コンミウス(Commius)はフランス北東部アルトワ地方に居住していたベルガエ人部族アトレバテス族の王。紀元前57年、カエサルがアトレバテス族を征服したあとカエサルによって王に推挙された。ブリタンニア遠征(紀元前55~54年)などカエサルの同盟者として活躍しアトレバテス族の勢力を拡大したが、紀元前52年、ウェルキンゲトリクスの反乱に協力してローマ軍に敗北、ブリテン島へ逃亡した。ブリテン島で再起しハンプシャー州・ウェセックス州にかけてのブリテン島南部一帯にアトレバテス族の勢力を確立した。
カエサルの忠実な同盟者として台頭
コンミウスはカエサルの「ガリア戦記”De Bello Gallico”」第四巻に初めて登場する。前55年、ユリウス・カエサルのブリテン島遠征に際してローマ軍に先立ってブリテン島へ使者として派遣されたこと、カエサルがアトレバテス族を征服した前57年、カエサルによって王に据えられガリア地方に権威を持っていたこと、カエサルが「いつも彼の徳性と思慮を尊重し、忠実な友と信頼していた」人物であることが記されている(14.21、カエサル(1994)『ガリア戦記』講談社、講談社学術文庫、139頁)。
前55年、ローマ軍はブリテン島への上陸に際してブリトン人と戦闘になり辛うじて勝利するが、このときブリトン人側から平和使節とともに捕虜となっていたコンミウスが送り返される(24.27、講談社(1994)143-4頁)。上陸後、アトレバテス族の騎兵三十騎を率いてカエサル直属下で戦った(34.35、講談社(1994)148頁)。翌前54年の第二次ブリタンニア遠征ではブリトン人指導者カッシウェッラウヌスがコンミウスに降伏の仲介を頼み降伏条件に関する折衝の窓口となっている(45.22、講談社(1994)169頁)。
カエサルはブリタンニア遠征から戻ると軍を解散させたが、前54年、この隙を狙ってベルガエ人部族エブロネス族の王アンビオリクスが他のガリア系部族と結んで反乱を起こした。前53年、エブロネス族の領土に隣接する、かねてからカエサルに使節を送っていなかったメナピイ族への抑えとして、カエサルはコンミウス率いるアトレバテス族騎兵部隊をメナピイ領に駐留させた(56.6、講談社(1994)208頁)。
カエサルへ敵対して転戦
カエサルはコンミウスの功績に報いるためアトレバテス族への免税、自治権の返還とあわせて隣接するモリニ族への宗主権を与えるなど厚遇した(67.76、講談社(1994)302頁)。しかし、カエサル死後にカエサルの側近であったアウルス・ヒルティウスによって補足された「ガリア戦記」第八巻によれば、前53年、カエサル不在時の総督代理(レガトゥス)であったティトゥス・ラビエヌス(7國原訳ではガイウス・トレボニウスとされているが他の日本語訳およびThe Project Gutenbergの”De Bello Gallico”英語版とラテン語版を確認するといずれもティトゥス・ラビエヌスとなっている)はコンミウスが諸部族を扇動して反乱を企てていることを知り、コンミウスを呼び出して騙し討ちにしようとした。コンミウスはラビエヌスに送り込まれたガイウス・ウォルセヌスの一撃を頭部に受けて重傷を負いながらもその場を脱出し、一命を取りとめた。ヒルティウスによれば「この事があって以来、コンミウスは、ローマ人の居合わせるところなら、どこにもけっして行かないと決心したといわれている」という(88.23、講談社(1994)337-338頁)。
前52年、ガリア系部族アルウェルニ族の指導者ウェルキンゲトリクスがローマ支配に対して反乱を起こすとコンミウスもアトレバテス族を率いて反乱軍に参加。アレシアの戦いではカエサル率いるローマ軍に包囲されたアレシア市に籠るウェルキンゲトリクス軍を助けるため最高指揮権を持つ四将の一人として救援軍を率いた(97.76、講談社(1994)302頁)。
アレシアの戦いがガリア側の敗北に終わると戦場から離脱、アトレバテス族の西に勢力を持ったベッロウァキ族のコッレウスと協力してカエサルに対抗した(108.6、講談社(1994)325頁)。カエサルが進撃してくるとコンミウスはゲルマニアに赴いて(118.7、講談社(1994)326-327頁)500名弱のゲルマン人援軍を連れて戻り士気が大いに上がった(128.10、講談社(1994)329頁)が、ローマ軍の伏兵攻撃で壊滅、コッレウスは戦死したが、コンミウスはさらに戦場からの脱出に成功してゲルマニアへ逃れた(138.19-21、講談社(1994)334-336頁)。
紀元前51年、カエサルはマルクス・アントニウス以下四個軍団をベルガエ人の勢力下に配置して抵抗への抑えとした(148.46、講談社(1994)352頁)。これに対してコンミウスが武装蜂起を扇動したり、騎兵部隊を率いてローマ軍の輸送部隊を奇襲攻撃するなどゲリラ戦を展開したため(158.47、講談社(1994)353頁)、この年の冬、総督代理アントニウスはかつてコンミウスを襲撃した因縁深い騎兵隊長ウォルセヌスにコンミウスの追撃を命じた。
『伏兵をあちこちにばらまき、しばしばコンミウスの騎兵を強襲して、幸運な戦いを進めた。最後の出会いは、それまでになく壮烈な戦闘となる。ウォルセヌスは、目指すコンミウスを突き殺したい一念に燃え、少数の部下とともに、いよいよ執念深く追跡した。一方コンミウスはすさまじい勢いで遁走し、ウォルセヌスをわざと遠くまで誘っておき、突然、このウォルセヌスの仇敵は、部下に向かって忠実な援助をよびかけた。「この男を信頼したばかりに蒙った予の傷の、復讐をさせてくれ」と。コンミウスは、自分の馬の鼻向きを変えると、大胆不敵にも部下の騎兵を引き離し、騎兵隊長に突貫してくる。これを見倣って、部下の全騎兵も無勢のローマ兵を退却させ追跡する。コンミウスは馬に拍車をあて、ウォルセヌスの馬と轡を並べると、恨みをこめた騎兵槍を、彼の太腿の真ん中をめがけて、力いっぱいぐさりと突き刺す。騎兵隊長が傷を負うと、わが騎兵はためらわずに、手綱を締め、馬の向きを変え、敵を追い払う。すると敵の大半は、味方の烈しい攻撃に動揺し負傷する。ある者は逃亡の途中落馬し、ある者は殺される。将軍コンミウスは、駿足の馬を飛ばし、これらの不幸を逃れてしまった。』(168.48、講談社(1994)354頁)
辛くも戦場から離脱したコンミウスだったが兵力を失ったためか、アントニウスのもとへ使者を送り降伏を申し出た。ただし出頭は拒否して自分は今後命じられた場所に住むこと、人質を出すことを申し出るに留まった。これをアントニウスは許可したという(178.48、講談社(1994)354-355頁)。
ブリテン島で王権を確立
セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(40頃-103年没)の著書「戦術論”Stratagemata”」によれば、コンミウスはカエサルの追撃を逃れてイギリス海峡から海を渡ってブリテン島へ渡ったという。コンミウスが海峡に到達したとき、風は強いが潮が引いており干潟の座礁した船に帆を張って海へ出た。遠くから追いかけていたカエサルは、帆が風に乗って膨らんでいるのをみて追いつけないと悟り、追跡をあきらめた(18Sextus Julius Frontinus, Stratagemata 2:13.11)。
コンミウスは紀元前30年頃までにブリテン島でアトレバテス族の王としてテムズ川の南側、現在のハンプシャー州からサセックス州にかけての一帯にカッレウァ・アトレバトゥム(現在のシルチェスター)を首邑として支配を確立した。
コンミウスの名が刻まれた貨幣が複数出土しており、彼の名が刻まれた貨幣は前20年ごろまで発行されている。その後のアトレバテス族を支配した三人の王ティンコマルス、エッピルス、ウェリカは皆コンミウスの息子として自らの名を刻んだ貨幣を発行した。ただし、彼らが実際にコンミウスの子であったかは不明で、彼らはみな親ローマの指導者であったから、ローマでも名の知られたコンミウスの名を使うことでの政治的宣伝効果を目的としていたとも考えられている(19ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、28-29頁))。
アトレバテス族は西暦41~42年頃、カトゥウェッラウニ族によって征服され、ウェリカ王(20歴史家カッシウス・ディオが「ローマ史」で記すベリコスという人物と同一人物とみられている)はローマへ逃亡しクラウディウス帝の庇護を求めた。これがローマ帝国によるブリテン島侵攻の口実となり、西暦43年からローマ帝国によるブリタンニア征服戦争が開始される。
参考文献
- 南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書
- カエサル(1994)『ガリア戦記』講談社、講談社学術文庫
- サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会