ベーダ(英語:Bede,Beda/古英語:Bæda)は七世紀後半から八世紀前半にかけて活躍したイングランド北部ノーサンブリア王国の修道士、歴史家。673年生-735年5月26日没。「尊者ベーダ」(ラテン語:Beda Venerabilis)とも呼ばれる。同時代のノーサンブリア王国で興った文化・芸術活動の隆盛期「ノーサンブリア・ルネサンス」を代表する知識人で、「アングル人の教会史」を始めとする多数の著作で知られ、中世前期のヨーロッパを代表する知識人の一人に位置づけられている。「教会博士」の一人。
ベーダとノーサンブリア・ルネサンス
ベーダは673年頃、ノーサンブリア王国のタイン川河口付近(現在のイングランド北東部タイン・アンド・ウィア州)にあったジャロウ村に生まれ、七歳でダラムのモンクウィアマス修道院に入り、681年にジャロウ修道院に移った後、十九歳で助祭、三十歳で司祭となり、735年5月26日に亡くなるまで同修道院で過ごし、聖書研究・著作活動を行った(1高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、320頁)。リンディスファーンやヨークを訪れた以外、生涯をほぼ修道院周辺で過ごしていたという(2高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、333頁)
七世紀半ば、ノーサンブリア王国はオスウィウ王(在位:651-670年)による再統一を経て内乱が鎮められ最大の強敵だったマーシア王国にも勝利、安定的な治世を実現した。オスウィウ王の呼びかけで行われたウィットビー教会会議でローマ、アイルランド、ノーサンブリアの教会制度が足並みを揃えることとなり、続くハーフォード教会会議(672年)で全イングランドへ拡大、ノーサンブリアはキリスト教文化の最先端地域となった(3青山吉信(1991)「第4章 イングランド・スコットランド・ウェールズの形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、107-110頁))。このような背景で、若い頃アイルランドで学び深い学識で知られたアルドフリス王(在位685-704/705年)は学問と芸術を奨励、彼の治世下で八世紀半ば頃まで続く「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる文化・芸術活動の隆盛期が始まった(4Northumbrian Renaissance – The Anglo-Saxons)。
ベーダが所属したモンクウィアマスとジャロウの両修道院(あわせてモンクウィアマス=ジャロウ修道院”Monkwearmouth–Jarrow Abbey”と呼ばれる)は674年、ノーサンブリアの王族ベネディクト・ビスコプが創設したばかりの新しい修道院で、所属修道士たちに充実した教育が行えるよう「あらゆる神聖な教えに関する多くの書物」が集められ、聖書と教義書が約250冊揃った図書室が設けられていた。ベーダが本格的な著作活動を始める八世紀初頭、両修道院は西ヨーロッパの主要な知の中心の一つとして頭角を現し、国内のみならず海外にも大きな影響を与えた(5DeGregorio, S. (2016). Bede (Beda Venerabilis), c. 673–735 CE. Oxford Classical Dictionary.)。この充実した蔵書がベーダの著作活動を支えた。
ベーダの著作活動
ベーダは歴史書「アングル人の教会史(ラテン語:Historia ecclesiastica gentis Anglorum)」(731年)の著者として名高いが、現存するだけで48作(6DeGregorio(2016))、ベーダのものか不確かな作品も含めて100点以上(70627-0735- Beda Venerabilis, Sanctus\ – Operum Omnium Conspectus seu ‘Index of available Writings’(ローマ教皇に従う団体’Cooperatorum Veritatis Societas’によってローマ・カトリック教会に関する文書を公開されているウェブサイト’Documenta Catholica Omnia’のベーダの著作一覧ページ(ラテン語)))という多数の著作があったとみられ、その3分の2近くが聖書解釈の問題を扱い、年代学、天文学、文法、修辞学などの教科書の他、ラテン語詩など多岐にわたり、同時代に限らず英国史上でみても非常に多作な著作家の一人であった。また、死の直前には短い古英語の詩を作ったとも言われ、ベーダの弟子カスバートの書簡によって「ベーダ死の詩(Bede’s Death Song)」の名で残されているが、本当にベーダのものかどうかは議論がある。
「アングル人の教会史」は全五巻からなり、ブリテン島のアングロ・サクソン人がキリスト教に改宗し教会が発展していく布教の過程を描いた歴史書で特に七世紀から八世紀初頭にかけてのブリテン島の歴史については本書が最も主要な文献史料となっている。ベーダはブリテン島全体の教会史を描くにあたって、分立していた諸王国の人々を一つの斉一的なアングル人(イングランド人)という総体として認識していた点で画期的であった。『この島のさまざまな文化が集まってローマ教会支持を共通項とする完全な統一体になる過程を示すことで、そのような政治的実体の必然性と歴史的「正当性」を暗黙のうちに示した』(8ステイシー、ロビン・チャップマン「第六章 テキストと社会」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、306頁))ことで、後のイングランド統一に向けたアングロ・サクソン人という民集団のアイデンティティ形成に大きな影響があった。
ベーダは自身を聖書注釈者とみなしており、創世記、サムエル記、ソロモンの箴言、トビア、エズラ記とネヘミヤ記、マルコ、ルカ、使徒言行録、黙示録などに全体に渡って注解を加え、特定の節や章だけをピックアップして注釈を加えたり、各種の書簡なども幅広く取り上げるなど聖書の訓詁学的な著作を多く送り出した。また天文学に基づく復活祭の年代計算を行った著作群や、ラテン語の手引書、ラテン語の詩作に関する構成規則や比喩表現の解説書など修道院で若い修道士たちのための教科書などもみられる。あわせて歴史書や聖人・聖職者の伝記なども執筆しており、多分野に渡る深い教養と精力的な著作活動で、中世前期のヨーロッパを代表する知識人の一人に位置づけられている。
ベーダの死
734年11月、ヨーク司教エッジベルフトからの招きを病気で断った書簡があり、翌735年5月26日、61歳または62歳で亡くなった。弟子カスバートの書簡に師のベーダが亡くなるまでの詳しい記録があり、それによると復活祭の2週間前(3月中旬)から衰弱し、ときに呼吸困難に陥ったが苦痛は無く、明るく振る舞いながら日々の祈りを欠かさず弟子たちに教鞭を取り続けて亡くなったという(Life of Bede(Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library.))。遺骸はダラム大聖堂に移され、礼拝堂に埋葬された。
9世紀前半アーヘンで行われた公会議(837年)で尊者(Venerabilis)の称号が贈られ以後尊者ベーダ(ラテン語:Beda Venerabilis)と呼ばれることとなった。また、カール大帝に仕えカロリング・ルネサンス期の代表的な知識人として知られたアルクィンはノーサンブリア出身で、ベーダの弟子であったヨーク大司教エグバートに若い頃は師事しており、ベーダの孫弟子にあたる。アルクィンはベーダの著作を広めることに尽力した。九世紀後半、ウェセックス王アルフレッドは「アングル人の教会史」を古英語に翻訳(9古英語版: The Old English version of Bede’s Ecclesiastical history of the English people. (1890 edition) | Open Library)するよう命じ、また、アルフレッド大王が編纂を命じた「アングロ・サクソン年代記」の主要参考文献としてベーダの著作は多く利用された。1899年、神学や教義について多大な貢献をした人物だけに贈られる「教会博士(Doctor ecclesiae)」として認められ、キリスト教史上有数の聖職者の一人となっている。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- DeGregorio, S. (2016). Bede (Beda Venerabilis), c. 673–735 CE. Oxford Classical Dictionary.
- Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library.
- Northumbrian Renaissance – The Anglo-Saxons
- 0627-0735- Beda Venerabilis, Sanctus\ – Operum Omnium Conspectus seu ‘Index of available Writings’