を固めた。(中略)聖人たちの汚れのない生活を目の当たりにし、またさまざまな奇跡によってその信憑性を確認させる甘美な魅力にとらわれた王は、大勢の家臣とともに喜んで洗礼を受けるのだった。』(4高橋博(2008)46頁

「エゼルベルフト王に説教する聖アウグスティヌス」

「エゼルベルフト王に説教する聖アウグスティヌス」
Doyle, James William Edmund (1864) “The Saxons” in A Chronicle of England: B.C. 55 – A.D. 1485, London: Longman, Green, Longman, Roberts & Green, pp. p. 25
Credit: James William Edmund Doyle, Public domain, via Wikimedia Commons

エゼルベルフト王らの洗礼後、アウグスティヌスはグレゴリウス1世に使者を送り、エゼルベルフト王の改宗を報告するとともにブリテン島での布教と司教座の運営に関して九項目に渡る支持を仰ぎ、グレゴリウス1世はこれらへの回答とあわせてメリトゥス、パウリヌスら追加の宣教師を遣わせ教会運営に必要な備品や書物を贈った。

エゼルベルフト王は改宗の後、アウグスティヌスのためにカンタベリーに聖ペテロと聖パウロを奉献した教会の建設を命じ、アウグスティヌス死後に完成、後に聖オーガスティン修道院となった。以後、聖オーガスティン修道院は1538年にイングランド宗教改革で解体されるまでブリテン島南部における学問と文化の中心地として栄えることとなった。また、アウグスティヌスら宣教団によってカンタベリーに聖職者教育のための学校が設立されたと考えられており(5チャールズ=エドワーズ(2010)264頁)、1541年に設立されたカンタベリーのキングス・カレッジはこれを前身としているという(6History of the School“. The King’s School, Canterbury.)。

ブリテン島南東部での宣教は順調に進み、604年にはケント王国のロチェスターとエゼルベルフト王の甥セアベルフト王が治めていたエセックス王国のロンドンに司教座が置かれてアウグスティヌスの下からそれぞれユストゥスとメリトゥスが司教に任じられた。一方で、アイルランド人宣教師らの影響が大きいウェールズ地方のブリトン人の司教たちとの間ではローマ教会とは違う慣習や復活祭の日付計算方法などを巡って議論が行われ、アウグスティヌスは強く批判と警告を行ったが物別れに終わった。両者の溝が埋まるのは、664年、ノーサンブリア王オスウィウが主催したウィットビー教会会議と続く672年にカンタベリー大司教テオドロスが主催したハートフォード教会会議を経てローマ式の典礼に統一されて以降のこととなる。

604年5月26日、アウグスティヌスは亡くなり、アウグスティヌスに仕えた司祭のローレンスが第二代カンタベリー大司教となった。アウグスティヌスにの遺骨は聖オーガスティン修道院が完成すると同修道院に埋葬され、死後聖人として崇敬を集めるようになると巡礼地として人気となった。聖オーガスティン修道院は廃止後廃墟となったが、1988年、「カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン大修道院及び聖マーティン教会」として世界文化遺産に登録され、聖オーガスティン大修道院跡にはアウグスティヌスの墓と伝えられる墓碑が置かれている。

参考文献

脚注

  • 1
    「第三章 キリスト教への改宗」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、164頁)
  • 2
    メロヴィング朝フランク王国は建国者クローヴィス1世を継いだクロタール1世死後、子どもたちの間で四分割された。カリベルト1世はクロタール1世の三男でパリ周辺を支配する分王国の一つパリ王国の王。
  • 3
    高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、44頁
  • 4
    高橋博(2008)46頁
  • 5
    チャールズ=エドワーズ(2010)264頁
  • 6
    History of the School“. The King’s School, Canterbury.